地方新聞 (1)

 先日の新聞に興味深い記事があった。毎日新聞'17・3・30。地方新聞のことを書いた、かなり大きな記事である。
 茨城県南部の「常陽新聞」が休刊する、ということから始まる。この件が終ったあと、「20年で30社減」という見出しの記事がある。「96年に全国で150社前後あった地方・地域紙(経済紙・業界紙除く)が、20年間で約30社減った」とある。
 これを見ておどろいた。いや三十社減ったのにおどろいたのではない。まだ百二十もの地方新聞が出ている、ということにおどろいたのである。全国の県の数は四十いくつくらいだろうから、だいたい一つの県に三つくらいもの地方新聞が今も毎日出ていることになる。
 「過去20年で姿を消したおもな地方・地域紙」のリストがある。そのなかに「岡山日日新聞」がある。記事中にも「11年「岡山日日新聞」が姿を消した」とある。
 わたしは昭和四十年代から五十年代ごろ、つまり一九六〇年代から七〇年代のころに岡山にいた。半世紀もの昔である。
 言われてみると、「岡山日日新聞」という新聞があったような気がする。しかし岡山県は断然「山陽新聞」の天下であって、病院などいろんな所へ行っても、おいてあるのは山陽新聞であった。
 わたしは若いころから中年にかけて日本のあちこちにいたが、どこにいる時にも新聞は中央紙(朝日、毎日、讀賣など)をとっていた。その土地のことをよく知らなかったからである。しかし医者などへ行くと、たとえば岡山なら待合所においてあるのは山陽新聞だから、山陽新聞を見ることはよくあった。
 だから、その当時からめったに目にすることのなかった岡山日日新聞が、'11年までがんばっていたことを知って、びっくりし、えらいものだ、と感心したのである。
 なおここ二十年になくなった新聞のリストを見ると、東日本のが多く、北海道の新聞が三つも含まれている。

 若いころ日本のあちこちにいたが、県紙がないようだなあ、と思ったのは滋賀県である。滋賀県は中央に大きく琵琶湖があって、わたしは湖西にいたが、湖西は「京都新聞」の範囲であった。湖東は「中部日本新聞」(「中日新聞」だったか?)の領域だったようである。
 鳥取にいたこともある。ここは鳥取県だけの新聞はなくて島根県とあわせての新聞だったように記憶する。名称は忘れた。鳥取県は県人口が日本一少いのだと聞いたような気がする。
 滋賀と鳥取を別とすれば西日本は県単位の新聞が多く、東北日本は一県を複数の地域に分割した地域単位の新聞が多いようである。

 昔(戦前)は、地方新聞が数多くあった。戦争(対米英戦争)が始まると、政府や軍が、こんなに新聞は要らない、地方新聞は一つの県に一つあればたくさんだ、と強引に合併させて、原則一県一紙にしてしまったそうだ。
 またそれも無理なかったらしい。昭和二十年ごろの新聞は、半ペラ一枚であった。紙がないゆえである。一県一紙にせざるを得なかったわけだ。
 従来から或る新聞を取っていた家は、ひきつづきそれを取る権利がある。わが家は前から朝日を取っていたから朝日を取る権利があり、実際取っていた。
 新たに取るのはダメである。だからたとえば若い男女が結婚して家をかまえたとしても、新聞は取れないわけである。ぜひ取りたければどこかのを回してもらうほかない。回せばもちろんその家は新聞が来なくなる。
 そこで取りたい家は、新聞屋に食いものを持って行ったり衣類を持って行ったりして懇願することになる。その贈り物が十分であれば、新聞屋はどこかの家のを取りあげて回してやる。新聞屋は権力者なのである。
(つづく)

鞍馬天狗 (2)

 加太こうじ『紙芝居昭和史』('71立風書房、現在岩波現代文庫)によると、わたしども子どもが見たような紙芝居、つまりおっさんが絵を見せながらひとくさり説明して、次の一枚を見せてまた説明して……という紙芝居ができたのは存外新しく、昭和五年なんだそうである。つい十年あまり前にできた新事物だったのだ。そして子どもをテレビに取られて紙芝居が衰退するのは昭和三十二年からだそうだから、紙芝居が盛んだったのは僅か三十年足らずなのである。加太さんはこの期間に紙芝居の絵をかいていた人なので、よくごぞんじなのである。
 紙芝居屋のおっさんの数は、昭和二十三年末に東京で三千人、二十五年に全国で五万人、とある。戦前・戦中にも全国で万をこえる紙芝居屋がいたに相違ないと思う。紙芝居の絵をかく人の收入は学校の校長先生より多かった、とある。
 この『紙芝居昭和史』には紙芝居の主題(主人公)も数々出てくるが、意外や鞍馬天狗はほとんど出てこない。僅かに一ヶ所、
〈似顔紙芝居というのは話の日本社で鳥居馬城が昭和六年頃からやっていたが、嵐寛寿郎の似顔の『鞍馬天狗』だけだった。〉
とたったこれだけである。
 紙芝居の主人公は数々出てくる。共通点は「正義の味方。強い」である。このかんたんな、しかし強烈な特徴をそなえた人物が活躍すれば、子供たちが集ったのである。鞍馬天狗ももちろん正義の味方で強い。
 右の短い引用部分によって、鞍馬天狗は映画が先であり、映画の天狗役アラカン(嵐寛寿郎)を模して紙芝居の鞍馬天狗ができたことがわかる。
 小川氏著によれば、大佛次郎の小説鞍馬天狗が最初に発表されたのは一九二四年(大正十三年)雑誌『ポケット』にのせた「快傑鞍馬天狗 第一話 鬼面の老女」で、その年のうちに映画化された。以後小説も映画も数十年つづく。映画で天狗役を演じた人も多く、この本には役者の名を列挙してある。しかしアラカンが多かったのだろう。
 わたしは幼時から本好きであったから、小説の鞍馬天狗も読んだに相違ないが、一つもおぼえていない。記録もない。
 映画も、記憶は一つもないが、さがしてみたら、記録が一つだけ見つかった。
 見たのは昭和二十六年九月一日、中学三年生である。午前中に二学期の始業式だけで、午後映画を見に行ったのだろう。
 所は住んでいた相生(あいおい)(兵庫県西南部)の映画館である。多分友だち何人かといっしょに見に行ったのだろう。鞍馬天狗はアラカン、杉作役が美空ひばりである。かりにこの映画の製作が昭和二十五年度とすると、ひばりは中学一年生である。ひばりは小学生の時から売れっ子歌手で、映画も小学生の時から出ている。この映画も、ひばりの杉作、というのが売りだったのだろう。
 左に、わたしの記録をそっくりそのまま全文引く。

 〈〔映画名〕角兵衛獅子
 〔監督〕大曽根辰夫
 〔主演〕嵐寛寿郎 美空ひばり
 〔場所〕相生館
 〔日〕九月一日
 〔あらすじ〕時は幕末、所は京都である。その頃、幕府を倒して、天皇に再び政権を戻そうとする者がぞくぞくと殺される。中でも特にネラわれているのが、通称鞍馬天狗である。数多くの志士の中でも、彼だけは捕え次第、ぎんみなしに殺していい事になっている。
  さてある時、彼は松月あんという寺で角兵衛獅子の杉作(ひばり)を助けた事から、新撰組に居所を知られ、殺されかけるが、杉作のおかげで助かり、角兵衛獅子の親方で目あかしの長七から子供たちを全部引き取って薩摩屋敷にあずける。鞍馬天狗は西郷から、大阪城へ志士の人名簿を取りに行く密使をおそって人名簿をとって来る事を頼まれる。そして新撰組のおとりに引っかかろうとするが、杉作が聞いていたので助かり、大阪城へうまくはいり込むが、ついに捕る。そして、水責めにされて今やという所を杉作にまた助けられる。やがて病気のなおった彼は近藤勇と一騎うちをして勝ち、江戸へ行く。
 〔テーマ〕幕末における志士、特に天狗の命を投げ出しての斗い。
 〔感想〕ひばりを杉作にしたのは面白いかも知れぬが、顔、声、身振りなどどう見ても女である。女が男になっているのだと知りつつ、映画に出て来る杉作は女だという観念は打ち消しがたい。
 これのロケは姫路の城でやっているので、ああ、あそこがあそこだ、あれはあすこだと、なかなか面白かった。ロケしているのを見に行ったらよかった。

鞍馬天狗 (1)

鞍馬天狗(くらまてんぐ)

 小川和也『鞍馬天狗とは何者か 大佛次郎の戦中と戦後』('06藤原書店)を読んだ(以下この本を「小川氏のこの本」「この本」と言います)。
 鞍馬天狗は、戦争中、われわれ子どものヒーローであった。
 近ごろは鞍馬天狗も大佛次郎も知らない人が多くなっているらしい。この本に、ある大学の文学部の授業で大佛の作品を取りあげたが、その教室で大佛次郎を「オサラギ次郎」と読めた学生は皆無だった、とある。よけいなことながら書いておくならば、大佛次郎は昭和の時代の大衆小説作家(一八九七―一九七三)、鞍馬天狗はその作品の主人公である。
 この本の著者小川氏は一九六四年生れとある。一九六四年は昭和三十九年だから当然鞍馬天狗と同時代ではない(もっとも天狗の最後の作品が新聞に掲載されたのは一九六五年だそうだからちょっとだけひっかかってはいる)。日本思想・近世思想史の研究者とのこと。

 わたし(高島)が鞍馬天狗を知ったのはまず紙芝居である。紙芝居と言っても今では知らない人が多かろうが、――紙芝居屋のおっさんが拍子木をカチカチと鳴らして町内をまわる、子どもたちが集る、その場所は毎日決っている、おっさんはコブを(アメだった時期もある)売る、絵を見せめくりながら語る――という段取りである。わたしがおぼえている時期ずっと鞍馬天狗であった。
 途中、多分昭和十九年の暮か二十年の初めからだったろうが、紙芝居の前におっさんのひとくさりの説教が加わった。役場の人に命じられたのだろう、見るからに気の乗らない、いやいやながらの顔つき、口ぶりで、――いよいよ空襲は激しくなる、これに負けてはならない、必ずはね返してアメリカに勝つ、というようなことをぼそぼそと話す。それから突然、顔が明るくなり、声にも張りが出て、「鞍馬天狗第百七十五回であります」と始るのである。子どもたちも無論、空襲心得などを熱心に聞いてはいない。鞍馬天狗が始ると元気が出る。
 鞍馬天狗は架空の人物である。しかし周辺に登場する人物や時代情況はほぼ皆歴史上実在、ないし実在にもとづいている。無論わたしどもは子どもであるから、実在とか虚構とかの観念はないが、あとから見ればそうである。
 時は幕末である。所は京都とその周辺である。鞍馬天狗は勤皇方の武士である。ただし勤皇方の武士集団に属する武士ではなく、常に一人である。仲のよいのは角兵衛獅子の杉作少年だけである。仇(かたき)役は新選組である。強くて正しい鞍馬天狗の仇役なのだから、新選組もそれなりに強い。その大将が近藤勇である。紙芝居屋のおっさんは、近藤イサム、と言った。だからわたしどもも近藤イサムとしてその名をおぼえた。当時はそれがふつうだったのか、それとも紙芝居屋のおっさんの言いかただったのか、知らない。
 たとえば、桂小五郎が新選組に襲われて「あやうし」という段になると、覆面の鞍馬天狗が(鞍馬天狗は常に覆面である)白馬にまたがってさっそうと駆けつけ、新選組を追い散らして桂小五郎を救うのである。
 この小川氏の本には、紙芝居のことは書いてない。多分小川氏は戦後三十年もたってからの研究者だから、紙芝居の鞍馬天狗のことはごぞんじないのだろう。
(つづく)

発刊のご案内

お言葉ですが…別巻7
『本はおもしろければよい』
が2017年3月10日、連合出版より新刊発売されました。定価(2200円+税)です。ご覧いただければ幸いです。

ヤギ 山羊 (2)

 次は漢字表記についてのべる。漢字表記は、この動物(いま日本でヤギと呼んでいるこの動物)を指すとは限らない。
 いま日本でヤギを漢字で書く際、たいがいの人が「山羊」と書くのであろうから、この字について最初に申します。これで「ヤギ」とよむ。初めの所で言ったように、なんで「山」をヤ、「羊」をギとよむのか、気にしないようである。
 『大漢和辞典』(大修館書店)の「山羊サンヤウ」の項に「〔説文〕□〔「鹿」の下に「咸」の字…以下同〕、山羊而大角者」とある。「説文」は『説文解字』、A.D.100年にできた漢字典である。「山羊而大角者」とある。「山の羊であってツノの大きなもの」の意である。ここの「山羊」は についての説明である。□は、山にいる、羊に類する動物である。
 □は無論ヤギではない。二千年も前の中国の山にいた野生動物である。ヤギは十六世紀にオランダ人が日本へつれてきた家畜である。ここ(説文解字)に「山羊」という漢字列があるが、ある特定の動物を指す語ではない。□についての説明の語である。
 日本において「山羊」という漢字列をある特定の動物を指すものとして用いた最初の文献例は、杉本文によれば、平沢元愷『瓊浦偶筆』(一七七四)である。これに「ヤギウ 山羊与本艸綱目載山羊不同」とある。
 平沢元愷は京都の漢学者で、この本は長崎に遊んだ時のことを書いたもの、とのことである。「遊んだ」とは旅行した意である。
 ここで平沢元愷は「山羊」という漢字列をある特定の動物を指す語として用いている。多分いまの日本語で「ヤギ」と呼ぶ動物を指すのだろう。「ただし本草綱目〔ほんぞうこうもく〕に出てくる山羊ではありませんよ」と注釈を加えている(艸と草とは同じ字の二つの書きかた)。
 『本草綱目』は中国明〔みん〕代の物名研究書。植物・動物・鉱物について、その名と、それが指すモノについて研究した本である。
 これに「山羊」の項があり、『大漢和辞典』によれば「釈名、野羊・ 羊、集解、弘景日、山羊即爾雅峻羊、出西夏、似呉羊、而大角、……(引用長い)、謂之山羊」とあるよし。つまり本草綱目に「山羊」の項があって説明があるが、いま(十八世紀後半)日本でヤギと呼んでいる動物と、本草綱目の「山羊」の項で言う動物とは、別の動物ですよ、ということである。これも当然である。本草綱目の「山羊」は中国の山にいる野生動物であり、日本の「ヤギ」はオランダ人がつれてきた西洋の飼育動物(殺してその肉を食うために飼っている動物)なのであるから。
 本草綱目の「山羊」について杉本文は「文字どおり山にいる羊の一種で、カモシカのようなものをさすようだ」と言っている。
 杉本文によれば、漢字列「山羊」を直接「ヤギ」と読んだ最初の例は『英和対訳袖珍辞書』の再版本(慶応二年刊、一八六六)である。江戸時代末期の英和辞典である。「袖珍」はポケットの意、つまりポケットに入るような小型の英和辞典である。初版本が文久二年(一八六二)に出ている。それではGoatの訳は「野牛」である。四年後の再版本でGoatの訳が「山羊(ヤギ)〔ヤギ〕」になっている。――以上は日本語「ヤギ」の話である。
 次は漢字語の話。
 この動物を指す日本の漢字列で、杉本文があげる最も早いものは、新井白石『西洋紀聞』『采覧異言』の「ボッコ(ヵ) 野牛」である。「ボッコ」はオランダ語Bokである。これは英語のgoatに当る。すなわちヤギである。日本語は開音節語であるから音節末に母音がつく。つまりBokは日本語にすると、ボッカかボッキかボックかボッケかボッコかになる。白石はその代表としてボッコとボッカをあげているわけである。
 白石はボッコに相当する漢字列を「野牛」としている。白石と「野牛」について杉本文に左のようにある。
  〈白石の〈野牛〉は長崎通詞、今村英生から教授されたことはつきとめ得たので、まず長崎での〈ヤギ〉の使用や表記を考えてみることにした。〉
 これで全部である。たったこれだけである。白石と「野牛」にかかわるのはこの前半だけである。白石の「野牛」は長崎通詞の今村英生という者から教えられた、とたったこれだけである。今村英生なる通詞についての紹介もない。「つきとめ得た」と言うが、何によってつきとめ得たのか、何もない。何か本で見たのなら、それがどういう題の本かどういうことを書いた本か、ちょっと書いといてくれたらよさそうなものだが何もない。誰かに話を聞いたとか小耳にはさんだとかなら、ちょっとそう書いといてくれたらよさそうなものだが何もない。ただ「今村英生」という漢字四字は明確に書いてあるので、何かで見たのだろうが、それならちょっと何で見たのか書いてくれてもよさそうなものだ。なんでこんな不親切な、舌足らずな言いかたをしたのか、ふしぎである。
 白石が『西洋紀聞』『采覧異言』に「ボッコ(ヵ) 野牛」と書いた時、四足の哺乳類の動物を考えたことは確かだろうが、いま日本語で「ヤギ」と言う動物を思い浮べていたかどうか。今村英生は長崎通詞でヤギ(今われわれがヤギと呼んでいる動物)を見たことのある人であり、その人が説明したのだから、だいたい思い描き得たのではなかろうか。それを「野牛」という漢字二字で書いたのである。白石が「ボッコ 野牛」と書いたのは一七〇〇年前後のことだろう。
 杉本文が引く、書いた時期がはっきりしている漢字列「野牛」は、先にも引いた広川獬の『長崎聞見録』(寛政九年刊、一七九七)である。白石より百年ほどあとである。この広川という人は医者であり学者である、とある。平生は江戸にいた人なのか京都にいた人なのか杉本文には書いてないが、長崎に前後六年滞在したとある。前にも言ったようにこれは絵つき研究である。項目見出しは「野牛〔やぎう〕」で、本文のおしまいに「野牛〔やぎう〕ハ和名(わみやう)〔わみやう〕也」とある。すなわち「野牛〔やぎう〕」は日本語である。
 杉本文が引くこれとほぼ同時代の、長崎通詞楢林重兵衛の『楢林雑話』(寛政十一年、一七九九)にはこうある。
  〈玉をやはらぐるには、ヤギ(野牛)の血をぬる、〉
 長崎では「野牛」と書いて「ヤギ」と言っていたようである。
 杉本文によれば、上の『長崎聞見録』と同じ一七九二年に江戸で成立した宇田川玄隨『西洋医言』には、
  〈野羊謂之勃窟〔ボク〕〉
とある。六年後の森島中良『類聚紅毛語訳』(寛政十年、一七九八)にも、
  〈野羊〔ヤギ〕 ボック〉
とある。漢字表記が「野羊」になっている。「野」は「蛮」の意、つまり「西洋人の」の意かもしれない。羊はもともと日本に棲息する動物ではないが羊という動物のイメージはあって、ヤギ(今われわれがヤギと呼んでいる動物)は牛というより羊に近いから、江戸では字を変えて「野羊」と書いたのかもしれない。いや、杉本文がそう推測しているわけではありません。わたし(高島)が勝手に思っただけ。
 ほかにもこのころ江戸で書かれた本で「野羊」と書いたものを杉本文があげている。「野羊」と書いて「ヤギ」と読めば、「羊」の字をギと読むことになる。杉本文は「〈野牛〉が西、長崎を発生源とし、〈野羊〉は東ということはほぼ確実だと思う」と言っている。
 杉本文によれば漢字列「山羊」は中国語から来たものらしい。釈顕常『学語篇』(明和九年刊、一七七二。これは中国語の語彙集のよし)に「山羊」が出ているそうである。日本の本では、幕末、宇田川榕庵(ヨーロッパの自然科学を専攻した動物学者とのこと)の学術用語辞典に、
  〈bok.母山羊、メヤギ〉
とあるよし。同書は中国語訳を尊重して訳語を選定しているので、「山羊」(中国俗語)も江戸においては一般的だったのだろう。と杉本文は言っている。「俗語」は口語の意。
 つまり、漢字「山羊」は中国語、中国の話言葉、という次第なのであった。
 わたし(高島)は中国の動物のことなんかまるっきり知らない。しかし、想像するに、ヤギ(いま日本人がヤギと呼んでいるあの動物)は、もともと中国に棲息する動物ではなくて、やはりいつのころか西洋人がつれて来たものだろう。それは、上に言ったように、明〔みん〕代の書である『本草綱目』に漢字列「山羊」は見えるけれども、それはヤギ(いま日本人がヤギと呼んでいるあの動物)ではなくて、中国の山にいるカモシカのような野性動物であることからもわかる。
 西洋人が中国へヤギ(といまわれわれ日本人が呼んでいるあの西洋人の飼育食用動物)をいつつれてきたか知らないが、まあ明〔みん〕代だろう(ヨーロッパ人が地球上のあちこちの地域へ多数出かけて行って観察したり支配したりするのは中国の明代に当る時期だからである。明は十四世紀後半からである)。それを見て中国人のだれかがshān yáng(シャンヤン)と言ったのだろう。中国は広くて何千万も何億も人がいる。明代に本草綱目の著者の学者が自分の著述の中で漢字列「山羊」を山にいる一種の動物を指すものとして用い、西洋人がつれてきたヤギ(といま日本人が呼んでいる動物)を見たその地方の中国人がshān yángと呼んだとて、何のふしぎもない。
 西洋人がつれてきた飼育動物をその中国人がなんでshān yáng(山羊)と言ったのか、つまりなんで「山」をつけたのかわからないが、あるいは「蛮人の」(西洋人の)のつもりかもしれない。もちろん、単なるわたし(高島)の想像、思いつきである。
 いま中国であの動物がshān yángと呼ばれていることはまちがいない。英漢辞典でgoatを引くと「山羊」とある。倉石中国語辞典(中国人の話し言葉の辞典)でshān yángを見ると、日本語訳「山羊」とある。日本でヤギを「山羊」と書くのは、字は中国語なのである。それを強引に直接「ヤギ」と読んでいるわけだ。
 以上かんたんにくり返すと――
 この動物は多分室町ごろにオランダ人が長崎へつれてきた。日本人(主として通詞)はこれをオランダ語でそのままボッコ・ボックなどと言い、字で書く時は「野牛」と書いた。これを音声で読む時は、ヤギウ・ヤギと言った。江戸時代にこの動物は日本の東にひろがり、呼名のヤギウ・ヤギもともなった。江戸では字で書く時は「野羊」と書いた。漢字「山羊」は中国語である。これも広く使われるようになった。今の日本人はこの漢字「山羊」を直接「ヤギ」と読んでいる。しかしもともと日本語「ヤギ」と中国語の漢字「山羊」とは由来がちがい無関係なんだから、「山」をヤとよみ「羊」をギとよんだわけではない。以上、日本語ヤギの朝鮮語由来の線は出てこなかった。多分その線はないのだろう。

プロフィール

たかしまとしお

Author:たかしまとしお
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