潜入ルポ 中国の女

福島香織『潜入ルポ 中国の女  エイズ売春婦から大富豪まで 』 (文藝春秋)

〈たくましく生きる「女強人」の群像〉

 中国のさまざまな女性についてのレポートである。著者は産経新聞の元中国特派員。
 「女強人」(しっかりした女たち)についてのところがとりわけおもしろかった。
 胡蓉〔こよう〕は一九七一年生れ、「恐らく中国初の女流少年漫画家」である。中国にはこれまで、子ども向けの漫画というものがなかったのだ。
 先天的な下肢障碍者である。生れつき足が曲っているらしい。「五歳になってやっと立つことができ、七歳半になって、なんとか歩くことができた」とある。
 中国は、身体障碍者に対して冷酷な社会である。彼女は小学校にも中学校にも行けなかった。読み書きは母親に教わった。
 絵が好きだった。しかし紙がない。父親の煙草の包紙をこっそり拾って、その裏にかいていた。
 父は大学を出た農業技師、母は中学校の美術教員、という知識人家庭で、もう一九八〇年代だのに、家に紙がなかった、というのが中国らしい。
 たまたま母親がベッドの下を掃除していてこの包紙を見つけ、娘のただならぬ才能に気づいて絵具を買い与えた。それで連環画〔れんかんが〕(絵物語)をかき始めた。
 母親がそれを知り合いに見せたのがきっかけで、作品が地元新聞に掲載され、十七歳の時には全国誌に連載されるようになった。
 小学校にも行ってないのに北京の美術大学に合格。卒業後かいた漫画が国際賞を受けて日本に招待され、日本の漫画のレベルの高さを知った。「中国で漫画のパイオニアになるには、日本に行くしかない」と日本に漫画留学した。
 日本で、この障碍に負けないガッツと明るい性格に惚れた日本青年と結婚、二児ができ、漫画家としてやってゆけるようになったが、中国で漫画雑誌をつくりたい、と北京にもどった。早ければ今年(二〇一一)中に、少年ジャンプのような中国初の月刊少年漫画雑誌が生れるとのことである。
 候文卓〔こうぶんたく〕は人権活動家。一九七〇年生れ。全国の、人権を侵害された人たちを、個人で、もちろんすべて私費で、支援する人である。
 英国のオクスフォード大学と米国のハーバード大学で人権を学び、国連で人権関係の仕事をした。
 中国で人権活動家であることは、国家に対して何ら敵意がなくても、国家の敵である。住む家もない。アパートを借りても、警察が、追い出すよう家主を脅迫するからである。常に監視警官がついており、電話はすべて盗聴されている。いきなり監獄へ拉致され、痛めつけられても屈しない。
 人権侵害があると、海外のメディアに知らせて記事にしてもらう。それが有効なのは、中国政府が何より海外メディアを怖れていることを示している。中国の人権活動家は多く獄中にあるが、しかし一昔前のように闇から闇に消されないのは、海外メディアが見張っているからである。
 候文卓は今カナダにいる。海外へ逃れる、という手があるのも、一昔前とちがうところである。今の中国は、何かにつけ、海外とつながっている。(『文藝春秋』’11.5)

脱北、逃避行

野口孝行『脱北、逃避行  NGO日本人青年の脱北者支援活動と中国獄中243日 』 (新人物往来社)

〈中朝国境からベトナムへ――。運命を分けたものは〉

 脱北者、とは無論北朝鮮から脱出した人である。脱北者は必ずまず中国へ脱出する。とりあえずはそこしか逃げるところがないからである。しかし中国は安住の地ではない。中国の公安(警察)は脱北者を見つけるとつかまえて北朝鮮へ強制送還する。強制送還されると拷問や投獄が待っている。だから脱北者はさらに中国から国外へ逃げなければならない。
 著者は、中国へ逃げ出してきた脱北者を国外へ脱出させる活動をしている日本の組織「北朝鮮難民救援基金」の活動家である。無論日本政府の援助はない。民間の善意の人々の組織である。同じ活動をしている韓国の組織も多くある。こうした活動は中国では非合法なので公安に見つけられると逮捕投獄される。危ない活動である。
 昭和の三十年代から四十年代にかけて、十万人近い在日朝鮮人が、北朝鮮は地上の楽園という朝鮮総連の甘言にのせられて北朝鮮へ渡った。行ってみると楽園どころかこの世の地獄であったので、多くの元在日朝鮮人が日本に帰りたいと願い脱北を試みる。「基金」が援助しているのは主としてこの人たちである。
 脱北者を国外へ逃がすには実に多くの人の助力と費用が要る。助力者は善意の人ばかりではなく金もうけ目的で手引きをしている人も多い。それらに支払う金もずいぶん要る。
 この本の内容は大きく二つにわかれる。一つは成功の記録、一つは失敗の記録である。
 成功のほう。これは北朝鮮へ渡った時高校二年と八歳であった元在日の姉妹である。この二人は中国に潜伏していた期間が長く、そのあいだまともに食事をしていたので、日本から持って行った衣服と化粧品で身なりと化粧をさせると、日本語は話せるし、まったく日本人観光客に見えた。
 この二人を、中国語と朝鮮語と日本語が話せる中国朝鮮族の協力者(女)といっしょに、東北のハルピンから南西の広西まで鋏道でつれて行った。現地人ブローカーの手引きで山越え密出国してベトナムのハノイヘ行き、ベトナムはパスポートを持たない脱北者の出国を認めないので鉄道でホーチミンまで南下し、カンボジアヘ密出国し、プノンペンから飛行機で無事成田に帰った。
 失敗のほう。これは四十七歳女と六十歳男の元在日だが、脱北して間がないためやせこけ、とても日本人観光客には見えなかった。それでも、前と同じ朝鮮族女性と四人、大連から広西まではたどりついたが、ここで一網打尽にやられた。脱北者二人は強制送還。著者は懲役八カ月。これは前にベトナムヘ逃がしたことを秘し通したから、初犯と見られて軽くてすんだのだろう。囚人たちの獄中生活はいかにも中国らしくて面白い。協力した中国女性が三十日余の拘束だけで釈放されたのは救いである。
 著者も書いているように、国連難民条約を批准していながら、脱北者を逮捕送還するのみならず、手をさしのべようとする人たちの行為を犯罪とする中国こそ、最も非道な国と言ってよい。これらの人たちは、中国に対して何一つ悪いことをしてはいないのだから。(『文藝春秋』’10.7)

言葉の煎じ薬

呉智英『言葉の煎じ薬』 (双葉社)

〈「チャリンコ」の語源は何? 目からウロコの知識満載〉

 二三十年前ごろから、自転車を「チャリンコ」と言う呼称が生じた。『広辞苑』は一九九一年の第四版以後登載している。
 なぜそう呼ぶのだろう、とかねてより不審で、さきごろ「由来をごぞんじのかた御教示ください」と一文を草し、当方の宛名を附してさるところに掲載してもらった。が、どこからも通信はなかった。
 ところが呉智英さんのこの本を読んだら、痒い所に手がとどいたように、ずばり明快な答えが出ていた。
 朝鮮語の自転車〔チャヂョンコ〕から来たものなのだそうである。「『チャヂョンコ』が『チャリンコ』に転訛〔てんか〕するのは自然である。つまり、『チャリンコ』は数少ない朝鮮語起原の現代日本語なのである」とある。
 そうか、朝鮮語だったのか。わからないはずだ。
 特に、自転車〔チャヂョンコ〕の車〔コ〕に感激した。古い中国語では、車は居と同音である。呉音コ(居士〔コジ〕)、漢音キョ(居所〔キョショ〕)。現代中国語ではわずかに、象棋〔シアンチー〕のこま「車〔キョ〕」(日本将棋の飛車に相当)に痕跡をとどめるのみである。それが朝鮮語では、自転車という近代の物の名に上古音がのこっている。――なお同じ車でも自動車の車はチャなのだそうである。
 そのほかこの本には「へえっ」という話がいろいろある。
 だいぶ前アメリカ映画にThe Hanging Treeというのがあった。日本では『縛り首の木』。
 この邦訳題に問題があろうとは考えもしなかったが、呉さんは『新明解国語辞典』「縛り首:江戸時代、両手を縛って、首を切った刑」を引いて、「手縛り首切り」の意だと説いている。
 ええっと驚いて『日本国語大辞典』の「縛首〔しばりくび〕」の項を見るとなるほど、「戦国・江戸時代の刑罰の一つ。麻なわで罪人をうしろ手にしばり、前に突き出すようにした首を切ること」として、『甲陽軍艦』(17C初)以下、「縛頸〔シバリクビ〕をきられ」「縛り首を切り」等諸例を挙げてある。知らなかった。
 しかし、日本にもhangingの刑はあったはずだが、それじゃ何と言ったのだろう、と死刑の歴史をしらべてみたら、意外や遠く律令時代の死刑の一つに「絞〔こう〕」が規定されているだけで、平安以後江戸時代の末まで、hangingはない。したがってそれを言う日本語もない。「絞首刑」は明治十年代の近代刑法以降である。江戸時代の死刑は圧倒的に斬首が多い。
 罪人の首に綱〔つな〕を巻いて宙吊りにするやりかたは、容易に考えつくだろうし、残忍性も比較的少いと考えられるし(だから現代はこれのみである)、あとしまつも簡単だろうに、なぜ、人の頭部を胴体から切断し、血が噴出してあたり一面血だらけになる刑ばかりおこなって宙吊りを選ばなかったのか、不思議である。宙吊りは恨みが残って化けて出るという観念でもあったのだろうか。
 その他、「やおら」はゆっくりとの意であって、「突然」の意に用いるのは誤用、とある。えっ、「やおら椅子から立って」は「急に」「勢いよく」の意味だと思っていた。辞書を引くとまことに呉さん仰せの通りである。恐れ入りました。脱帽。(『文藝春秋』’10.9)



新懐旧国語辞典

出久根達郎『新懐旧国語辞典』 (河出書房新社)

〈昭和の香りがする言葉のエッセイ集〉

 言葉に関するエッセイである。
 毎項ちょうど見開き二ページ。『セピア色の言葉辞典』(文春文庫)と同じ連載を本にしたものなので、あわせて御紹介申しあげます。
 著者の出久根さんは、無論作家だが、もともと本業は古本屋さん、高円寺「芳雅堂」の御主人である。昭和三十四年、茨城県から集団就職で東京へ出て、古本屋の小僧さんになった。当時の「金の卵」の一人である。
 商売物の本を、お客さんに売る前に読んで、抜き書きを作る。そのノートが数百冊たまった、とある。勉強家の古本屋さんなのだ。
 だから、昔の本や雑誌に出てくる言葉の話がいろいろある。たとえば、「ゴマン」というのは昭和十三年の『江戸と東京』という雑誌に見えるそうである。
 数の多いことを、なぜ「ゴマンと」と言うのだろう?
 戦前の子供の、日露戦争をうたった数え歌に「五万の兵をひきつれて」とあった。これが出処とは言わないまでも、数が多いことを「五万」と言った例証にはなるんじゃないかと思うのだがいかがでしょう?
 江戸時代からある言葉、というのもいろいろ出てくる。意外なものが多い。「大都会」という言葉が「縁日で草の名を知る大都会」と川柳に出てくるそうである。「現ナマ」も江戸時代からある。
最も意外だったのは「薩摩守〔さつまのかみ〕」(只乗〔ただの〕り)だ。この本を読む前にもし人からきかれたら、「そりゃ汽車ができてからの言葉にきまっている」と答えたことだろう。出久根さんもそう思っていたよし。
 もとは乗合舟の只乗りのことだったのだ。辞書を見ると、室町末―近世初の狂言「薩摩守」に「舟にただ乗を、さつまのかみと云は、ただのりといはふがためじゃ」とあるのを引いている。そしてこれが「ただ」という語の現存文献初出でもあるらしい。
 わたしは播州(兵庫県西南部)の者だが、茨城と関西ではずいぶん言葉がちがうようだ。「ペケ」と「スカ」の意味がわからなかった、とある。
 しいて説明すればペケは×でありスカは外れであるが、関西ではこれはそういう説明や言いかえの必要をだれも感じない言葉である。基礎語彙とはそういうものだ。「しんどい」を説明せよ、言いかえよ、と言われたら関西の者は困るだろう。
 茨城にもそういう,言いかえたらニュアンスがちがってしまう言葉がいろいろあるだろうが、出久根さんは「茨城弁だけは好きになれない」のだそうである。少年のころ東京へ出て商店員になって、お客に苦情を言われた。茨城栃木は無敬語地帯で、客商売には不向きなのだ、とある。
 ある時何かの話で「背中をどやす」と言ったら笑われたので、「どやす」は茨城の方言だと思い、人前で口にするのをやめた。のち江戸の川柳を読んだら出てきた。なんだ江戸でもつかっていたのだ、とある。
 「どやす」が笑われたとは奇妙だ。イントネーションが変だったのであろうか。昭和三十年代ごろの集団就職の少年少女は言葉の面でもたいへんだったのだ、とわかる話である。(『文藝春秋』’10.11)

天皇さんの涙

阿川弘之『天皇さんの涙  葭〔よし〕の髄から・完 』 (文藝春秋)

〈日本語の粋を集めた最後の巻頭随筆集〉

 本誌『文藝春秋』巻頭の四段組みの随筆欄は、文藝春秋の看板である。創刊(大正十二年)当初からある由緒ある欄だ。と言うより、創刊当時はこの四段の随筆欄がすなわち『文藝春秋』であった。そのあとの論文や小説はその後だんだんふえてきたものである。
 その巻頭随筆欄のトップの一篇は、看板中の一枚看板、文藝春秋の顔である。ここに誰が何を書くかで一冊の格がきまる。したがって人が最も注目する。めったな人には頼めない。創刊当初の数年は芥川龍之介が書いていた。
 阿川弘之さんは、平成九年(一九九七)の六月号から同二十二年(二〇一〇)の九月号まで十三年あまり、毎号この「看板」を書いた。総題は「葭の髄から」(ちなみに阿川さんの前は司馬遼太郎さんの「この国のかたち」であった)。
 書き始めた時満七十六歳。すでに文壇の宿老である。よく十三年間大した病気もなくつづいたものだ。
 約三年分が本一冊になる。このたびの『天皇さんの涙―葭の髄から・完』は四冊め、最後の一冊である。
 巻頭随筆のトップは、内容が興趣深いものでなければならぬのは当然のこととして、あわせて文章の質の高さが求められる。それでこそ看板だ。「葭の髄から」は十分その要求に応え得るものであった。
 阿川さんは歴史的かなづかいで文章を書かれる。雑誌も本も原文のままである。
 もとより現代かなづかいでよい文章が書けないわけではない。いい文章を書く人も多くいる。しかし格調の点では、やはり歴史的かなづかいに一籌〔いっちゅう〕を輸する。「葭の髄から」を読むとそれがよくわかる。
 近年の日本語の文章の質を低くしているのはそれよりパソコンであろう。無論阿川さんの文章はパソコンとは無縁である。
 「凍結された日本語」という一篇がある。元毎日新聞記者徳岡孝夫さんの本を紹介したものである。徳岡さんはタイのバンコク駐在時、瀬戸物屋を営む台湾人のオバサンの話す日本語が美しいのにびっくり仰天した。
 わたしも台湾婦人の日本語の美しさに一驚した記憶がある。むかし友人劉文献のお母さんが日本留学中の息子の所へ来た時に劉の下宿で会った。もちろんお母さんは特にかまえて話をしたわけではないのだが、その一言一言が美しかった。バンコクの瀬戸物屋のオバサンもふつうに日本人客に応対していただけである。
 徳岡さんが書いているように、台湾の人の日本語は昭和二十年日本の台湾統治が終了した時点で凍結された。それ以後の日本語の影響を受けていない。それまでの日本人の日本語をしゃべるわけである。それが美しい。
 別の一篇で阿川さんはNHKテレビの古代エジプト遺跡の番組のことを書いている。阿川さんは楽しみにしてテレビの前に坐った。ところがその期待は無惨に裏切られた。若い女のリポーターがあらわれて、「わあッ、見えて来ました、すごーい、きゃあッ」古代遺跡の周辺走り廻って、金切声で騒ぎ立て叫び続けるのである。せっかくの番組をぶちこわしにされて阿川さんは、篇末にNHKの責任者に対する公開状を書いている。戦後の日本で女性の地位が向上したのはよいことだが、品性は確実に下落している。
 北京オリンピックの開会式をテレビで見て阿川さんは啞然とした。入場行進で日本選手は全員、日本の国旗ともう一つ中国の五星紅旗を手にして打ち振りながら歩いている。「その卑屈な心事。かういふのを日本語で『媚びる』或は『諂らふ』と称する。誰がこんな諂ひ方を考へついたのか。(…)反抗した気骨ある選手はゐなかつたのか。」
 読んでわたしも驚いた。オリンピックは見ないのでちっとも知らなかった。いったい世界中で、ほかにもそんなことをした国があったのだろうか。それを知りたいと思う。(『文藝春秋』’11.3)

プロフィール

たかしまとしお

Author:たかしまとしお
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