本はおもしろければよい (1)

 出版社のPR誌はいろいろ出ている。事実上タダで(郵送料のみ)中身はけっこう質が高くおもしろいので、わたしもいくつか取っている。
 一番のシニセは岩波書店の『図書』である。これについては、『お言葉ですが…⑥』の「この魚変だ」など何度か書いている。
 『図書』の由緒を言い出すとややこしいが、ごくかいつまんで言うと、『図書』という題になったのは一九三八年(昭和十三年)、戦後の復刊は四九年(昭和二十四年)の十一月、『文庫』を合併して『図書』一本になったのは六一年(昭和三十六年)一月からである。わたしは『図書』『文庫』二本立てのころ、五〇年ごろから取っている。子供のころでもあり、ずいぶん影響を受けていると思う。
 出版社はたくさんあるが、それらのなかでわたしにとって岩波は特別で、「一杯喰わされた」という感じを持っている。ある時急にそう思ったのではない。一九六〇年代の後半ごろから(昭和四十年代の前半ごろから)だんだんそういう感じを持つようになった気がする。

 わたしは子供のころから、本を読むのが無性に好きであった。テレビが現われるより遙かに以前、他に子供の楽しみのなかった時代である。
 のちに母がよく言ったことであるが、字をおぼえる前から本が読めた。「講談社の絵本」である。戦前の「講談社の絵本」は昭和十七年で打切りになっているようなので、それ以前である。
 絵に説明の文がついている。わたしは絵を見ている。母が横から文を読んでくれる。何度か読んでもらうと文全体をおぼえる。そうすると母に読んでもらわなくても、絵を見て声に出して読める。一冊の本をまるまるおぼえきる。それから読みの通り字を見て行けば自然に字をおぼえる。幼稚園に入る前に字は読めた。
 よい時代ではなかった。学校にあがったのは昭和十八年だが、もう子供むけの本なんぞはなかった。字が書いてあるものなら何でも読んだ。
 ずっとのち、何十年も後〔あと〕になって、実は戦争中にも東京では細々〔ほそぼそ〕ながら子供むけの本が出ていたことを知った。わたしのいた地方なぞにはまわって来なかったのである。
 また、子供のわたしの知らぬことだがあとで考えれば、わたしが育った所は日本のなかでもごく特殊な所であった。
 もともと長崎と地形(湾形)が似ているので長崎の造船所の出店(子分の造船所)ができたのだそうである。昭和十二年(一九三七年)以後「支那事変」(日本軍の中国本土への本格的進出)が始まると兵員や物資を運ぶため輸送船の需要が増え、造船工など造船関係者が来て人口が増え始めた。わが家がこの町に移って来たのは昭和十四年である。わたしの父は造船所の工場や事務所の建屋〔たてや〕を作る建築工で、広い意味の造船関係者である。私は移って来た時の記憶はないが、住んだ家の記憶はある。造船工が住む家五軒くらいが一棟で、そういう棟が十も二十も並んでいる。外見は皆同じだから、ちょっと外へ出ると自分の家がどれだったかわからなくなる。
 「大東亜戦争」(対米英戦争)が始まると、輸送船の需要が、支那事変の時とは比べものにならないほど増えた。兵員・物資を運ぶ先がフィリピンはもちろんインドネシアやマレーやビルマまで遠く広がった。途中にはアメリカの潜水艦が待ち受けていて魚雷で撃沈するから輸送船はいくら作っても足りない。戦標船〔せんぴょうせん〕という言葉をおぼえた。戦時標準船の略である。何度も航海するようなしっかりした船を作る必要はない。一往復持てばよい船、という意味である。とにかく必要なのは数だ。平均一日一隻の割合で作らないと間に合わなかったそうだ。
 そういう次第で対米英戦争が始まって船を作るための人間が大量に集められ急激に増えて、たちまち人口が三万を越えて町が市に昇格した。
 だから市と言っても近くの姫路や岡山とは性格がまるで違う。姫路や岡山は古くからの町だから当然いろんな人間がいる。わたしたちの町は何万人いると言っても造船工だけである。それも本職の造船工はとっくにいなくなっているから、アメリカとの戦争が始まってから集められたのは、それまで造船工ではなかった者、造船工としては最低層の俄仕立〔にわかじたて〕の造船工である。わたしの学校友だちも、この町で生れたというのは松浦だけだった。あとは皆昭和十三年以後に親につれられて来たのである。
(つづく)

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