兵隊帰り (1)

 敗戦の時、わたしは国民学校初等科の三年生だった。満八歳である。
 そのあと、どっと「兵隊帰り」が帰ってきた。短期間に八百万人近くが帰ってきたのだから(吉田裕『兵士たちの戦後史』)、無論わたしのまわりだけではなく、日本中に兵隊帰りがあふれたのである。二十代から三十前後の男なら兵隊帰りと見てよかった。
 その兵隊帰りたちに人々は兵隊経験の話を聞きたがったか、兵隊帰りたちは兵隊時分の話を聞かせたがったか、というと、そんなことは全然なかった。
 第一に、まわりに兵隊帰りはいくらでもいるんだから珍しくもない。それにあの時分は、兵隊帰りたちもそのほかの人たちも、食うことに追われていた。親たちは、その日子供の口に入れるものを入手する、畠で作るのに精一杯だった。百万人くらい餓死者が出るんじゃないかと言われていた。
 ごく一部の元本職軍人の連中が、自慢半分弁解半分の本を出してはいたらしい(辻政信のような連中。一九五〇年ごろから)。しかしわたしが言っているのはこういう連中のことではない。ごく一般の、兵隊に取られた人たちのことである。
 上記吉田著が「社会全体の復員兵に対する態度は冷ややかなものだった」と数々の例をあげている。読むと、もっともだという気がする。「ごくろうさまでした。お話聞かせて!」というような雰囲気ではなかったのである。
 わたしは、学校の行き帰り、「予科練帰り」と称するゴロツキがこわかったのをおぼえている。本当に予科練帰りだったのかどうか知らない。予科練帰りと言えば幅が利くし人が恐れるから言っていたのかもしれない。
 兵隊帰りが兵隊時代の話をし、人も聞くようになったのは、ずいぶんたってからだったと思う。

 わたしは、敗戦直後の兵隊帰り充満の時よりずっと前、たしか幼稚園にあがる前の昭和十六年ごろだったかと思うが、兵隊帰りの戦地話を聞いた記憶がある。
 そのころわが家に傷兵が同居していた。父の姉の息子、つまりだいぶ年の離れた従兄〔いとこ〕である。中国戦線で負傷して(足だったと思う)帰ってきて、「おじさん」の家であるわが家で医者に通いながら仕事を捜していた。生家は瀬戸内海の小さな島だから、負傷兵の仕事なんぞはなかったのである。そのうち傷も癒え(多少びっこをひいていたが)神戸あたりで職が見つかって越して行った。
 わたしはこの従兄にずいぶん戦地の話を聞いた記憶がある。しかしその内容は何一つ記憶に残ってない。その時はおもしろく聞いてせがんだりしたのだが、中身は四つや五つの子供には複雑すぎたのだろう。
 わたしは昭和十八年の四月に学校にあがった。その前の幼稚園の一年間は、先生の顔も身なりも教わった歌もおぼえているのに(浅野先生と言い年ごろはわれわれから見るとかなりの「おばあちゃん」で、いつも焦茶色の着物を着ていた)、学校にあがってから敗戦までの二年四ヶ月ほどはあいまいである。
 学校の先生は校長先生と教頭先生と高等科の先生以外はみな女の先生だった。年間通して教えてもらった先生はない。顔と名前をおぼえているのは一年生の夏休み前と二年生の夏休み前の先生だけである。そのあと先生が何人変ったのかもおぼえてない。戦争で学校の先生が足りなかったのだろう。裁縫の先生が来て九九を教えてくれて、そのあと校長先生が来てまた九九だったので「九九はもう習ったのになあ」と思ったことはよくおぼえている。手すきの先生が来ていたのだろう。
 あのころ(戦争中の後期)、学校の教室で毎日授業をしていたのは国民学校初等科だけだった、と書いたものをよく見る。それ以外が勤労動員で工場や農村へやられていた、という点ではこれは正しい。
 しかし国民学校初等科が毎日悠暢に教室で授業していたわけでは必ずしもない。
 だいたい、よく警報がある。警報は警戒警報と空襲警報と二段階ある。警戒警報はサイレンが長く鳴る。空襲警報は断続的に鳴る。
 ずっとのち、昭和四十年代の後半ごろ(戦争が終って三十年近くたったころ)わたしは岡山大学の教員になって赴任した。岡山大学は校地が日本一広いと言われた学校だから、授業の開始終了の時はサイレンが鳴る。そのサイレンが鳴り出した途端、反射的に胸がドキーンと高鳴って体がわなわなふるえ出した。自分では完全に忘れていたが、体の奥が警報のサイレンの恐怖をおぼえていたのだな、とおそろしく思った。それまでも教員をしていたが、東京の学校では多分リーンとベルが鳴っていたのだろう。その前の中学高校時分はベルだったのか小使さんが鉦〔かね〕を鳴らして歩いたのか。とにかく授業の合図なんぞは毎日毎度のことだから何の音かなんて意識したことがなかったのだろう。サイレンでなかったことはたしかである。岡山大学で二十数年ぶりに聞いて恐怖をおぼえたのだから。
 話は戦争中にもどる。警戒警報のサイレンが鳴り出した途端、何をしている最中だろうと、子供はそれぞれの家にむかって走り出す。つまり四方八方に散る。そうするように学校で教えられ、訓練もしていた。学校でかたまっている所へ爆弾が落ちたら何百人が一ぺんに死ぬ。八方へ散っていれば危険が分散される、ということだったのだろう。
 帰ってから警報解除になっても、その日はもう学校へもどらなくていい。これもそういう規則になっていた。警戒警報は、米軍機が西日本方面にむかって飛んでいる、というくらいの段階で出たのだろうから、よくあったような気がする。
 そのほかにもいろいろあった。「馬糞拾い」。これは実際には牛糞拾いだったのだが、言葉は「馬糞拾い」だった。道路上の牛の糞を拾うのである。道路清掃でもあるが肥やし集めだった。手でつかんで拾い、バケツなどに入れた。何かの時家でその話をしたら、母親が「えーっ、糞を直接手でつかむの?」とびっくりした。こちらは初めからそう教えられて当り前のこととしてやっているので、母のびっくりにびっくりした。ほかにどんな方法があるのか。まさか子供の人数だけの火挟みを用意するわけにもゆくまい。たかが牛の糞である。
 「松根油掘り」。実際には山の松の木の根を掘るのである。その根を搾って油を取るのはどこか別の所の仕事であるが、「松根油掘り」と言っていた。これで飛行機を飛ばすんだと教えられた。敗戦の時にあちこちに松の根を集めたのがいっぱいあったそうだから、その当時の工業力には松の根を搾って飛行機燃料に精製するだけの余裕がなかったのだろう。
 馬糞拾いや松根油掘りよりしょっちゅうだったのは、山の斜面の畠仕事である。学校の運動場はすでに畠になっている。周囲の畠はもちろんそれぞれの主がいてやっている。学校の畠となると少し離れた山の斜面ということになる。
 今その場所へ行くと太い樹木がびっしり並んでいて、こんな所を畠にしたとは信じられないくらいだが、戦争中は食糧増産の掛声のもとにやったのである。
 畠仕事より肥〔こえ〕運びのほうが印象に強く残っている。学校の便所はほとんど小便ばかりである。それを肥桶に汲み入れて、天秤棒を通して二人でかつぐ。わたしはいつも川口と組であった。山の裾まではかなり距離があって天秤棒が肩に喰いこむが、こぼすことはない。むずかしいのは山の斜面にかかってからである。天秤棒を水平に保ってないとこぼしてしまう。前後二人の協力呼吸が大事である。せっかくここまで無事運んできたものを桶のふちからこぼして、「あーあ」と嘆いたものだった。
 まあそういうわけで、初等科の生徒といえども毎日のんきに教室で授業していたわけではない。なおついでに――、今小学校の子供のことは「児童」と言うようであるが、われわれのころはそんな言葉はなかった。学校にあがった時から「国民学校生徒」である。
(つづく)

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