地方新聞 (2)

 わたしの母は戦後わたしに、戦争中の生活の苦しかったことを時々語ったが、子どもたちの口に入れるもの、着せるものの苦労は当然としても、名をあげて怨みを言ったのは新聞屋だけであった。小さな町だから新聞屋は一軒だけであり、これが全権を握っているのだから公的機関に近い。
 わが家は昔から朝日新聞を取っているのだから権利があるのだが、それでもうかうかしていると取りあげられかねない。時々は畠の物などを持って、ひきつづきよろしくお願いします、と頭をさげに行かなければならない。あの石原の新聞屋の親父は、ふんぞり返って、あんたの所が新聞を取っていられるのはおれのおかげなんだと恩着せがましく言う。ありがとうございます、とひたすらおじぎをくり返すほかない。
 そんなにあっちこっちから新聞を取る権利を取りあげたら、困るのはかえって新聞屋のほうじゃないか、と思うが、おばさんたちは皆、この人のごきげんをそこねたら大変、と何か持って頭をさげに行っていたのだろう。もちろん、当時は世の中のことを知るニュースソースがほぼ新聞に限られていたからである。
 なお、戦後よほどたってから書かれたものを見ると、戦争中ラジオはかなり普及していておおむね全世帯の半分近くの家にあったと書いてあったが、ほんとうだろうか。わたしが子どものころ近隣の家にはたいてい子どもがいて遊びに行ったが、ラジオのある家というのはなかった。裏の中村さんの家には把手をぐるぐる回す蓄音器があって、どこで歌を唱っているのか不思議にたえなかったのをおぼえている。声の出る器具と言えばそんなものであった。ラジオは、三宅さんという老夫婦だけの家にあったことが、昭和二十年八月十五日の昼に近隣の主婦が皆三宅さん宅に集められたのでわかった。

 戦後、新聞はふえた。これは一つには、軍が大量にためこんでいた紙が放出されたせいらしい。言論の自由の影響も大きいだろう。
 ところが一難去ってまた一難。テレビジョンというものができ、昭和三十年代ごろからだんだん普及すると、もう新聞は要らない、とやめる人があらわれたのだそうだ。
 わたしは昭和三十年(一九五五年)に大学に入って東京へ行った。あれはいつごろであったか、大学に入ってまもないころだったような気がするが、テレビジョンというものができて、新橋の駅前でやっている、というので、見に行った記憶がある。駅前にちょっと広い所があって、そこに、高い台を組んで上にテレビが置いてあり、何か映って動いている。その前に何百人というくらいの人がいて、テレビを見ている。わたしもその群に入って行って見た。
 画面に映像が写っていて動く、というのは映画と同じことで珍しくもないのだが、画像が電波で飛んでくる、というのがふしぎであんなに人が集まったのだろう。
 あのころのテレビは相当高価なものだったに相違ない。わたしはその後二十年ほど東京にいたが、テレビを持ったことはない。相撲は喫茶店へ見に行った。相撲や野球を喫茶店へ見に行くのは、当時の若い者のよくやったことである。喫茶店もテレビを客寄せに置いてあったわけだ。
 右のごとく、テレビのひろがりによって新聞が押される、という趨勢は昭和三十年代の後半ごろから(一九六〇年代ごろから)始まったらしく、以来半世紀になるわけだが、まだ全国で、中央紙以外に、百二十もの地方紙が生き残ってがんばっている、と知って、たのもしくも思い、またうれしくも思ったことであった。

 わたしは毎日コンビニへ行って新聞を買う。置いてある地方紙は「神戸新聞」だけである。兵庫県には他にどんな地方紙があるのだろう、なんて考えたこともなかった。たのもしくうれしく思った、とは言いながら、実はわたしも、がんばっている地方紙に対して冷淡な者の一人なんだなあ、と、このたびの毎日新聞記事を読んで、思ったことであった。

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