鞍馬天狗 (1)

鞍馬天狗(くらまてんぐ)

 小川和也『鞍馬天狗とは何者か 大佛次郎の戦中と戦後』('06藤原書店)を読んだ(以下この本を「小川氏のこの本」「この本」と言います)。
 鞍馬天狗は、戦争中、われわれ子どものヒーローであった。
 近ごろは鞍馬天狗も大佛次郎も知らない人が多くなっているらしい。この本に、ある大学の文学部の授業で大佛の作品を取りあげたが、その教室で大佛次郎を「オサラギ次郎」と読めた学生は皆無だった、とある。よけいなことながら書いておくならば、大佛次郎は昭和の時代の大衆小説作家(一八九七―一九七三)、鞍馬天狗はその作品の主人公である。
 この本の著者小川氏は一九六四年生れとある。一九六四年は昭和三十九年だから当然鞍馬天狗と同時代ではない(もっとも天狗の最後の作品が新聞に掲載されたのは一九六五年だそうだからちょっとだけひっかかってはいる)。日本思想・近世思想史の研究者とのこと。

 わたし(高島)が鞍馬天狗を知ったのはまず紙芝居である。紙芝居と言っても今では知らない人が多かろうが、――紙芝居屋のおっさんが拍子木をカチカチと鳴らして町内をまわる、子どもたちが集る、その場所は毎日決っている、おっさんはコブを(アメだった時期もある)売る、絵を見せめくりながら語る――という段取りである。わたしがおぼえている時期ずっと鞍馬天狗であった。
 途中、多分昭和十九年の暮か二十年の初めからだったろうが、紙芝居の前におっさんのひとくさりの説教が加わった。役場の人に命じられたのだろう、見るからに気の乗らない、いやいやながらの顔つき、口ぶりで、――いよいよ空襲は激しくなる、これに負けてはならない、必ずはね返してアメリカに勝つ、というようなことをぼそぼそと話す。それから突然、顔が明るくなり、声にも張りが出て、「鞍馬天狗第百七十五回であります」と始るのである。子どもたちも無論、空襲心得などを熱心に聞いてはいない。鞍馬天狗が始ると元気が出る。
 鞍馬天狗は架空の人物である。しかし周辺に登場する人物や時代情況はほぼ皆歴史上実在、ないし実在にもとづいている。無論わたしどもは子どもであるから、実在とか虚構とかの観念はないが、あとから見ればそうである。
 時は幕末である。所は京都とその周辺である。鞍馬天狗は勤皇方の武士である。ただし勤皇方の武士集団に属する武士ではなく、常に一人である。仲のよいのは角兵衛獅子の杉作少年だけである。仇(かたき)役は新選組である。強くて正しい鞍馬天狗の仇役なのだから、新選組もそれなりに強い。その大将が近藤勇である。紙芝居屋のおっさんは、近藤イサム、と言った。だからわたしどもも近藤イサムとしてその名をおぼえた。当時はそれがふつうだったのか、それとも紙芝居屋のおっさんの言いかただったのか、知らない。
 たとえば、桂小五郎が新選組に襲われて「あやうし」という段になると、覆面の鞍馬天狗が(鞍馬天狗は常に覆面である)白馬にまたがってさっそうと駆けつけ、新選組を追い散らして桂小五郎を救うのである。
 この小川氏の本には、紙芝居のことは書いてない。多分小川氏は戦後三十年もたってからの研究者だから、紙芝居の鞍馬天狗のことはごぞんじないのだろう。
(つづく)

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