ヤギ 山羊 (1)

 メエ メエ 森の小山羊 森の小山羊……
 たいがいだれでも知っている、歌える。なんで山羊がヤギなのだろう、「山」がヤで「羊」がギなんだろう、と思う人はまずいまい。しかし考えてみるとふしぎである。なんで山がヤで、羊がギなんだろう。
 今回はこの件について申しあげます。
 多くを、杉本つとむ先生の「Bok〔ボッコ〕と〈野牛〔ヤギ〕〉の論――蘭・支・日の言語交渉」(『杉本つとむ日本語講座7国語学の諸問題』昭55桜楓社、所收。以下「杉本文」と呼びます)に負っている。杉本文がたよりです。
 ただし杉本文は、問題はたかがヤギのことなのだが、非常にむつかしい。少くともわたしにはむつかしい。二へんや三べん読んだのでは、何が何やらわからない。むつかしいのは、一つには、引用されている文献が多いゆえもある。また一つには、この動物のことと、「ヤギ」という日本語のことと、漢字表記のこととが、ごちゃまぜに出てくるゆえもあるようである。問題はヤギのことなのだからごちゃまぜに出てくるのはやむを得ないのだが、それゆえに話がややこしい。なお漢字表記は必ずしもヤギを指すとは限らない。
 すでに杉本文があるのにわたしがこの文を書こうと思ったのは、わたしのわかる範囲で整理してみようと思ったゆえである。
 それで大きく、この動物のことと、「ヤギ」という日本語のことと、漢字表記のこと、三つにわけて申します。
 この動物はもともと日本(日本列島)に棲息する動物ではない。それを呼ぶ日本語の名もない。
 杉本文によれば江戸時代にオランダ人が長崎へつれてきた。新鮮な肉を食うためである。
 杉本文が引いている文献のなかで、しろうとのわたしが見てもこれはまちがいなくヤギだとわかるのは広川獬『長崎聞見録』(寛政九年、一七九七)である。絵が出ている。ヤギの絵である。ただし「ヤギ」とは言っていない。
 広川獬は医者で本草〔ほんぞう〕学者(動植物学者)である。長崎には六年滞在したとのこと。そこでこの動物を見て写生し、自著に取りこんでいるのである。左のごとく説明がある。
  〈   野牛  〔やぎう〕 
  野牛は。唐人蛮人〔たうじんばんじん〕食料〔しよくれう〕とするなり。稲佐立〔いなさたて〕山辺に飼(か)〔か〕ひおきて。唐人蛮人にうる亊なり。其かたち犬〔いぬ〕に三倍〔ばい〕す。ぶたに比〔ひ〕すれば、甚小きものなり。味ひもまた。ぶたに及ばず。しかれどもいたって温物〔うんぶつ〕なれば。嗜〔たしなむ〕もの多きをもって。ぶたよりも高い價〔あたい〕なり。毛〔け〕色はみな白色なり。よく人に馴〔なれ〕て。食〔く〕ふには忍〔しの〕びざるものなり。
                            羊の類〔るい〕なり
                            漢名〔かんみやう〕未詳〔つまびらか〕 
                            野牛和名〔やぎうわみやう〕也                    〉
 味はぶたに及ばないとあるから食ってみたのかもしれない。しかしまた食うにはしのびないとあるから、食わなかったのかもしれない。
 羊の仲間だとある。中国で何と呼ぶか知らないとある。野牛〔やぎう〕は日本語だとある。
 つまり十八世紀の末ごろまでにこの動物が長崎へ来ていたことはたしかだが、名は野牛(や ぎう)〔やぎう〕と呼んでいたらしい。
 杉本文が引く楢林重兵衛『楢林雑話』(寛政十一年、一七九九年ごろ)にこうある。行割注は字が小さいのでカッコつきになおして引きます(以下の引用文も同じ)。
  〈玉をやはらぐるには、ヤギ(野牛)の血をぬる、(浅草獣店にもヤギあり)又野牛の血にて煮てこれを刻するも可なり。〉
 楢林重兵衛は長崎通詞だが、この本は楢林がエゾ出張より江戸に帰府した際、浅草見物などした際に〈ヤギ〉を見ることもあったからだろう、と杉本文にある。浅草に獣店なるものがあり、生きた動物を売っていたらしい。長崎からはるばる江戸まで生きた動物を運び売っている業者があったものと見える。ここではカタカナでヤギと書いている。楢林は長崎通詞だから長崎でヤギを見て知っているだろう。その楢林が浅草の獣店で見た動物はまちがいなくヤギであったに相違ない。
 この動物は十八世紀末以前に日本へつれて来られ、江戸まで運ばれていた。
 この動物の日本語の呼名「ヤギ」は、杉本文で見るかぎり、一七九九年ごろの楢林重兵衛が最初である。しかし多分この時に楢林が初めてこの動物を「ヤギ」と呼んだのではなく、その前から日本語「ヤギ」はあり、用いられていたのだろう。
 ここでちょっと杉本文を離れて『日本国語大辞典』第二版(日国)の「やぎ」の項を引いてみると、引用文献の最初はこうである。
 〈日本国考略(1523)寄語略―鳥獣「羊 羊其(ヤギ)〉
 「日本国考略」なるもの、題目を見たこともない。何を調べても出てない。
 ところが連合出版の八尾さんが、早稲田大学の図書館にあることを何かで見つけ、全文をコピーして送ってくれた。感激す。近ごろは、どこにどんな資料があるかを探索できる仕組〔しくみ〕ができているらしい。便利な世の中になったものだ。
 抄本(手書きの本、写本)である。四十九葉、つまり今〔いま〕式に言えば九十八ページ。題簽〔だいせん〕(表紙のタイトル)「重刊日本考略」、中の書題は「日本国考略」ともある。つまり「日本考略」と言っても「日本国考略」と言ってもよい。同じこと。
 中国明〔みん〕の嘉靖〔かせい〕年間、十六世紀の前半、日本で言えば室町時代に、定海〔ていかい〕の人薛俊〔せっしゅん〕が書いた本である。今の中国地図を見ると、浙江〔せっこう〕省の東部の海(日本式に言えば東シナ海)の中、ただし大陸すれすれの所に舟山〔しゅうざん〕という島がある。定海はこの舟山島の中の町である。だから薛俊という人は中国の人と言っても海の人だ。「日本考略」はこの薛俊が日本のことを書いた本である。薛俊はこの定海に住む知識人であろう。
 この本の中に「寄語略」という部分がある(寄語略の「寄」は「訳」の意と自分で注釈をつけている)。日本語の単語ごとの発音を、もちろん漢字で、書いてある。その中に「鳥獣類」という部分があって、牛、鶏など生きものを言う日本語を十一語あげてある。日本にいるあまたの生きものの中からたったの十一だが、その一つとしてシラミをあげてあるのには恐れ入った。見出し漢字(中国名)は「蝨」、発音は「失辣水」とある。この発音の「水」はおかしい。日本語のシラミを聞いてその発音を漢字で書いた人は「失辣米」と書いたにきまっている。それを書き写した人が写しまちがえて「失辣水」と書いたのである。つまりこの手書き本は、日本人の日本語を聞いてその発音を漢字で書いた人の元の本ではなく、それを日本語を知らない中国人が書き写したものである。だから「米」を「水」と写したような写しちがいが多い。
 この鳥獣類十一語の中に「羊(羊其)」とある。つまり羊のことを、日本人は「羊其」と発音する、というのである。日本国語大辞典の引用文献の所には「羊其(ヤギ)」とあって、あたかも日本考略に「ヤギ」としるしてあるようだ(日国を引いた人は当然そう受け取る)が、これは日国の編輯者、もしくは編輯者に材料を与えた人が勝手にやったことである。こんなインチキをやっちゃいけない。「羊」は多分日本語の「ヤ」の音を写したのだろうが、「其」は「キ」なのか「ギ」なのかわからない。常識的には日本語の「キ」の音を写したものと見るべきだろう。
 つまり薛俊は、日本には羊がいる、それを日本人は「羊其」と呼んでいる、と判断してそう書いたのである。十六世紀の前半ごろ、多分「ヤキ」あるいは「ヤギ」という日本語があったわけである。
 日国が次に引くのは十八世紀末の文献だから杉本文と同時代である。この日本国考略なる文献がとびぬけて早い。
 ともかく「ヤギ」という日本語は十六世紀までにはできていたようである。
 日国には「語源説」という項がある。「ヤギ」という日本語がどこから出てきたかについて考察した学者の考えである。こうある。
  (1)「羊」の朝鮮音ヤングから〔外来語の話=新村出・大言海・外来語辞典=荒川惣兵衛〕
   (2)ヤギウ(野牛)の訛りか〔大言海・国語の中に於ける漢語の研究=山田孝雄〕。
 朝鮮語ヤングから、というのと、ヤギウ(野牛)から、というのと両説あるらしい。
 山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』(昭和十五年宝文館出版)を見ると第六章「源流の観察」のなかにこうある。
  山羊(専ら「ヤギ」とよぶは古く野牛(や ぎう)〔やぎう〕といへるよりその訛か。)
 これで全部である。つまり、「ヤギ」という日本語は野牛(や ぎう)〔やぎう〕のなまりか、と言っているだけである。そう考える理由や筋道については何も言っていない。
 朝鮮語ヤングから、というのもその程度のことなのだろう。
 なおわたしは朝鮮語を知らない。ヤギのことを朝鮮でヤングと言うのかどうか、言うとすればどんな発音なのか知らない。
 つまりこの動物のことをいま日本語で「ヤギ」と言うが、この「ヤギ」という日本語はどういう由来かどこから来たかわからないのである。
 これはふしぎでも何でもない。動物の名の由来なんぞはたいていわからない。イヌのことをなぜイヌと言うか、カラスのことをなぜカラスと言うか、わかるはずがない。
 ヤギはイヌやカラスとちがってこの動物が比較的近いころに伝えられたものだから、名の由来がわかるかと思ったが、やっぱりわからない、ということである。

(つづく)

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