天皇さんの涙

阿川弘之『天皇さんの涙  葭〔よし〕の髄から・完 』 (文藝春秋)

〈日本語の粋を集めた最後の巻頭随筆集〉

 本誌『文藝春秋』巻頭の四段組みの随筆欄は、文藝春秋の看板である。創刊(大正十二年)当初からある由緒ある欄だ。と言うより、創刊当時はこの四段の随筆欄がすなわち『文藝春秋』であった。そのあとの論文や小説はその後だんだんふえてきたものである。
 その巻頭随筆欄のトップの一篇は、看板中の一枚看板、文藝春秋の顔である。ここに誰が何を書くかで一冊の格がきまる。したがって人が最も注目する。めったな人には頼めない。創刊当初の数年は芥川龍之介が書いていた。
 阿川弘之さんは、平成九年(一九九七)の六月号から同二十二年(二〇一〇)の九月号まで十三年あまり、毎号この「看板」を書いた。総題は「葭の髄から」(ちなみに阿川さんの前は司馬遼太郎さんの「この国のかたち」であった)。
 書き始めた時満七十六歳。すでに文壇の宿老である。よく十三年間大した病気もなくつづいたものだ。
 約三年分が本一冊になる。このたびの『天皇さんの涙―葭の髄から・完』は四冊め、最後の一冊である。
 巻頭随筆のトップは、内容が興趣深いものでなければならぬのは当然のこととして、あわせて文章の質の高さが求められる。それでこそ看板だ。「葭の髄から」は十分その要求に応え得るものであった。
 阿川さんは歴史的かなづかいで文章を書かれる。雑誌も本も原文のままである。
 もとより現代かなづかいでよい文章が書けないわけではない。いい文章を書く人も多くいる。しかし格調の点では、やはり歴史的かなづかいに一籌〔いっちゅう〕を輸する。「葭の髄から」を読むとそれがよくわかる。
 近年の日本語の文章の質を低くしているのはそれよりパソコンであろう。無論阿川さんの文章はパソコンとは無縁である。
 「凍結された日本語」という一篇がある。元毎日新聞記者徳岡孝夫さんの本を紹介したものである。徳岡さんはタイのバンコク駐在時、瀬戸物屋を営む台湾人のオバサンの話す日本語が美しいのにびっくり仰天した。
 わたしも台湾婦人の日本語の美しさに一驚した記憶がある。むかし友人劉文献のお母さんが日本留学中の息子の所へ来た時に劉の下宿で会った。もちろんお母さんは特にかまえて話をしたわけではないのだが、その一言一言が美しかった。バンコクの瀬戸物屋のオバサンもふつうに日本人客に応対していただけである。
 徳岡さんが書いているように、台湾の人の日本語は昭和二十年日本の台湾統治が終了した時点で凍結された。それ以後の日本語の影響を受けていない。それまでの日本人の日本語をしゃべるわけである。それが美しい。
 別の一篇で阿川さんはNHKテレビの古代エジプト遺跡の番組のことを書いている。阿川さんは楽しみにしてテレビの前に坐った。ところがその期待は無惨に裏切られた。若い女のリポーターがあらわれて、「わあッ、見えて来ました、すごーい、きゃあッ」古代遺跡の周辺走り廻って、金切声で騒ぎ立て叫び続けるのである。せっかくの番組をぶちこわしにされて阿川さんは、篇末にNHKの責任者に対する公開状を書いている。戦後の日本で女性の地位が向上したのはよいことだが、品性は確実に下落している。
 北京オリンピックの開会式をテレビで見て阿川さんは啞然とした。入場行進で日本選手は全員、日本の国旗ともう一つ中国の五星紅旗を手にして打ち振りながら歩いている。「その卑屈な心事。かういふのを日本語で『媚びる』或は『諂らふ』と称する。誰がこんな諂ひ方を考へついたのか。(…)反抗した気骨ある選手はゐなかつたのか。」
 読んでわたしも驚いた。オリンピックは見ないのでちっとも知らなかった。いったい世界中で、ほかにもそんなことをした国があったのだろうか。それを知りたいと思う。(『文藝春秋』’11.3)

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