中国文学 2

中国文学研究会『中国文学』――開戦以後

 昭和十六年十二月、対米英戦がはじまった。竹内好は名文のほまれ高い「大東亜戦争と吾等の決意(宣言)を『中国文学」第八十号(昭和17・1)に発表した。
 全体の脈絡を見るためには全文を引かねばならぬのだが、紙幅が許さない。ところどころ引く。まず冒頭――
 「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動に打顫へながら、虹のやうに流れる一すぢの光芒の行衛を見守つた。胸ちにこみ上げてくる、名状しがたいある種の激発するものを感じ取つたのである。
 十二月八日、宣戦の大詔が下った日日本国民の決意は一つに燃えた。爽かな気持であつた。これで安心と誰もが思ひ、口をむすんで歩き、親しげな眼なざしで同胞を眺めあつた。ロに出して云ふことは何もなかつた。建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであつた。」
 今の人が読んだら、あまりに調子が高いので、かえって白々しく感じるかもしれない。あるいは、心にもないことを言っているのではないか、と思う人があるかもしれない。しかしそうではないのである。このすっきりした気分が、たしかに多くの知識人の感慨であったのだ。
 なおこの冒頭のあたり、太宰治の文章の影響が顕著である。「これで安心と誰もが思ひ」の一段なぞは太宰その人の文章と言っても通用する。竹内の太宰好みは一貫しており、一年後にも「哲学に比すると文学は影が薄く。唯一の例外は太宰治で、太宰に対する興味は今年度も継続したが、他は殆ど読まず、読んでも軽蔑だけを感じた」(第九十一号後記)と言っている。竹内が太宰を見離すのは戦後復員して『惜別』を読んでからである。
 さて「宣言」、二段落とばして――
 「率直に云へば、われらは支那事変に対して、にはかに同じがたい感情があつた。疑惑がわれらを苦しめた。われらは支那を愛し、支那を愛することによって逆にわれら自身の生命を支へてきたのである。支那は成長してゆき、われらもまた成長した。その成長は、たしかに信ずることが出来た。支那事変が起るに及んで、この確信は崩れ、無残に引き裂かれた。苛酷な現実はわれらの存在を無視し、そのためわれらは自らを疑つた。…わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいぢめをするのではないかと今の今まで疑つてきたのである。」
 その疑いは、きれいに晴れた。
 「われらは支那を研究し、支那の正しき解放者と協力し、わが日本国民に真個の支那を知らしめる。われらは似て非なる支那通、支那学者、および節操なき支那放浪者を駆逐し、日支両国万年の共栄のため献身する。…間もなく夜は明けるであらう。やがて、われらの世界はわれらの手をもって眼前に築かれるのだ。諸君、今ぞわれらは新たな決意の下に戦はう。諸君、共にいざ戦はう。」
 竹内は、「それで、この機会にもう一度支那を見てきたいと思つてゐる。…何もかも初めからやり直しである。最初から出直す。今こそ僕らの働くときである。…力を尽してみたい。一ぺんでも世の中を動かしてみたい」(第八十一号後記)と、十七年二月中国旅行に出かけ、四月下旬にもどって、七月の第八十五号から「旅日記抄」を書きはじめた。しかし案に相違してこれはただの観察記であって、とても「世の中を動かす」底のものではない。三回書いて一回休み、つぎの第四回は、題は旅日記だが、中身はすべて中野重治の『斎藤茂吉ノート』の感想、それも以前と同じ、祭壇をまわって呪文をとなえる式のものである。一年前の昂揚はすでにまったくない。
 その十一月に東京で大東亜文学者大会が催され、中国文学研究会にも参加の要請があったが、竹内はことわった。日本文学報国会の幹事である奥野信太郎が「支那の文学者を招待するのに、日本における唯一の支那文学の団体である中国文学研究会が加はらぬのはをかしいから、何とか出てくれ」と懇ろにすすめたが、竹内は頑として拒んだ。
 竹内は第八十九号の「大東亜文学者大会について」でこう書いている。
 「僕は、少くとも公的には、今度の会合が、他の面は知らず、日支の面だけでは、日本文学の代表と支那文学の代表との会同であることを、日本文学の栄誉のために、また支那文学の栄誉のために、承服しないのである。…弄ばれる支那文学が痛ましい。昭和十七年某月某日某の会合があつて、日本文学報国会が主催したが、中国文学研究会は与らなかつたといふことを、その与らぬことが、現在においては、最もよい協力の方法であることを、百年後の日本文学のために、歴史に書き残して置きたいのである。」
 はっきり、異端たることを選ぶ立場にもどっている。
 この二個月後に、竹内は突然中国文学研究会を解散した。相談にあずかったのは在京の武田泰淳、実藤恵秀、千田九一、それにたまたま大連から出張で来ていた小野忍の四人だが、その一人の千田が「万事は竹内が決する。竹内の腹一つだ。意のまゝだ」と書いているように、相談して存続か廃止かをきめるというようなことではなかった。
 他の地にいる仲間たちには寝耳に水で、ショックだったようだ。北京にいた飯塚朗が、「二月十二日の夜、岡崎が慌てゝ飛び込んで来た」云々と書いている。同じく在北京の岡崎俊夫に手紙で知らせ、飯塚への通知を頼んだ模様である。
 岡崎は竹内にあててこう書いている。
 「兄が会をやめると云ひ出した時、在京の連中はみんな異議なく御尤もと賛成したのであるか。原来会は兄一個のものではなく、兄がやめても他に代つてやるものがあり、その場合当然従来の精神や性格が変更されても、とにかく会は存続し得るにも拘らず、兄がやめると云ひ出したら、ハイソウデスカと承知したとすると、正しく会は兄一人のものでしかなかつたわけだ。…兄はさういふ連中の唯々諾々に満足なりや、まさか、みんな俺と同じ考へを懐いてゐる、乃至懐くべきであると思つたり、俺がやらんと誰も他にはやり手はないぢやないかと秘に自負する気持は毛頭あるまい。むしろ彼等に慊らぬものが多分にあつて、それが、一層兄をしてやめる気にさしたものと思ふ。…遠くに離れてゐて碌に話も通ぜず、たゞ切歯するのみ。」
 竹内はなぜやめることにしたのか。千田は、「この終刊号には、きっと巧いことばを書き連ねると思ふが、こんどばかりはいまゝでのやうに簡単にはいくまい」と言っている。
 その終刊号、昭和十八年三月の第九十二号に、竹内は「中国文学の廃刊と私」と題する長い文を書いている。例によってなかなかわかりにくい。「われわれが党派性を喪失したこと」、それが解散の理由だと竹内はくりかえし言っている。
 中国文学研究会は、漢学と支那学を否定するために生れた。それらを打倒するか、逆に叩きつぶされるか、竹内が期待したのは多分後者だろう。ところがそれらは倒れもしないし叩きつぶしにも来ない。のみならず『中国文学』は支那学に似てくるし、支那学は『中国文学』に似てくる。殺されに出てきた叛逆者が抱擁されては立つ瀬がない。
 松枝茂夫の竹内あて手紙に「われわれはいはばロジンによつて起つた、今ロジンの伝統守りえないこと不可能なが自明の事とあれば、いさぎよく自ら絶つ外はあるまい」とある。文はやや不順だが松枝の言いたいことは非常によくわかる。竹内の長い文章を短く言えば、つまりそういうことだったのであろう。
(『東方』’93.12)

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