活死人王害風

幸田露伴『活死人王害風』

 露伴には、道教ないし神仙について書いたものが、大正六年の「支那に於ける霊的現象」より昭和十六年の「仙書参同契」まで、相当数ある。うち、岩波講座「哲学」の一冊「道教に就いて」(昭和八年)と同「東洋思潮」の一冊「道教思想』(同十一年)は概論、あとは個別のテーマについて書いたものである。
 露伴は何でも片端から読む人であり、おもしろいもの、重要な問題に目をつけるのも早くて、しかもするどい。早くも明治二十年代に元の雑劇について詳細に紹介し、あるいは水滸伝の実証的研究に手をつけるなど、おどろくべき慧眼である。道教も、従来の学者はまるで無視していたのを、露伴は「支那民族の間の古伝説や習気や信仰や思想や感情や希望や叡智が…一大団塊を成した」(『道教思想』)ものとして重視したのである。ただしフィールドワークなんぞは無論しない。文献一本槍である。
 その道教・神仙関係のなかでは、のちに「論仙」という総題で一括される「仙人呂洞賓」(大正十一年)「扶鸞之術」(同十二年)「活死人王害風」(同十五年)が最も力が充実しており、さらにそのなかでは「活死人王害風」が最もおもしろい。戦後、河出書房の「現代日本小説大系」に「論仙」が入り、講談社の「日本現代文学全集」に「活死人王害風」のみが入っている。全集では第十六巻。
 露伴の創作生涯には三つのピークがある。第一は、明治二十二年「露団々」で文壇に登場してから日露戦争ごろまで。この時期は、おりおり学殖の片鱗を見せるものの、小説家露伴である。第二は大正後半。露伴はすでに文壇を離れた、あるいは超越した大家で、史伝の力作を多く書いた。第三は昭和十二年第一回文化勲章を受けたあとの数年。この時期は、神様が時々あらわれて作品をくだし、世人は恐惶してこれをおしいただく、という感じである。「論仙」三篇はその第二のピーク、露伴五十代の後半、油ののりきった時期に書かれたものである。
 「活死人王害風」は全真教の教祖王重陽の伝記である。王重陽は金代前半つまり十二世紀の人。全真教は道教の一派であるが、そもそも道教というのが一大団塊なのであるから、その一分派を建てたというより、新宗教をおこしたと考えたほうが実情に近い。まずイエス・キリストのような人と思えばまちがいない。
 実際キリストに似ているので、教祖存命中はいっこうにはやらず、ただ晩年に得た数人の弟子が熱心かつ有能であったので、教祖歿後に大教団に発展した。
 無論似てないところもある。一番ちがうのは、教祖自作の詩がたくさん残っていてその人柄がわかることだ。自在に俗語をまじえた闊達な詩である。頭のはたらきの早い、センスのいい人で、場合に応じてすらすらと詩を作ったらしい。この史伝のおもしろさも、その半分は引用されている詩のおもしろさである。露伴も、詩がおもしろいから調べて伝記を書く気をおこしたのだろう。
 今の陝西省、終南山のふもとの人である。農村の資産家の三男、相応の教育も受けている。しかし新宗教をおこすくらいだからもとよりなみの人間ではない。わがままで周囲と調和しない、酒と遊びの好きな、アウトサイダー的、ないし破滅型の人であった。人は彼を「害風」と呼び、やがてみずからもそう称した。害は害群之馬の害、風は風紀、醇風美俗である。つまり日本語の、困りもの、やくざもの、くらいにあたる。周囲よりこれを見ればただの困りものだが、当人は既製の価値観にとけこめず、煩悶したり反抗したりしていたわけだ。
 そういうことは若い時にはありがちで、そのうち周囲の価値観をうけいれて人なみになる。人はそれを大人になったと言うのだが、なかには五十をすぎても大人にならないのもおり、王重陽はそういう人であった。五十二歳の時に作った自伝詩がある。おもしろいので御紹介しよう(露伴は書きくだして引用しているが、場所をとるので原文にもどす。まちがいがあるかもしれないが御容赦を)。
  余當九歳方省事
  祖父享年八十二
  二十三上榮華日
  伯父享年七十五
  三十三上覺婪耽
  慈父享年七十三
  古今百歳七旬少
  觀此遞減怎當甘
  三十六上寐中寐
  便要分他兄活計
  豪氣衝天恣意情
  朝朝日日長沈醉
  壓幼欺人度歳時
  誣兄罵嫂慢天地
  不修家業不修身
  只任他空望富貴
  浮雲之財隨手過
  妻男怨恨天來大
  産業賣得三分錢
  二分喫著一酒課
  他毎衣飲全不知
  余還酒錢説災禍
  四十八上尚爭強
  爭奈渾身做察詳
  忽爾一朝便心破
  變爲風害任風狂
  ……… 
 父が死んだあと兄に財産分けを強要し、もらった田地は売りとばして飲んでしまい、兄夫婦とは喧嘩し、まわりのものにはいばりちらし、妻子は泣かせ、と手のつけようのないならずものである。
 五十の年に妻子と別れ、自分の墓穴を掘って入り、三年開墓中にいた。ただしまだ生きているから、活死人すなわち生きている死人と自称したのである。この時に作った詩がたくさんある。たとえば、
  活死人兮活死人
  不談行果不談因
  墓中自在如吾意
  占得逍遥出六塵
 あるいは、
  活死人兮活死人
  與公今日説洪因
  墓中獨死眞嘉話
  並枕同棺悉作塵
 この人の詩はどれも、ことばがすなおに出てきているのがいい。
 ここでちょっと、露伴の文章を紹介しておこう。文語文、というより書きくだし文である。露伴の頭のなかで発想される文章は漢文であり、書く際に日本語の語順にしてかなが添えられる。一昔前の、幼時より漢字ばかりの本を読んで育った人の文章はしばしばそういうものだった。王重陽の墓入りについて言う。 
  蓋し古より道を體し眞を證せんとする者、大抵皆獨自一個の心、獨自一個の身、獨自一個の性命、獨自一個の精霊を以て、直ちに宇宙に當り、緊〔きび〕しく古今に對せんと欲す。故に或は土穴に潜み、或は石窟に坐し、或は曠野荊蕀、人の終〔つひ〕に到る無き處に飄浪し、或は深山○(山+酋)崒〔しうしつ〕、鬼も亦居らざるの地に玄黙す。釋迦の山に於ける、基督の野に於ける、マホメットの洞窟に於ける、皆純粹の全獨自一個を以て、驀然湛然〔ばくぜんたんぜん〕と時間空間に直面し、我の由〔よ〕って來〔きた〕るところ、我の去って往くところ、我のこゝに立つところを觀、智といふも未だ盡さず情といふも未だ眞ならず意といふも未だ全からざる渾然たる一體を以て、器世間非器世間未分の境に入り、或は人と境と時と三亡一存するの地に出で、眞に人我天地三世の源頭に立ち落處を得んとす。
 何やらむつかしげなことを言っているようだが、これを露伴の頭に浮かんだ文章にもどすならば、「蓋自古要體道證眞者、大抵皆獨自一個心、獨自一個身、獨自一個性命、獨自一個精靈、以欲直に當宇宙、緊對古今。故或潛於土穴、或坐於石窟、或飄浪於曠野荊蕀人終無到之處、或玄黙於深山○崒鬼亦不居之地…」と、いたって明快なのである。昔から真理を得ようとした人たちはみな、完全な孤独に身をおいて、無限の時間、無限の空間にたった一人で直面した、ということだ。このころの露伴の文章を、日本語を知らない中国の学者が漢字の部分だけ読んで完全にわかったというが、それはそのはずなのである。
やがて王重陽は墓を出て東方へ行き、山東半島の海岸地方で馬丹陽ら七人の弟子を得て、ここに新宗教全真教が発足することになる。
(『東方』'94.8)

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