北京苦住庵記

木山英雄
『北京苦住庵記 日中戦争詩代の周作人』 (筑摩書房)

 一九三七年七月、日本軍が本格的な中国侵略を開始して、北平(北京)および天津が陥落すると、各大学の教員および学生は続々非占領地区に脱出して、同年十一月には、湖南省長沙において、北京大学、清華大学、天津の南開大学の三校が合同で国立長沙臨時大学を開き、この長沙もあぶなくなると、さらに雲南省昆明に移って、翌三八年五月、国立西南聯合大学を設けた。
 この時、北京大学教授のうち、日本軍占領下の北京に残った人が七人いた。周作人、馬幼漁、孟森、馮漢叔、繆金源、董康、徐祖正の七教授である。
 周作人自身は残留の理由を係累の多さに帰している。
 当時周作人は五十三歳で、同居の家族が九人いた。妻(日本人)、息子、娘、娘の子二人、弟周建人の妻(日本人、周作人夫人の妹)、その子三人である。このほかに、同居してはいないが生活の面倒を見ていた家族が二人いた。母と、兄魯迅の妻である。魯迅は、母と妻を北京に残して愛人許広平と南方へ駆落ちし、すでにこの前年に上海で死んでいる。弟建人も妻子を捨てて上海にいた。周作人は、奔放な兄と弟に遺棄された妻子までかかえこむ破目になっていたわけで、この家族たちをおいて一人で奥地へ逃げるわけにはゆかない、というのが彼の弁明であった。
 日本軍は、三七年十二月、北京に王克敏を首班とする「中華民国臨時政府」を作らせ、この臨時政府が翌年、もとの国立北平大学、北京大学、清華大学、交通大学の四校を合併して「国立北京大学」を建てた。中国ではこれを「偽北京大学」と呼んでいる。
 周作人はこの偽北京大学に招かれて、まず図書館長になり、ついで文学院長(日本式に言えば文学部長)になった。
 さらに四一年には、華北政務委員会の教育総署督弁に就任した。華北政務委員会は、南京に汪兆銘の「国民政府」ができて以後の北方の政府機構であり、教育総署督弁はわが国の文部大臣にあたる。
 また同年、「東亜文化協議会」の会長予定者として訪日し、宮中に参内したり、明治神宮、靖国神社に参拝したりしている。東亜文化協議会とは、日本と中国との学術文化協力機関として日本が作った組織である。
 そんなふうにして、周作人は、ずるずると対日協力者の道を歩んだ。
 わが国とちがって、夷狄(周辺野蛮民族)の支配下におかれることの多かった、武力は弱くても文化の誇り高く自尊の念の強い中国では、知識人が夷狄の支配者に仕えるというのはこれは大変なことで、民族の罪人として歴史に汚名をとどめることになる。現に、近年刊行された『北京大学校史』には、「淪陥後の北平にとどまった北大教員はごく少数で、そのなかでも……きわめて例外的な周作人のごときやからが、日寇に協力し、恥ずべき漢奸になった」と激しい鞭撻を加えている。
 だから周作人も、そうアッサリと協力者になったわけではない。しかし日本が、この声名高い、しかもかねてより親日派として知られる人物をほうっておくはずもなく、周作人のほうも、日本占領下で生活している以上、徹頭徹尾拒絶の態度を貫き通せるわけもなく、最少限の妥協が積みかさなって、少しづつ少しづつ、深みにはまって行ったのだった。
 木山英雄『北京苦住庵記・日中戦争時代の周作人』(一九七八年、筑摩書房)は、そうした周作人の歩みをフォローした本である。
 この本はふしぎな本で、あるいはよくできた本で、この間の周作人が躊躇し、逡巡し、あるいは当惑し、呻吟するとともに、それを叙述する木山氏の文章も躊躇し、逡巡し、当惑し、呻吟する。つまり木山氏の文体そのものが周作人の行蔵であり思いである、という仕掛けになっている。こうこうこういう段取りで日本の手先になりました、というような簡単明快な話ではなかったのだし、木山氏もそれを拒否するのを基本姿勢としてこの本を書いているのである。
 わたしはこの本を何度読んだことかしれない。というのが、あの複雑な戦争の複雑ないきさつのなかで、事態が今どういうことになっているのか、渦にまきこまれたようにだんだんわからなくなってきて、時々ふと気がついて顔をあげてみると、前よりだいぶ悪い所へ来ている。おやおやいつのまに――とまた初めにもどるのである。周作人は初めにもどるわけにはゆかなかったが、時々ふと気がついて……の思いは同様であったろう。洒落ではないが、『北京苦住庵記』は、主人公と著者とが二人三脚で苦渋の道をたどる記なのである。
 一九四五年八月に日本が敗退したあと、周作人は十二月に自宅で逮捕され、翌年五月、他の重要通敵者たちとともに、飛行機で首都南京へ護送されて裁判を受けた。同囚のなかには、一言の弁解もせず黙って死刑になった人もいたが、周作人はしきりに情状を訴え罪の軽減を乞うて、いさぎよい態度を期待した人々を失望させたそうである。北京大学の元同僚たちの助命嘆願もある程度奏効して、結局同年十一月に「通敵叛国」の罪で有期徒刑十四年の判決がくだった。
 しかし実際には、南京老虎橋の監獄で二年あまり服役したのみで、四九年一月、北京が共産党軍の手におちたその月に、他の有期囚たちとともに釈放され、八月に北京へもどった。
 その後の周作人は、共産党の保護のもと、北京の自宅で翻訳や回想録の執筆に専念し、一九六六年暮、プロレタリア文化大革命が勃発した直後に、八十一歳で死んだ。 
(『東方』'91.7)

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