台湾海峡一九四九

龍應台 著/天野健太郎 訳 『台湾海峡一九四九』 (白水社)

〈外省人と台湾人。歴史の“敗者”を見つめ直すノンフィクション〉

 中国および台湾の、1945年(日本が敗けて大陸・台湾から退〔しりぞ〕いた年)からの5年ほどを書いた本である。
 著者は、1952年生れ、女、台湾(中華民国)の高官・研究者である。夫はドイツ人。ドイツに住む息子フィリップが母に、家族の歴史を尋ねた。母も直接には知らないから、1年がかりで調べて、息子に語る形で書いた。
 これは、今では台湾の人も中国へ行って、身内や親族に会って話を聞けるようになった、ということがかかわっている。著者も湖南省へ行って、年老いた兄に初めて会っている。
 著者の名前「應台」には歴史が刻まれている。1950年に台湾へ逃げてきた父母は、まもなく中国へ帰れるつもりで、「台湾にいた時に生れた子」の意味で「台」の字の名をつけた。「台」の字の子は皆そうである。
 父母はそれきり中国へ帰れなかった。子は台湾で育って台湾の人になった。この一家だけでなく、何百万人の中国人が皆同じである。
 一例をあげよう。1948年の秋、河南省南陽の5000人の男女中学生(今の日本の小学上級から高校生くらいにあたる)が、迫って来た共産党軍に追われて、先生につれられて南へむかって逃げ出した。1年後に広西省に入った時には半分にへっていた。広西では国民政府軍3万人といっしょに逃げ(追ってくる共産軍の大砲の弾が落ちると一ぺんに何人もが死ぬ)、中越国境を越えた時には300人弱にへっていた。ヴェトナムで兵士たちと共に3年半のあいだフランス軍の収容所に入れられ、1953年6月、迎えに来た中華民国海軍の軍艦に乗って台湾高雄についた時には208人になっていた。25分の1である。
 この時期に中国で動き出した難民・兵士(この両者は相当部分重なる)がかりに5000万人、そのうち命あって台湾にたどりついたのが200万人とすると、同じくらいの割合である。
 とにかく、人が大量に死ぬ。人の命がおそろしく安い。国民政府軍も共産党軍も、将校は軍人であるが、兵士はかっさらって来た農民や少年であるから、一度の戦いで何万人死のうと、かわりは無限にいるから気にしない。
 台湾人は、軍隊というのは日本軍のようなものだと思っていたから、上陸して来た中国軍が、鍋釜や七輪をさげて背に傘を挿し靴もはいてないぼろぼろの乞食の群だったのに驚いたが、当人たちはさらわれた不幸な農民なのである。死なずに台湾についたのだから幸運とも言えるが――。
 逆のケースも多々ある。或る台湾女性。1948年に対岸の福州出身で台湾に住む男と結婚し、2人で、夫の両親に挨拶しに行った。それきり帰れなくなり60年たった。
 2009年に著者が福州でインタビューしたが、台湾語を忘れている。台湾の歌はまだ歌えますか、ときいたら、1つおぼえていて歌ってくれた。
 なんと日本語の「君が代」であった。子供のころ学校で歌わされたのが、70年ぶりくらいで出てきたのである。もちろん当人は、自分の口から出ているのが日本語だとは知らない。
 かように、1945年以後は日本が退いたあとだが、中国にも台湾にも、日本は大きな影をおとしている。
(『文藝春秋』’12.9)

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