国語という言葉 (5)

  「国語」は場合によっては険悪な、暴力的な語である。したがって「国語学」「国語学者」も場合によっては険悪である。
 『海を渡った日本語』の第八章に国語学者時枝誠記〔ときえだもとき〕のことが出てくる。時枝(一八九〇―一九六七)は昭和二年(一九二七年)から十八年(一九四三)まで京城帝国大学(今のソウルにあった日本の大学)の助教授・教授だった人である(そのあとは東京帝国大学教授)。つまり勤務地は朝鮮だがそこで教えるのは国語である。当時の朝鮮は日本だから日本の帝国大学があり、授業は当然国語でおこなっていたのである。
 時枝は朝鮮に住んでいるのだから、散歩したり買物したりする時、また学校の行き帰り電車の中バスの中などで聞くのは朝鮮語である。大学の学生の中にはもちろん朝鮮人の学生もいる。専攻は国語学でありそれを国語で教えており、周辺には朝鮮語が満ちているのだから、いやでも国語と日本語と朝鮮語の性質なり関係なりについて考えることになる。それを論文や著書にする。
 朝鮮語は人類の話す言語の一つであり、日本語と同列である。しかし国語はちがう。日本語や朝鮮語より一段上の価値ある言語である。――これが時枝が考えた(編み出した)理論であった。
 時枝は著書も多いし、研究者が時枝について書いた本も多い。時枝の所説・理論はいろいろ読むと多少のズレもある。しかしその中心の考えとして、川村著は昭和十七年に発表した「朝鮮に於ける国語政策及び国語教育の将来」と題する論文の左の所を引いている。ところどころわたし(高島)の感想をはさみながら引きます。川村著の引用のまま。引用文のカッコつきふりがなはわたしがつけたおせっかいです。
  〈国語は国家的見地よりする特殊な価値的言語であり、日本語はそれらの価値意識を離れて、朝鮮語その他凡〔(すべ)〕ての言語と、同等に位〔(くらい)〕する言語学的対象に過ぎないものである。〉
 日本語は、朝鮮語・英語・フランス語・タガログ語等々地球上で人類がしゃべっている何千の言語と同等の言語学的対象である。国語はちがう。価値的言語である、と言う(以下「と言う」は省きます)。
  〈従つて国語と日本語とは或〔(あ)〕る場合にはその内包〔(ないほう)〕を異〔(こと)〕にすることがあり得〔(う)〕る。〉
 国語と日本語とはその中身が必ずしも同じではない。以下、方言は日本語ではあるが国語ではない、という話になる。つまり「おまへん」とか「あかん」とかは日本語であるが国語ではない、ということですね。
  〈方言は標準語に劣らず或〔(あるい)〕はそれ以上に研究的価値ある言語学的対象であり、又誰しも己〔(おのれ)〕の方言に母の言語としての懐〔(なつ)〕かしさを感ずるであらう。しかし、国家的見地は之〔(こ)〕れらの方言を出来る限〔(かぎり)〕無くさうと努力する。こゝに標準語教育、国語教育の優位が現われて来るのである。〉
 国語とは標準語である。方言に対して優位である。
  〈国語は実に日本国家の、又日本国民の言語を意味するのである。国家的見地よりする方言に対する国語の価値は、とりもなほさず朝鮮語に対する優位を意味するのである。〉
 この「とりもなほさず」が曲者ですね。つまり朝鮮語は日本の方言の一つだというのですからね。朝鮮は日本の一地域なのだから、朝鮮語は日本の一方言だというわけですね。ただし左に「方言や朝鮮語」と言うから一応方言とは別、という逃げ道も用意してある。
  〈方言や朝鮮語に対して国語の優位を認めなければならないのは、その根本に遡〔(さかのぼ)〕れば近代の国家形態に基くものといはなければならない。こゝから我々は又大東亜共栄圏に於ける日本語の優位といふものを考へる緒〔(いとぐち)〕が開かれるのである。〉
 内地および外地、つまり日本では、国語である。大東亜共栄圏では、日本語である。大東亜共栄圏で話されている言語はあまたあるが、その中で「日本語の優位といふものを考へる」、つまり主要語として行こう、というわけである。

 安田敏朗『植民地のなかの「国語学」』('98三元社)は表紙(ラッピング)に「時枝誠記と京城帝国大学をめぐって」とあるように、一冊すべて時枝について書いたものである。これもよい本である。
 中に時枝の論文や著作を多く引用してある。こういう所がある。引用は、ふりがなとも、安田著引用のまま。
  〈方言は、国語研究上如何〔いか〕程〔ほど〕重要な価値があらうとも、我々の言語生活上それが標準語と同等に価値があるとは考へられないのである。時には方言は極力撲滅〔きょくりょくぼくめつ〕しなければならない場合すらあり得るのである。〉
 この極力撲滅すべき方言には朝鮮語も含まれる。
  〈この問題に対する私の結論を卒〔ママ〕直に述べるならば、半島人は須〔すべから〕く朝鮮語を捨てゝ国語に帰一〔きいつ〕すべきであると思ふ。国語を母語とし、国語常用者としての言語生活を目標として進むべきであると思ふ。〉
 以下、朝鮮語の現状は「甚〔はなはだ〕しき混乱と不統一」であり、国語への統一は「半島人にとつてはもつとも内面的な又精神的な一の福利である」とつづく。つまり朝鮮語をなくしてしまうのが朝鮮人にとっての幸せだ、ということである。
 なお同著者の『「国語」の近代史・帝国日本と国語学者たち』('06中公新書)も多く時枝について書いたものである。
 イ・ヨンスク『「国語」という思想』('96岩波書店)、同『「ことば」という幻影』('09明石書店)は、朝鮮人の立場から国語について書いたものであり、多く時枝にも触れている。
 なお方言をなくしようというのは戦前の日本国家の目標であるから、そう主張した国語学者は時枝誠記だけではない。たとえば保科孝一も、
  〈各地方の方言を打破すること。〉
と言っている(安田著所引)。
 東條操『方言と方言学』(増訂版昭和十九年春陽堂)の著者東條は、こういうテーマ内容の本を書くくらいだからもとより方言の貴重なこと尊重すべきことを説いた国語学者であるが、しかしこの本のなかでこう書いている。
  〈翻つて、国民思想統一の立場から考へると国語統一の必要は勿論いふまでもなく急務であり、国語教育の目的が標準語教育による国語統一にあることは疑ふべからざる事実である。〉
 いやでもこう書かねばならなかった。それが戦前の国語学の置かれた立場だったのである。

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