おかわいそうに

 机のわきの本棚に、ルイス・ブッシュ、明石洋二譯『おかわいそうに 東京捕虜收容所の英兵記録』(昭和三十一年文藝春秋新社)という本があった。こんな本が棚にあることも知らなかった。なんで五十年以上も前の本がすぐそばの本棚に残っていたのかもわからない。しかしともかく多分、昭和三十年代前半ごろ(一九五〇年代後半ごろ)に買って、そのころに読んだのだろう。もちろん内容は全くおぼえてないので、読み返してみた。
 著者ルイス・ブッシュは副題にあるように英国人で、戦争中日本軍の捕虜收容所にいた人である。
 原題は表紙および中表紙にCLUTCH OF CIRCUMSTANCEとある。この意味はわたしにはわからないが、わが人生環境の転変、とか、なりゆきのままに、とかいうことかなあ、と思う。いや根拠は何もないよ。アテズッポである。しかし「おかわいそうに」という意味ではなさそうである。
 この本の中には「おかわいそうに」という言葉は出てこない。多分版元文春新社の人が、人目を引いてよく売れるようにと考えてつけた題だろう。当時の人には「おかわいそうに」と言えば意味がわかったからである。
 当時つまり昭和二十年代のころの「おかわいそうに」という言葉の意味、それにまつわる話は、今の日本人はたいていごぞんじないだろうと思う。しかしそのころの日本人なら誰でも知っていた。わたしは中学高校生だが、中学高校生ももちろん知っていた。捕虜にかかわる言葉である。
 ことがあったのは戦争中だが、人々が誰も知るようになったのは戦後である。
 昭和十六年(一九四一年)十二月に日本は英米に対して戦争をしかけた。当初たくさんの英米兵を捕えた。つかまえたものの処置に困ってしまった。そこで人種によってわけて、現地人(アジア人)は釈放して労務者として使い、西洋人(白人)は急いで收容所を建てて收容した。
 戦争が進むと日本は、男は片っ端から兵隊にしたので労働者が不足した。そこで捕虜を日本へつれて来て働かせることにした。捕虜を日本に運ぶのは輸送船である。
 そのころには制海権も制空権も敵方に奪われている。極力目立たぬように運んだ。それでもしばしば潜水艦や飛行機に見つかって攻撃され撃沈された。輸送船団には護衛の駆逐艦をつけるのだが、潜水艦や航空機による攻撃を阻止するのはむずかしい。潜水艦や飛行機は、その輸送船には味方の捕虜が乘せてあるとわかれば攻撃を躊躇したかもしれないが、たいがいそこまではわからなかったのだろう。
 途中で船が沈められて死んだ捕虜は約一万一千人、日本に到着したのは約三万五千人である。――この数字は笹本妙子『連合軍捕虜の墓碑銘』(二〇〇四年草の根出版会)による。この笹本著はたいへんすぐれた本です。
 日本についた捕虜は各地に送られて単純肉体労働に従事させられた。わたしも見たことがある。
 わたしが育ったのは兵庫県西南部の造船の町である。父親は造船所で働く建築工であった。ある日どういうことからであったかはおぼえてないが、父が造船所の中を見せてやろうとつれて行ってくれた。その時捕虜を見たのである。
 無論父は捕虜を見せてやろうとつれて行ってくれたのではない。捕虜がいたのは多分偶然である。三四人(さんよにん)だったと思う。
 わたしはそれまで西洋人を見たことはなかった。突然見たので、それはそれはびっくりした。赤くて大きかった。髪が黄色くて、見たこともない顔をしていた。白人であるが、毎日日射しの下で上半身裸で肉体労働をしているから日燒けで赤くなっていたのかもしれない。それとも、白人とは言うけれど、知らない日本人が初めて見るとその肌は赤く見えるのかもしれない。とにかくその時の印象は七十年後の今もなお強烈である。
 さて「おかわいそうに」の件である。
 横浜かどこかで、日本兵につれられて行く捕虜を見た老婦人が「おかわいそうに」と言ってお菓子かせんべいか何かをあげた、というのである。その時は多分その老婦人は「何をするか!」と日本兵にどなりつけられたろうが、その話が伝えられたのはその時ではない。
 敗戦後、戦争中にそういうやさしいおばあさんがいたという話が、ひろく伝えられたのである。戦後の日本人にとっては心なごむ戦争中の話であった。
 だから出版社の人は戦後、戦争中の連合軍捕虜についての訳書を出す時に、その題を『おかわいそうに』としたのであろう。この題を見たら当時の日本人なら誰でも連合軍捕虜についての本だとわかる。それも捕虜にあたたかい気持をかけた心やさしい日本人についての本だとすぐわかるからである。
 こういう、一時期の人なら誰にもわかったが、その後忘れられた言葉を引く辞書がないものですかねえ。

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