播州言葉 (1)

 徳川宗賢・真田信治編『関西方言の社会言語学』('95世界思想社)はおもしろかった。中でも鎌田良二「近畿・中国両方言の表現形式の地理的分布」はわたし自身にかかわることだから興味深かった。残念ながら筆者の鎌田氏はどこの育ちなのか書いてない。
 わたしは播州〔ばんしゅう〕で育ち、今も播州に住んでいる。播州は兵庫県の西南部である。海(瀬戸内海)に面し、すぐ隣は岡山県である。
 兵庫県は広い。本州で、両端の青森県と山口県を別とすれば、太平洋側と日本海側と、双方に面した県はほかにない。わたしたち播州の者にとっては同じ兵庫県と言っても日本海側とは全く縁がない。太平洋側(瀬戸内海側)でも神戸方面とは外国みたいなものである。
 すぐ西隣が岡山県だが、言葉がまるで違う。わたしは三十代四十代のころに岡山県で勤めたから岡山県の言葉はたっぷり聞いた。播州と岡山県(備前)との境が、西日本における言語の境である。岡山県の言葉・発音は東京に近い。
 ところがこの本を見ると、同じ兵庫県でも南と北(但馬)とでは違う。この本は双方の海岸線沿いの言葉を線状に調査したものだが、南の瀬戸内海沿いは関西語だが、北の日本海沿いは中国方言であってそのまま鳥取県につながる。関西語は北東と南西へ延びていて、北東は能登半島へ、南西は香川県徳島県まで延びているが、兵庫県北西部の但馬は鳥取と同じ乙種型(東京型)なのだそうである。つまり「兵庫県の言葉」という一つのものはないのである。
 わたしは播州で育って播州の言葉をしゃべっていたので、自分の言葉を外から、いわば客観的に、意識したことはなかった。
 思い出してみると、それに近いことが一度だけあった。昭和十九年、国民学校二年生の時に、神戸大阪方面から疎開の子が数人入ってきた。わたしはどちらかと言うと人見知りする子だったと思うが、この時の疎開の子とはすぐ仲良くなった。幼稚園以来の同級生よりむしろ疎開の子とのほうが仲良くなったくらいである。その時の友だちとは七十年後の今日まで親しくしている。
 疎開の子はわたしどもと種々違う所があった。たとえば疎開の子は靴をはいていた(わたしどもは藁草履、雨の日は下駄である)。中でも大阪から来た赤尾は革の靴だった。今でも赤尾と顔を合わせるたびに「何しろお前は革の靴やったもんなあ」と言う。赤尾はそのたびに「それは初めだけや。子供の足はじきに大きいなるでなあ」と言う。七十年来それをくりかえしている。
 赤尾は「来ない」ことを「けーへん」と言った。それがわたしがおぼえている限り初めて聞いた「外の言葉」である。それじゃ自分たちは何と言うのか、その時には考えなかった気がする。今考えてみると「こーへん」か「きーひん」で、「こーへん」が多いようである。
 この本に、
  〈「来ない」のコーヘンは播磨地域で古くから使われていたものだが、神戸でもかなり見られる〉
とある。岡山県に入ると「こん」であり鳥取県も「こん」である。
 「ひん」については「書かない」の項に、
  〈カカヒンの否定ヒンは、本来、語幹末尾イ音である上一段活用などにつくもので、ヘンが順行同化によりヒンとなったものである(起キヘン→起キヒンなど)。〉
とある。それがイ音以外にもひろがったわけである。ただし「きーひん」は瀬戸内海沿い地域では「着ない」であって、「来ない」を「きーひん」と言うのはあげられていない。わたしの育ったあたりだけなのかもしれない。
 言いどめの「じゃ・や」についてかなり詳しく書いてある。わたしが子供のころ、若いころは皆「じゃ」であった。「雨じゃ」「どこ行くんじゃ」「帰るんじゃ」など。考えてみると今わたしは皆「や」と言っている。この本に、
  〈そもそも、ヤは江戸末期に大阪の女のことばとして生まれたものである。(…)それが、現在では近畿のほとんどがヤ専用になってしまっている。〉
 とある。「や」が「じゃ」を駆逐してゆく趨勢なのであり、わたし個人もその中にいて無意識にそうなったのであるようだ。
 一歩岡山県に入ると「じゃ」である。岡山県は近畿語に染まらないのである。なお日本海沿いは但馬から鳥取にかけてすべて東京語の「だ」である。ここでも兵庫県は一つではない。
 ここで福浦のことを書いてあるのがおもしろい。福浦は播州海沿いの最西端、あるいは岡山県海沿いの最東端である。昭和三十六年に、それまで岡山県だったのが兵庫県に編入されたのだそうだ。昭和三十六年(一九六一年)にはわたしは東京へ行っていたので福浦が兵庫県に入ったことを知らない。なぜ県境が変ったのかも知らない。そもそも福浦という地名も知らない。多分一部落程度の小さな地域なんじゃないかと思う。現在は赤穂市に入っているとのこと。福浦の言いどめ語についてこうある。
  〈ここで注目されるのは福浦の成人である。成人男性はヤ、女性はジャになっている。これは、先に記したように、この地はもと岡山県であったので、福浦から離れて他の土地へ出かけることの少ない女性は岡山式のジャを使っているのに対し、男性は赤穂市に編入され赤穂の旧市内から姫路市のほうへ出かけるので姫路式のヤになったものと思われる。〉
 兵庫県では女から先にヤになり、あとから男がヤになった。福浦は兵庫県とは言え元来岡山県だから、その地にいる女は岡山式のジャで、昭和三十六年に兵庫県に編入されると男は仕事などで兵庫県へ行くからヤになったのである。
(つづく)

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