本はおもしろければよい (5)

 戦後わたしたちの町に本屋が二軒できた。一軒は妹尾〔せのお〕さんという本を売る店、一軒は山下さんという、住宅街の中の物置を改造したような貸本屋だった。
 どっちも小さい店だったが、特に妹尾さんは小さくて、本棚が壁の一面の四段ほどだった。そりゃそうだ。戦争に負けて本が出るようになったと言っても、急にそうこんな地方にまで回ってくるほど大量に出たわけではなかろう。その点山下さんは、古いよごれた本でもいたんだ本でも本でさえあればいいのだから、集めやすかったろう。
 わたしはせっせと山下さんに通〔かよ〕った。そのうちに、子供の読めそうな本、おもしろそうな本はみな読んでしまった。
 佐藤卓己『「図書」のメディア史』(岩波書店)に、わたしと同世代の池田満寿夫さんの文を引いてあった。
  〈戦後も、しばらく同様の書物欠乏の時代が続いていた。終戦時に一一歳だった作家・池田満寿夫が「少年時代の読書」(一九七五年一月号)で述べるように、戦後に少年たちが読んだ本は戦後民主主義の読み物ではない。山中峯太郎や高垣眸、佐藤紅綠の作品が載った『少年倶楽部』のバックナンバーや「戦前の古書」だった。「私たちは民主主義教育の最初の洗礼者だったが、読書の方は戦前戦中のものばかりだった。終戦後の数年間は中学生用の新刊書を見たこともなかったし、級友たちが持っていたものは、戦前戦中に刊行された古本ばかりだった。」〉
 まことにこの通りだった。いわゆる「血湧き肉躍る」少年小説である。わたしは特に高垣眸が好きだった。『豹〔ジャガー〕の眼』『快傑黒頭巾』『まぼろし城』など忘れられない。
 山下さんがすむとあとは妹尾さんしかない。しかしここは新しい本を売る店である。まさか次々に買うわけにはゆかない。
 わたしは母に、妹尾さんの本を山下さんの本みたいに読みたい、と言った。母も困ったろうが、妹尾さんへ相談に行ってくれた。交渉の結果こうきまった。――妹尾さんの店の本を一冊につき一晩だけ、定価の一割の値段で借りる。わたしはそれを、手をよく洗って、本が売り物として変形しないよう、ほんの少しだけ開いて読む、そのことは誰にも言わない、――という協定である。
 さてそういうことで戦後の新刊書を次々読んだのだが、どんな本を読んだかたいてい忘れてしまった。坪田讓治の本がちっともおもしろくなかったのをおぼえているくらいのことである。

 しかしまあそういうわけで、本のことや著者のことや出版社のことを子供にしてはよく知っていたのはたしかである。
 だから昭和二十四年(一九四九)に岩波書店が宣伝誌『図書』を出すことになった時も、そのことを何で知ったのかは記憶にないが、すぐ申しこんだ。『図書』は戦前にも出ていたが(昭和十七年まで)それはわたしは知らないから、わたしにとっては創刊だったわけである。すぐつづいて『文庫』も出し始めたのでこれも申しこんだ。宣伝誌だから事実上タダだったのである(両誌はその後『図書』に一本化した)。他の出版社の宣伝誌も出ると知ると片端から申しこんだが、皆岩波よりはだいぶあとだったと思う。
 この『図書』で自然と岩波精神、言わば「イワナミズム」を刷りこまれたと思う。上に「一杯喰わされた」と書いた件である。
 それまでは、幼いころから、本はおもしろい、おもしろいから大好き、であった。おもしろくない本も多々あるが、それは読まないまでのことである。それでどうということはない。
 ところが岩波は、「古典」「名著」を読め、そして「教養」を身につけよ、と教える。こちらは、病気になったことのない、バイ菌に接したことのない無抵抗の体のような子供(少年)だから、これに手もなくひっかかってしまったのである。本を読むことは、おごそかな、人の人間としての向上・成長に必須のことになった。
 どんな本が「古典」「名著」であるかは岩波がきめる。いろいろあるがたとえばヴォルテールだとかドストエフスキーだとかいうのが「必読書」である。読みかけてみるとなんにもおもしろくない。
 これまでだったら読みかけておもしろくなかったらほうり出して、それでおしまいである。ところが今度はそうはゆかない。ヴォルテールやドストエフスキーの価値がわからないのはぼくが悪いのだ、という気になる。そういうふうに導くのがイワナミズムなのである。本を読むのはたいそうなことになってしまった。
 なぜそう導くのか。岩波文庫を売るためである。しかしそれがわかったのはずっとのちのことである。
 いつ、どんなふうにしてこのイワナミズムの呪縛から抜け出したのかよくおぼえてない。意識的に抜け出したのではない。
 わたしは職業の関係で、昭和三十年代の後半ごろから、つまり一九六〇年代ごろから、日本の本、日本語の本をほとんど読まない時期がかなりつづいた。たまに日本の本を読む時はおもしろい本を読む。たとえば向田邦子を読む。そんなふうにしてだんだん、自然に抜け出したのかと思う。

 最近、千葉県習志野の大岩和子さんが、勢古浩爾『定年後に読みたい文庫100冊』('15草思社文庫)という本のことを教えてくれた。それは100冊のなかにわたしの本を入れてくれてますよと教えてくれたのだが、そのことを別としてもこの本はおもしろかった。
 「まえがき」に、
  〈だから選考の基準はたった一つ。読んで「おもしろいかどうか」だけである。〉
とある。
 第8章の章題は、
  〈古典・名作はどうでもいい〉
である。その第一行に「名作におもしろいものなし」とある。読んでゆくと、トルストイ『アンナ・カレーニナ』、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』をまだ読んでないと言って、こうある。
  〈つい「恥ずかしながら」と書きそうになった。そうなのだ、やはりこんな名作を、こんな歳になるまで読んでいないのは「恥ずかしい」という思いが、まだわたしの心のどこかに残っているのである。日本文学・世界文学の「名作」という刷り込みはかくも強烈である。〉
 この、自分の心をのぞきこんでの告白には心を打たれた。今では「本はおもしろければいい」と思いながら、心のどこかに、名作を読んでないのははずかしい、という気持が残っているのである。勢古さんは名をあげていないが、これが日本の知識人の若いころをとらえたイワナミズムの呪縛である。
 もちろん当人の仕事関係は別である。仕事に必要ならおもしろいのどうのとぜいたくは言っていられまい。
 それ以外は、本はおもしろければそれでよい。当人にとっておもしろい本を読んでいればいいのである。

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