本はおもしろければよい (3)

 母も本好きだった。
 母は四国の香川県からちょっと愛媛県側に入った海沿いの川之江辺の育ちである。明治末年の生れである。子供のころ冬に冷い川で下の子のおむつを洗っていると、向うの土手を友だちがつれだって楽しそうに学校へ行く。自分も行きたくて行きたくて、ぼろぼろ泣きながらおむつを洗った、とよく言っていた。学校へやってもらえなかったのである。
 日本は明治のころから義務教育が行われたのだから子供は皆学校へ行ったのだと思っている人がいる。大間違いである。それは立て前である。「女に学問は不要」の考えは根強いし、女の子はある年ごろになったらけっこう役に立つから、地方の下層の子は学校へやってもらえない。時々就学率なるものを書いているものがあるが、それはせいぜい入学率であり、それも役場や学校の名簿である。入学したからとて卒業まで行ったとは限らない。そうでない子のほうが多い。
 母は十の時京都へ奉公に出され、三上さんというお医者さんの家(兼医院)に住みこんだ。奥さんともどもたいへんいい人だったそうだ。わたしが子供のころにも何かと言えば三上さん三上さんと言い、物を贈ったり時々挨拶に行ったりしていたようだ。わたしも赤んぼのころに抱かれて行ったようだ。一人で家においとくわけにもゆかないし、子供ができましたと見せる意味もあったのだろう。ごく幼いころ母につれられて行ったような気もする。しかしそれは母に話を聞いているうちに自分の記憶のようになったのではないかとも思う。
 三上さんは母を夜間の看護婦学校へやってくれた。だから母はその後ずっと看護婦だった。初めは京都で、のちには四国にもどって病院に勤めていたらしい。わたしが子供のころには主婦専業だった。もっとも友だち誰のうちのお母さんもそうなのだから「主婦専業」なんて言葉はなかったけれど。
 わたしが学校へあがったころ、斜め裏に早瀬さんという若い夫婦だけの家があった。その早瀬さんの家に吉川英治『宮本武蔵』の揃いがあると聞いて、母が一冊づつ順に借りてきて家事の合間に熱心に読んでいた。母が読み終るとわたしが読んだ。そうゆっくり借りているわけにもゆかないし母も早く続きが読みたいしで、忙しかったのをおぼえている。この『宮本武蔵』が、わたしが読んだ『偉人野口英世』の次の本らしい本であった。
 だから母は、わたしが友だちに「本気違い」と言われるのも、自分の血を引いているのだからしようがない、と思っていたようだ。
 ある意味でいい時代だったというのは、誰も本を読むのはいいことだなどと言わず、もちろん自分でも思わず、ただ本を読むのはおもしろいとのみ思っていたからである。

 子供のころの同学年生は、昭和十七年の四月に幼稚園に入ってから二十七年に新中〔しんちゅう〕(新制中学校)を出るまで十年間ずっと同じ顔ぶれである。増えたのは戦争末期に神戸大阪あたりから数人疎開して来たのと、敗戦後に満洲あたりから一人二人引揚〔ひきあげ〕の子が来ただけである。それ以外はそっくり同じ顔ぶれであった。だからそういうものだと思っていた。
 姫路の高校に入ってから聞いてみると、幼稚園に行かなかったというやつが多い。郡部の連中はそもそも幼稚園なんかなかったと言う。それで初めてわたしどもの相生〔あいおい〕は特殊なのだということを知った。
 相生は全員が造船関係者である。商店も相手は造船関係者である。仲良しの松浦の家は油屋で松浦は名前をきかれると「油屋の松浦」と言っていたが、店先で油を売っているわけではなく、造船所に油を入れているのであった。
 幼稚園も造船所の幼稚園である。もっとも造船所の中ではない。町全体が造船所の関係個所みたいなもので、そのうちの運動施設が集中した所にあった。わたしは子供だから幼稚園が造船所の幼稚園だとは知らなかったが、そう言えばわたしたち子供が午前中歌を歌ったりして帰るころになると、剣道具を持った青年たち(わたしから見ればおじさんたち)が集って来ていた。つまり剣道場を午前中幼稚園にしていたのである。造船工の余暇活動の仕組などわかるわけもないが、お昼前後が余暇活動の組もあったのだろう。
 造船所の幼稚園だから同じ地域の同じ年齢の子全員がいたのである。
 もっとも朝鮮人の子はいなかった。学校にあがると各組に数人づついた。みんな体が大きかった。話によると朝鮮人の子はその年齢になっても学校へ行かない。そのうちに役場の人が気づいて注意する。だから一つか二つ年上の子なのだということだった。ほんとうかどうか知らないが体が大きかったことはたしかである。
 朝鮮人でも國本〔くにもと〕だけはわれわれと同じ年恰好、体つきだった。家が近いのでわたしは國本と仲良しだった。口数の少いおとなしい子だった。
 國本の家はほかの朝鮮人の家と全くちがっていた。ほかの朝鮮人の家は川っぷちの一ヶ所にかたまったバラックで豚がいた。匂いがするのでわれわれは土手上の道を急いで通りすぎた。
 國本の家は本通りに面する女郎屋〔ぢょろや〕だった。わたしは子供だから無論女郎屋〔ぢょろや〕が何をする所か知らないが、二階建の大きな立派な家であった。われわれふつうの日本人の家とは比べものにならない。その家はいつも表が全面的に開いていて、赤いきれいな長い着物をぞろっと着た女の人が家の中にも表にも大勢いた。
 國本は道をへだてた向いのふつうの家の、三畳か四畳半くらいの部屋に、二つ三つ年上の兄さんといっしょに住んでいた。わたしはしょっちゅうそこへ遊びに行った。行くと、当時はもう手に入らない『ノラクロ』などの戦争前の漫画の本が次から次へとあった。
 そこで漫画を見たり國本としゃべったりしていると、時々國本のお父さんが来た。品のいい、やさしい感じの人だった。わたしを見るとにっこり笑って、「級長さん、遊んだってな」(遊んでやってね)と言うのだった。わたしが学校で級長だということを國本に聞いていたのだ。それで級長さんが遊びに来てくれるように、手に入りにくい戦争前の漫画の本をどういう方法でか次々手に入れて持って来ていたのだろう。今思うと当時、裕福な朝鮮人が日本でやれる商売は女郎屋〔ぢょろや〕くらいしかなかったんじゃなかろうかと思う。
 戦争が終るとすぐ國本の一家は朝鮮へ帰った。わたしがその時もうちょっと大きかったら、朝鮮の家の住所を教えてくれとか、こちらの所書きを渡して向うへ帰り着いたらここへ知らせてくれとかしただろうが、考えつきもしなかった。だから國本とはそれきりである。女郎屋は戦後もそのままだった。だれかがあとを引受けたのかもしれない。

(つづく)

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

たかしまとしお

Author:たかしまとしお
高島俊男「お言葉ですが…」ブログへようこそ!
ここでは「お言葉ですが…」の最新原稿と単行本未発表の書評などを掲載します。

単行本著作一覧・連載記事一覧は下記リンク欄をクリックしてください。

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク