江戸の天才数学者

   鳴海風 『江戸の天才数学者 世界を驚かせた和算家たち 』 (新潮選書)

〈身分を超えて学術を楽しんだ人々〉

 江戸時代と現代とでは、社会における数学の位置がまったくちがう。
 現代の数学は、子どもが学校でいやいややらされるものであり、入試の苦手課目である。それが尾を引いて、おとなになって五十年たっても「数学」と聞いただけで拒絶反応を示す。はい、かく申す小生がそれであります。
 ところがこの本を読むと江戸時代はまるでちがうのですね。知的娯楽、ゲームであって、全国に数学ファンがいっぱいいる。今の碁・将棋にあたると言っていい。もちろんいやいややらされる者は一人もいない。
 この本には著名な数学者の名前がいっぱい出てくる。レベルも高かった。関孝和は「世界に先駆けて行列式やベルヌーイ数を発見」したとある。建部賢弘は「円周率の自乗の公式」をスイスのオイラーより先に発見した、と今の数式になおして示してくれているが、無論わたしにはチンプンカンプンです。
 わたしが名前を知っていたのは甲州犬目村の兵助である。百姓一揆の本によく出てくる。天保の大一揆の首謀者で、死刑になる寸前に逃げ、全国各地を逃亡した。数学を教えて逃亡の費用をかせいでいたとあるので、そんなことができるのかとかねて思っていたが、この本にはそういう「遊歴算家」が多く出てくる。つかまれば死刑、というのは兵助だけだけれども――。
 遊歴算家は「現代風に言えば、移動数学セミナーをおこなう有名大学の教授のようなもの」とある。大したものなのである。
 この本には主として山口和という人のことを書いている。今の新潟県の農村の生れで、江戸へ出て「数学道場」(有名な塾の名)に学び、ここで一二を争う実力を身につけて、遊歴算家になった。奥羽から九州まで全国をまわっている。
 今の宮城県あたりで千葉胤秀という数学者にあった。門弟三千人という実力家である。四日にわたって議論した。結果、山口和のほうが力が上とわかった。千葉胤秀は十も年下の山口和に、弟子にしてほしいと頭を下げた、とある。実力だけの世界なのである。胤秀も立派だ。山口和は、江戸へ行って数学道場で学びなさい、とすすめた。胤秀は言われた通り江戸へ出て学び、十数年後、数学道場版として『算法新書』という「後世に残る名著」を出版している。
 山口和や千葉胤秀は農村出身の人だが、一方有馬頼徸という数学者は、九州久留米藩の藩主、つまり大名である。子どもの時から数学が好きで、関〔せき〕流の学者(幕臣)の門人になった。
 このお殿様学者の生地について「久留米城で生まれた」とあるのは不審に感じた。大名は参勤交代するが妻子は幕府の人質だから江戸常住である。「入〔いり〕鉄砲に出女〔でおんな〕」で大名の奥方は江戸を出られない。国元の妾が生んだ子のようでもない。江戸で数学を学んだことはたしかである。藩主になってからも多くの数学書を著わした。数学の世界に身分はない。
 ただ、主流の関流は家元制度をとり、高度の数学は秘伝として公開を阻んだ。上にわたしが名をあげたのはみなそれに反対した人たちである。有馬のお殿様も、関流に学んだけれども学術の公開を主張し実践した人であった。
(『文藝春秋』’12.11)

江戸の読書会

   前田勉 『江戸の読書会 会読の思想史 』 (平凡社選書)

〈身分と勝敗が衝突する知的な「遊び」〉

 若いころから、ずいぶん読書会はやってきた。「この本をいっしょに読もう」と仲間があつまって読む。規約などうるさいことは何もない。途中から加入する者もいるし、来なくなるやつもいる。すべて自由である。読むのは外国語のものだから下調べして行って、順ぐりに読んで訳したり説明したり質問したりしながら進んでゆく、というふうである。
 しかし、日本人はいつからこういうことをやっているんだろう、なんて考えたことはなかった。
 この本は、その昔の読書会について書いたものである。昔は「会読〔かいどく〕」と言ったのですね。
 始まったのは京都の伊藤仁斎〔じんさい〕の学塾と江戸の荻生徂徠〔おぎうそらい〕の学塾、特に後者がきっかけで全国に広まったとあるから十八世紀である。読むのは儒教の経典である。やりかたはわれわれの読書会と大差ない。ただ、多くのばあい先生がいる。先生はみんなの解釈や討論を黙って聞いていて、最後に優劣を判定し、採点する。
 著者は、会読を主要学習形態とする日本の学問が、世俗の名利と結びつかない「遊び」であったことをくりかえし強調する。中国・朝鮮では、学問は高官位高収入に直接つながるものであったのだから、これは根本的な相違である。この、純粋に「遊び」であるという点は今の読書会と同じである。
 大いにちがうのは、昔の会読は激烈な「競争」の場であった、という点だ。うまく読めた者は席順があがり、読めなかった者は席順がさがる。寄宿寮では寝場所までちがってくる。会読は、遊びのなかでも、勝ち負けを争う遊びである「アゴーン(競争)」であったのだ、とある。
 ややこしいのは、江戸時代は身分制社会だったことだ。身分のあつかいは私塾と藩校とでよほど違う。私塾は、生徒の入学時の年齢・学習歴・身分の違いをゼロにして、ヨーイドンで競争を始めさせる所が多い。武士と庶民さえ一応対等ということになる。藩校はそうはゆかない。家老の子もいれば下士の子もいる。身分が物を言う。
 この本には福沢諭吉がよく引用されるが、福沢は、身分は低いが学校で会読となれば「何時〔いつ〕でも此方〔こっち〕が勝つ」と言っている。身分の上下と会読の勝ち負けとが衝突するのである。
 西洋の学術が入ってくると、会読は消滅した。その初めは幕末の文久三年(一八六三)に医学所頭取となった松本良順である。それまでは、学生がオランダ語の医書を読んで、これは前置詞だとか接続詞だとかやかましくやりあうのが医学所の勉強だった。遊び・競争である。医術とは全然関係ない。
 良順はそういう勉強を一切禁止し、頭取が一方的に、理化学、解剖学から始めて内科学・外科学まで系統的に講義し、学生はそれを聞いて記憶する西洋式のやりかたに改めた。確かにそうでなくては近代的医師は養成できないが、役人は教室が急に静かになったので良順に苦情を言ったそうだ。
 明治以後の学校は皆西洋流・松本良順式で、知識を系統的に教える。
 われわれの時代の読書会は、自発性・対等性など昔の会読と似た所もあるが、勝負の要素はない。会読の伝統とは断絶したものであったようだ。
(『文藝春秋』'13.2)

天下無敵のメディア人間

   佐藤卓己 『天下無敵のメディア人間 喧嘩ジャーナリスト・野依秀市 』 (新潮選書)

〈「言論界の暴れん坊」と異名をとった男の生涯〉

 傑作『「キング」の時代』(岩波書店)でメディア史のおもしろさを広汎な読者に知らせた佐藤卓己さんが、またまた、飛びきりのメディア人間野依秀市〔のよりひでいち〕の明治から昭和戦後にまでまたがるハチャメチャな活躍を、見事に描き出す本を書いてくださった。
 「広告媒体(メディア)」は第一次大戦中にアメリカで生れた言葉である。野依秀市のメディア活動はその前から始まっている。
 大正デモクラシーの時代は、日露戦後、明治40年ごろから始まる。民衆の時代であり、広告の時代である。一人の賢者の知遇を得るより千人の愚者に名を知られるほうがずっと値打ちがある。野依はこの時代のトップバッターである。
 野依は広告取りの達人である。広告取りはユスリと紙一重である。
 一方、野依がその長い広告人生で売り広めた商品は「野依秀市」であった。野依秀市の知名度があがれば金はいくらでも入る。入った金で野依秀市を売る。時代を先取りしていた。
 初めは、明治38年20歳、慶応の商業夜学校生の時に友人と作った『三田商業界』というごく小さな雑誌である。小さいが広告は有名大企業からうまく取ってくるから金はもうかる。
 雑誌の呼び物は各界著名人の放談であった。初め、慶応出身の著名人から名刺を1枚もらう。同じものを多数印刷して表に「この者は前途有望の青年です。引き立ててやって下さい」と書いて著名人に会い、談話を取って大きくおもしろく書き、紹介状をもらってまた別の著名人に会う。つまりイカサマだが、だれもが野依に好意を持ったというから、トクな人柄なのである。
 3年後に『実業之世界』と誌名を変えたころには、各界著名人――財界の大御所渋沢栄一、早稲田総長(首相)大隈重信、文壇の大家三宅雪嶺等々が後楯につき、発行部数も数万部に達していた。
 野依は数百冊の著書を出したが、皆他人に書かせたものである。書き手はたいてい堺利彦、山川均など一流の社会主義者だから、文章も達者だし、社会批判や資本主義批判も鋭く、よく売れる。「おれの本はみな人に書かせたものだ」と威張るその文章も堺などが書くのである。雑誌も、そのものズバリの『野依雑誌』など数多く出した。
 しょっちゅう恐喝罪で監獄に入る。その際は東京の一流の会場に各界著名人多数を招いて盛大に入獄歓送会を催し、はなばなしく入獄する。出獄の際も同じ。そして大々的に獄中記を発表する。弁護士は常に名の売れた人権派弁護士が何人もついている。
 どこにでも誰にでも喧嘩を売る。政府、大臣、大企業、有名人、いっさい容赦しない。特に昭和初年の軍部攻撃はすごい。あの時代に野依ほど正面から軍を批判した者はいない。
 と言って、左翼というわけではない。「敵本位主義」だから、右を叩く時は左、左を叩く時は右である。軍部を攻撃する時は天皇をかついだ。
 戦争中は「米本土空襲」を看板に、東条英機首相の非科学性と言論圧迫に敢然と刃向かって見せた。
 メディアのおもしろさと怖さを生身で体現した一種天才人物の生涯とその時代が目に見える1冊である。
(『文藝春秋』’12.7)

中国・電脳大国の嘘

安田峰俊『中国・電脳大国の嘘  「ネット世論」に騙されてはいけない 』 (文藝春秋)

〈インターネットは厄介な隣国を変えるのか?〉

 いま、中国のインターネット人口は五億人に達する、と言われる。
 ネットではしばしば、従来の中国の官製報道とは異なる、中国のふつうの人々の、生のすなおな声、息吹きを感じることができる。
 そこから、ここ一両年、日本のメディアでは、「ネット世論が中国を変える」という見かたが、よく示される。
 しかしほんとうにそうだろうか。そう見ていいのだろうか。
 この本はその問題を、実証的に考察したものである。著者は数年前から中国のネット掲示板にあらわれる言論を日本に紹介し、また実際に中国の各地へ行って、それら発信者と直接交流している元気のいい青年。この本は、題は大向う受けを狙ったやや浅薄な感じだが、内容はまことにしっかりした、誠実なものである。
 中国のネット人口は五億だが、真に自由に国外の情報や考えかたに触れることのできる「ツイッター」の利用者は十万人程度、ネットユーザーの〇・〇二%ほどにすぎない。
 著者は、これらの人たちに会い、話を聞いている。みな若い、高学歴で聡明な、したがって多くは都会の恵まれた企業に在籍する、知的なエリートである。当然みな、体制に対して冷淡、客観的、時には批判的である。
 しかし、獄中でノーベル賞をもらった劉暁波のような、実践的反体制知識人とはまったくちがう。言わばひよわな良心的知識人であり、体制を変えてゆくようなたくましさ、パワーは持ちあわせない。将来の中国が、彼らのような価値観を持つ人たちが主役の国になれば……とは誰しも思うが、「そんな素晴らしい未来はおそらくやって来ないだろう」と著者は言う。
 昔も今も中国は、圧倒的多数の民衆と、強い為政者と、知的で上品だが無力な知識人から成る国である。いま新しいネット時代になって、ネット利用者の一部から、為政者に対する「不平不満」も聞かれるようになった。
 しかしその不平不満は、体制そのものにはめったにむかわないし、本物の反体制知識人はあまりにも少数、弱体である。
 日本人はこれまで、中国に一方的な期待や願望を寄せ、それが冷酷な現実によって裏切られると、一気に軽蔑に傾く、という歴史をくり返してきた。
 もう、その「カン違いの歴史」から脱出しよう。中国とつき合ってゆく心構えを著者は三点にまとめる。
(1) 中国に日本人としての理想を投影して、相手側の動向に一喜一憂しない。
 たとえば「反日」熱を気にしない。中国人は昔から「乗風転舵」、お上の風向きに合わせてふるまうことによって生き延びて来た人たちなのだ。
(2) 中国や中国人を必要以上に蔑視し、思考を停止しない。
 個人的に見れば、中国には優秀な人、立派な人が多いことを忘れてはならない。
(3) 中国を、日本の価値観の延長線上にある国ではなく「ただの外国」だと考える。
 一々その通りである。よくこれだけきちんと、過不足なくまとめてくださった。近ごろ「中国本」のヒットである。(『文藝春秋』’12.3)


見えざる隣人

吉田忠則『見えざる隣人  中国人と日本社会 』 (日本経済新聞出版社)

〈六十五万人の在日中国人の実像に迫る〉

 いま日本に住んでいる外国人のなかで、何人〔なにじん〕が一番多いか。それは中国人なのだそうです。
 これはちょっと意外だったね。なぜって、「韓国・朝鮮人が断然多い。外国人と言ってもこれは別格」というのが、長いあいだの日本の常識だったからです。
 ところが本書によると、二〇〇七年にとうとう中国人が抜いてトップになっちゃった。いま日本にいる中国人は約六十五万人。すごい数だね。
 どういうことをしている人が多いのか。
 まず留学生が八万数千人。全留学生の六割を占める。つまり中国以外の世界各国各地域から来ている留学生を全部あわせても中国一つにかなわない。「教授」として日本にいる人が約二千五百人。もちろんダントツ。第二位のアメリカ人を倍以上ひきはなしている。
 これにも驚いたね。全国どこの大学にも、二人や三人は中国から来た先生がいる勘定になる。みな日本語ができて日本語で授業している。
 それから社長さんが多い。中国人は人に使われるのがきらいで、しばらく企業に勤務していても、すぐ独立して自分の会社をおこしちゃうんだそうです。
 どういう会社が多いのか。
 断然IT(情報技術)関係が多い。小生この本を読むまでITなんてことば知らなかったよ。ところがこの本にはほとんど毎ページのようにITが出てくる。
 中国はこの方面が盛んで、毎年大学の情報工学系の卒業生が三十数万人いる。つぎがなんとインドで二十数万人。対してアメリカ九万人、日本二万人とある。こりゃITさんがぞくぞく日本へ来るわけだよ。
 六十五万の中国人たちは、日本全国に均等にちらばっているわけではない。いる所にはかたまっている。その代表が埼玉県川口市芝園〔しばぞの〕町の芝園団地だ。高層集合賃貸住宅である。町全体が団地で、ここに千八百人ほどの中国人がいる。町の人口の三分の一が中国人である。中国人は中国人同士群れることを好むからこんなに多くなった。
 日本人との関係はよくない。団地の自治会には一人も入らない。しょっちゅう摩擦がおこる。問題は種々あるが、日本中どこでも中国人がいる所でおこるのが、ゴミ出しのルールを守らない、声がでかい、などだ。きめられたゴミの分別をせず、デタラメに捨てる。団地の自治会長さんは、「最低の人種だ」と吐き捨てている。
 ゴミ捨てのルールを守らなくても処罰されるわけではないし、第一だれが捨てたゴミかわからない。そういう規則は中国人は守らないのである。
 芝園団地に住む中国人の九割が大学卒で、そのほとんどが例のITなど知的な職業についている。中国人のばあい、高学歴、知的職業、教育熱心などと、社会的ルールを守ることとは無関係なのである。
 自治会長さんが言うように中国人とはそういう人種なのであるか、それとも社会主義がこういう人間を生んだのか。
 ああ、この本は日本経済新聞の連載記事をまとめたもので、著者は同紙の記者です。(『文藝春秋』’10.3)

潜入ルポ 中国の女

福島香織『潜入ルポ 中国の女  エイズ売春婦から大富豪まで 』 (文藝春秋)

〈たくましく生きる「女強人」の群像〉

 中国のさまざまな女性についてのレポートである。著者は産経新聞の元中国特派員。
 「女強人」(しっかりした女たち)についてのところがとりわけおもしろかった。
 胡蓉〔こよう〕は一九七一年生れ、「恐らく中国初の女流少年漫画家」である。中国にはこれまで、子ども向けの漫画というものがなかったのだ。
 先天的な下肢障碍者である。生れつき足が曲っているらしい。「五歳になってやっと立つことができ、七歳半になって、なんとか歩くことができた」とある。
 中国は、身体障碍者に対して冷酷な社会である。彼女は小学校にも中学校にも行けなかった。読み書きは母親に教わった。
 絵が好きだった。しかし紙がない。父親の煙草の包紙をこっそり拾って、その裏にかいていた。
 父は大学を出た農業技師、母は中学校の美術教員、という知識人家庭で、もう一九八〇年代だのに、家に紙がなかった、というのが中国らしい。
 たまたま母親がベッドの下を掃除していてこの包紙を見つけ、娘のただならぬ才能に気づいて絵具を買い与えた。それで連環画〔れんかんが〕(絵物語)をかき始めた。
 母親がそれを知り合いに見せたのがきっかけで、作品が地元新聞に掲載され、十七歳の時には全国誌に連載されるようになった。
 小学校にも行ってないのに北京の美術大学に合格。卒業後かいた漫画が国際賞を受けて日本に招待され、日本の漫画のレベルの高さを知った。「中国で漫画のパイオニアになるには、日本に行くしかない」と日本に漫画留学した。
 日本で、この障碍に負けないガッツと明るい性格に惚れた日本青年と結婚、二児ができ、漫画家としてやってゆけるようになったが、中国で漫画雑誌をつくりたい、と北京にもどった。早ければ今年(二〇一一)中に、少年ジャンプのような中国初の月刊少年漫画雑誌が生れるとのことである。
 候文卓〔こうぶんたく〕は人権活動家。一九七〇年生れ。全国の、人権を侵害された人たちを、個人で、もちろんすべて私費で、支援する人である。
 英国のオクスフォード大学と米国のハーバード大学で人権を学び、国連で人権関係の仕事をした。
 中国で人権活動家であることは、国家に対して何ら敵意がなくても、国家の敵である。住む家もない。アパートを借りても、警察が、追い出すよう家主を脅迫するからである。常に監視警官がついており、電話はすべて盗聴されている。いきなり監獄へ拉致され、痛めつけられても屈しない。
 人権侵害があると、海外のメディアに知らせて記事にしてもらう。それが有効なのは、中国政府が何より海外メディアを怖れていることを示している。中国の人権活動家は多く獄中にあるが、しかし一昔前のように闇から闇に消されないのは、海外メディアが見張っているからである。
 候文卓は今カナダにいる。海外へ逃れる、という手があるのも、一昔前とちがうところである。今の中国は、何かにつけ、海外とつながっている。(『文藝春秋』’11.5)

脱北、逃避行

野口孝行『脱北、逃避行  NGO日本人青年の脱北者支援活動と中国獄中243日 』 (新人物往来社)

〈中朝国境からベトナムへ――。運命を分けたものは〉

 脱北者、とは無論北朝鮮から脱出した人である。脱北者は必ずまず中国へ脱出する。とりあえずはそこしか逃げるところがないからである。しかし中国は安住の地ではない。中国の公安(警察)は脱北者を見つけるとつかまえて北朝鮮へ強制送還する。強制送還されると拷問や投獄が待っている。だから脱北者はさらに中国から国外へ逃げなければならない。
 著者は、中国へ逃げ出してきた脱北者を国外へ脱出させる活動をしている日本の組織「北朝鮮難民救援基金」の活動家である。無論日本政府の援助はない。民間の善意の人々の組織である。同じ活動をしている韓国の組織も多くある。こうした活動は中国では非合法なので公安に見つけられると逮捕投獄される。危ない活動である。
 昭和の三十年代から四十年代にかけて、十万人近い在日朝鮮人が、北朝鮮は地上の楽園という朝鮮総連の甘言にのせられて北朝鮮へ渡った。行ってみると楽園どころかこの世の地獄であったので、多くの元在日朝鮮人が日本に帰りたいと願い脱北を試みる。「基金」が援助しているのは主としてこの人たちである。
 脱北者を国外へ逃がすには実に多くの人の助力と費用が要る。助力者は善意の人ばかりではなく金もうけ目的で手引きをしている人も多い。それらに支払う金もずいぶん要る。
 この本の内容は大きく二つにわかれる。一つは成功の記録、一つは失敗の記録である。
 成功のほう。これは北朝鮮へ渡った時高校二年と八歳であった元在日の姉妹である。この二人は中国に潜伏していた期間が長く、そのあいだまともに食事をしていたので、日本から持って行った衣服と化粧品で身なりと化粧をさせると、日本語は話せるし、まったく日本人観光客に見えた。
 この二人を、中国語と朝鮮語と日本語が話せる中国朝鮮族の協力者(女)といっしょに、東北のハルピンから南西の広西まで鋏道でつれて行った。現地人ブローカーの手引きで山越え密出国してベトナムのハノイヘ行き、ベトナムはパスポートを持たない脱北者の出国を認めないので鉄道でホーチミンまで南下し、カンボジアヘ密出国し、プノンペンから飛行機で無事成田に帰った。
 失敗のほう。これは四十七歳女と六十歳男の元在日だが、脱北して間がないためやせこけ、とても日本人観光客には見えなかった。それでも、前と同じ朝鮮族女性と四人、大連から広西まではたどりついたが、ここで一網打尽にやられた。脱北者二人は強制送還。著者は懲役八カ月。これは前にベトナムヘ逃がしたことを秘し通したから、初犯と見られて軽くてすんだのだろう。囚人たちの獄中生活はいかにも中国らしくて面白い。協力した中国女性が三十日余の拘束だけで釈放されたのは救いである。
 著者も書いているように、国連難民条約を批准していながら、脱北者を逮捕送還するのみならず、手をさしのべようとする人たちの行為を犯罪とする中国こそ、最も非道な国と言ってよい。これらの人たちは、中国に対して何一つ悪いことをしてはいないのだから。(『文藝春秋』’10.7)

言葉の煎じ薬

呉智英『言葉の煎じ薬』 (双葉社)

〈「チャリンコ」の語源は何? 目からウロコの知識満載〉

 二三十年前ごろから、自転車を「チャリンコ」と言う呼称が生じた。『広辞苑』は一九九一年の第四版以後登載している。
 なぜそう呼ぶのだろう、とかねてより不審で、さきごろ「由来をごぞんじのかた御教示ください」と一文を草し、当方の宛名を附してさるところに掲載してもらった。が、どこからも通信はなかった。
 ところが呉智英さんのこの本を読んだら、痒い所に手がとどいたように、ずばり明快な答えが出ていた。
 朝鮮語の自転車〔チャヂョンコ〕から来たものなのだそうである。「『チャヂョンコ』が『チャリンコ』に転訛〔てんか〕するのは自然である。つまり、『チャリンコ』は数少ない朝鮮語起原の現代日本語なのである」とある。
 そうか、朝鮮語だったのか。わからないはずだ。
 特に、自転車〔チャヂョンコ〕の車〔コ〕に感激した。古い中国語では、車は居と同音である。呉音コ(居士〔コジ〕)、漢音キョ(居所〔キョショ〕)。現代中国語ではわずかに、象棋〔シアンチー〕のこま「車〔キョ〕」(日本将棋の飛車に相当)に痕跡をとどめるのみである。それが朝鮮語では、自転車という近代の物の名に上古音がのこっている。――なお同じ車でも自動車の車はチャなのだそうである。
 そのほかこの本には「へえっ」という話がいろいろある。
 だいぶ前アメリカ映画にThe Hanging Treeというのがあった。日本では『縛り首の木』。
 この邦訳題に問題があろうとは考えもしなかったが、呉さんは『新明解国語辞典』「縛り首:江戸時代、両手を縛って、首を切った刑」を引いて、「手縛り首切り」の意だと説いている。
 ええっと驚いて『日本国語大辞典』の「縛首〔しばりくび〕」の項を見るとなるほど、「戦国・江戸時代の刑罰の一つ。麻なわで罪人をうしろ手にしばり、前に突き出すようにした首を切ること」として、『甲陽軍艦』(17C初)以下、「縛頸〔シバリクビ〕をきられ」「縛り首を切り」等諸例を挙げてある。知らなかった。
 しかし、日本にもhangingの刑はあったはずだが、それじゃ何と言ったのだろう、と死刑の歴史をしらべてみたら、意外や遠く律令時代の死刑の一つに「絞〔こう〕」が規定されているだけで、平安以後江戸時代の末まで、hangingはない。したがってそれを言う日本語もない。「絞首刑」は明治十年代の近代刑法以降である。江戸時代の死刑は圧倒的に斬首が多い。
 罪人の首に綱〔つな〕を巻いて宙吊りにするやりかたは、容易に考えつくだろうし、残忍性も比較的少いと考えられるし(だから現代はこれのみである)、あとしまつも簡単だろうに、なぜ、人の頭部を胴体から切断し、血が噴出してあたり一面血だらけになる刑ばかりおこなって宙吊りを選ばなかったのか、不思議である。宙吊りは恨みが残って化けて出るという観念でもあったのだろうか。
 その他、「やおら」はゆっくりとの意であって、「突然」の意に用いるのは誤用、とある。えっ、「やおら椅子から立って」は「急に」「勢いよく」の意味だと思っていた。辞書を引くとまことに呉さん仰せの通りである。恐れ入りました。脱帽。(『文藝春秋』’10.9)



新懐旧国語辞典

出久根達郎『新懐旧国語辞典』 (河出書房新社)

〈昭和の香りがする言葉のエッセイ集〉

 言葉に関するエッセイである。
 毎項ちょうど見開き二ページ。『セピア色の言葉辞典』(文春文庫)と同じ連載を本にしたものなので、あわせて御紹介申しあげます。
 著者の出久根さんは、無論作家だが、もともと本業は古本屋さん、高円寺「芳雅堂」の御主人である。昭和三十四年、茨城県から集団就職で東京へ出て、古本屋の小僧さんになった。当時の「金の卵」の一人である。
 商売物の本を、お客さんに売る前に読んで、抜き書きを作る。そのノートが数百冊たまった、とある。勉強家の古本屋さんなのだ。
 だから、昔の本や雑誌に出てくる言葉の話がいろいろある。たとえば、「ゴマン」というのは昭和十三年の『江戸と東京』という雑誌に見えるそうである。
 数の多いことを、なぜ「ゴマンと」と言うのだろう?
 戦前の子供の、日露戦争をうたった数え歌に「五万の兵をひきつれて」とあった。これが出処とは言わないまでも、数が多いことを「五万」と言った例証にはなるんじゃないかと思うのだがいかがでしょう?
 江戸時代からある言葉、というのもいろいろ出てくる。意外なものが多い。「大都会」という言葉が「縁日で草の名を知る大都会」と川柳に出てくるそうである。「現ナマ」も江戸時代からある。
最も意外だったのは「薩摩守〔さつまのかみ〕」(只乗〔ただの〕り)だ。この本を読む前にもし人からきかれたら、「そりゃ汽車ができてからの言葉にきまっている」と答えたことだろう。出久根さんもそう思っていたよし。
 もとは乗合舟の只乗りのことだったのだ。辞書を見ると、室町末―近世初の狂言「薩摩守」に「舟にただ乗を、さつまのかみと云は、ただのりといはふがためじゃ」とあるのを引いている。そしてこれが「ただ」という語の現存文献初出でもあるらしい。
 わたしは播州(兵庫県西南部)の者だが、茨城と関西ではずいぶん言葉がちがうようだ。「ペケ」と「スカ」の意味がわからなかった、とある。
 しいて説明すればペケは×でありスカは外れであるが、関西ではこれはそういう説明や言いかえの必要をだれも感じない言葉である。基礎語彙とはそういうものだ。「しんどい」を説明せよ、言いかえよ、と言われたら関西の者は困るだろう。
 茨城にもそういう,言いかえたらニュアンスがちがってしまう言葉がいろいろあるだろうが、出久根さんは「茨城弁だけは好きになれない」のだそうである。少年のころ東京へ出て商店員になって、お客に苦情を言われた。茨城栃木は無敬語地帯で、客商売には不向きなのだ、とある。
 ある時何かの話で「背中をどやす」と言ったら笑われたので、「どやす」は茨城の方言だと思い、人前で口にするのをやめた。のち江戸の川柳を読んだら出てきた。なんだ江戸でもつかっていたのだ、とある。
 「どやす」が笑われたとは奇妙だ。イントネーションが変だったのであろうか。昭和三十年代ごろの集団就職の少年少女は言葉の面でもたいへんだったのだ、とわかる話である。(『文藝春秋』’10.11)

天皇さんの涙

阿川弘之『天皇さんの涙  葭〔よし〕の髄から・完 』 (文藝春秋)

〈日本語の粋を集めた最後の巻頭随筆集〉

 本誌『文藝春秋』巻頭の四段組みの随筆欄は、文藝春秋の看板である。創刊(大正十二年)当初からある由緒ある欄だ。と言うより、創刊当時はこの四段の随筆欄がすなわち『文藝春秋』であった。そのあとの論文や小説はその後だんだんふえてきたものである。
 その巻頭随筆欄のトップの一篇は、看板中の一枚看板、文藝春秋の顔である。ここに誰が何を書くかで一冊の格がきまる。したがって人が最も注目する。めったな人には頼めない。創刊当初の数年は芥川龍之介が書いていた。
 阿川弘之さんは、平成九年(一九九七)の六月号から同二十二年(二〇一〇)の九月号まで十三年あまり、毎号この「看板」を書いた。総題は「葭の髄から」(ちなみに阿川さんの前は司馬遼太郎さんの「この国のかたち」であった)。
 書き始めた時満七十六歳。すでに文壇の宿老である。よく十三年間大した病気もなくつづいたものだ。
 約三年分が本一冊になる。このたびの『天皇さんの涙―葭の髄から・完』は四冊め、最後の一冊である。
 巻頭随筆のトップは、内容が興趣深いものでなければならぬのは当然のこととして、あわせて文章の質の高さが求められる。それでこそ看板だ。「葭の髄から」は十分その要求に応え得るものであった。
 阿川さんは歴史的かなづかいで文章を書かれる。雑誌も本も原文のままである。
 もとより現代かなづかいでよい文章が書けないわけではない。いい文章を書く人も多くいる。しかし格調の点では、やはり歴史的かなづかいに一籌〔いっちゅう〕を輸する。「葭の髄から」を読むとそれがよくわかる。
 近年の日本語の文章の質を低くしているのはそれよりパソコンであろう。無論阿川さんの文章はパソコンとは無縁である。
 「凍結された日本語」という一篇がある。元毎日新聞記者徳岡孝夫さんの本を紹介したものである。徳岡さんはタイのバンコク駐在時、瀬戸物屋を営む台湾人のオバサンの話す日本語が美しいのにびっくり仰天した。
 わたしも台湾婦人の日本語の美しさに一驚した記憶がある。むかし友人劉文献のお母さんが日本留学中の息子の所へ来た時に劉の下宿で会った。もちろんお母さんは特にかまえて話をしたわけではないのだが、その一言一言が美しかった。バンコクの瀬戸物屋のオバサンもふつうに日本人客に応対していただけである。
 徳岡さんが書いているように、台湾の人の日本語は昭和二十年日本の台湾統治が終了した時点で凍結された。それ以後の日本語の影響を受けていない。それまでの日本人の日本語をしゃべるわけである。それが美しい。
 別の一篇で阿川さんはNHKテレビの古代エジプト遺跡の番組のことを書いている。阿川さんは楽しみにしてテレビの前に坐った。ところがその期待は無惨に裏切られた。若い女のリポーターがあらわれて、「わあッ、見えて来ました、すごーい、きゃあッ」古代遺跡の周辺走り廻って、金切声で騒ぎ立て叫び続けるのである。せっかくの番組をぶちこわしにされて阿川さんは、篇末にNHKの責任者に対する公開状を書いている。戦後の日本で女性の地位が向上したのはよいことだが、品性は確実に下落している。
 北京オリンピックの開会式をテレビで見て阿川さんは啞然とした。入場行進で日本選手は全員、日本の国旗ともう一つ中国の五星紅旗を手にして打ち振りながら歩いている。「その卑屈な心事。かういふのを日本語で『媚びる』或は『諂らふ』と称する。誰がこんな諂ひ方を考へついたのか。(…)反抗した気骨ある選手はゐなかつたのか。」
 読んでわたしも驚いた。オリンピックは見ないのでちっとも知らなかった。いったい世界中で、ほかにもそんなことをした国があったのだろうか。それを知りたいと思う。(『文藝春秋』’11.3)

台湾海峡一九四九

龍應台 著/天野健太郎 訳 『台湾海峡一九四九』 (白水社)

〈外省人と台湾人。歴史の“敗者”を見つめ直すノンフィクション〉

 中国および台湾の、1945年(日本が敗けて大陸・台湾から退〔しりぞ〕いた年)からの5年ほどを書いた本である。
 著者は、1952年生れ、女、台湾(中華民国)の高官・研究者である。夫はドイツ人。ドイツに住む息子フィリップが母に、家族の歴史を尋ねた。母も直接には知らないから、1年がかりで調べて、息子に語る形で書いた。
 これは、今では台湾の人も中国へ行って、身内や親族に会って話を聞けるようになった、ということがかかわっている。著者も湖南省へ行って、年老いた兄に初めて会っている。
 著者の名前「應台」には歴史が刻まれている。1950年に台湾へ逃げてきた父母は、まもなく中国へ帰れるつもりで、「台湾にいた時に生れた子」の意味で「台」の字の名をつけた。「台」の字の子は皆そうである。
 父母はそれきり中国へ帰れなかった。子は台湾で育って台湾の人になった。この一家だけでなく、何百万人の中国人が皆同じである。
 一例をあげよう。1948年の秋、河南省南陽の5000人の男女中学生(今の日本の小学上級から高校生くらいにあたる)が、迫って来た共産党軍に追われて、先生につれられて南へむかって逃げ出した。1年後に広西省に入った時には半分にへっていた。広西では国民政府軍3万人といっしょに逃げ(追ってくる共産軍の大砲の弾が落ちると一ぺんに何人もが死ぬ)、中越国境を越えた時には300人弱にへっていた。ヴェトナムで兵士たちと共に3年半のあいだフランス軍の収容所に入れられ、1953年6月、迎えに来た中華民国海軍の軍艦に乗って台湾高雄についた時には208人になっていた。25分の1である。
 この時期に中国で動き出した難民・兵士(この両者は相当部分重なる)がかりに5000万人、そのうち命あって台湾にたどりついたのが200万人とすると、同じくらいの割合である。
 とにかく、人が大量に死ぬ。人の命がおそろしく安い。国民政府軍も共産党軍も、将校は軍人であるが、兵士はかっさらって来た農民や少年であるから、一度の戦いで何万人死のうと、かわりは無限にいるから気にしない。
 台湾人は、軍隊というのは日本軍のようなものだと思っていたから、上陸して来た中国軍が、鍋釜や七輪をさげて背に傘を挿し靴もはいてないぼろぼろの乞食の群だったのに驚いたが、当人たちはさらわれた不幸な農民なのである。死なずに台湾についたのだから幸運とも言えるが――。
 逆のケースも多々ある。或る台湾女性。1948年に対岸の福州出身で台湾に住む男と結婚し、2人で、夫の両親に挨拶しに行った。それきり帰れなくなり60年たった。
 2009年に著者が福州でインタビューしたが、台湾語を忘れている。台湾の歌はまだ歌えますか、ときいたら、1つおぼえていて歌ってくれた。
 なんと日本語の「君が代」であった。子供のころ学校で歌わされたのが、70年ぶりくらいで出てきたのである。もちろん当人は、自分の口から出ているのが日本語だとは知らない。
 かように、1945年以後は日本が退いたあとだが、中国にも台湾にも、日本は大きな影をおとしている。
(『文藝春秋』’12.9)

ふたつの故宮博物院

野嶋剛『ふたつの故宮博物院』 (新潮選書)

〈北京、台北に分かれて収蔵される中国の「お宝」の歴史〉

 中国の北京と台湾の台北に、「故宮博物院」という同じ名の博物館がある。「故宮」とは「故〔もと〕の宮殿」、清〔しん〕王朝の宮殿であった北京の紫禁城を指す。どちらも、清朝の皇帝が集め収蔵していた宝物――書画、陶磁器、装飾品等々を保存し展示している博物館である。
 わたしはどちらも見に行ったことがあるが、何よりその量に圧倒されたのをおぼえている。
 両博物院の関係を著者は「引き裂かれた一枚の地図」と言っている。まことに適切な表現で、もとは一つのものだったのである。
 わたしが驚いたその量だが、北京百八十万点、台北六十八万点とある。
その質は「クオリティにおいては台北故宮の方が一枚上手ではないだろうか」とある。
 ただし容〔い〕れものが違う。北京は、それらを展示する紫禁城そのものが巨大な文物である。台北は近年の建造物にすぎない。
 昔の中国皇帝の権力というのは途方もないもので、数十万点、数百万点という国中の宝物を全部、皇帝一人の所有物にした。
 清滅亡時に一部流出したが、大部分は次の中華民国のものになった。間もなく日本軍が侵入して来たので政府は、国の宝が野蛮人どもに奪われぬよう、奥地へ運んでかくした。
 日本人が敗退したあと政府はこれらを、いったん首都南京までもどした。そこヘソ連にあと押しされた共産党が戦争をしかけて来て敗色濃厚になったので、時の中華民国総統蔣介石は、これら国宝を台湾へ逃がすことにした。全部はとても無理なので、選りすぐりの逸品を、一九四八年から九年にかけ三度に分けて船で運んだ。
 中国に残ったものは当然すべて中華人民共和国のものになった。
 中国の貴重な文物は、その大部分が宋代以降のものである。それ以前のものは、唐がほろびたあとの五十年に及ぶめちゃめちゃな戦乱でほとんど失われた。したがって現在、ある程度まとまって残っていて最も価値が高いのは宋代の文物である。蔣介石が運んだのは主としてこれらである。だから台北故宮は宋代に強く、北京故宮は明清に強い。併せて「一枚の地図」である。
 蔣介石は、台湾で軍備を整え直して中国を奪還するつもりであった。その時は、これら国宝も当然本来のあり場所北京紫禁城にもどることになる。
 ところがそれがなかなか容易でないことがわかってきた一九六五年、台北に故宮博物院を開設したのである。
 その後のことがまたおもしろい。
 「台湾は台湾」の立場の民進党が政権を取ると、これを台湾の博物館にしようとする。「台湾は中国」の国民党が政権を取りもどすと、中国の博物館、という性格を堅持しようとする。
 現国民党政権下、両博物院の友好関係は急速に進んでいる。双方院長の共同記者会見で、両博物院の統一についての著者の質問に対し、北京院長は前向き、台北院長はやや留保的であったそうだ。文物は中国正統の表象なのだから、二つの故宮博物院の先行きは、ひとえに台湾が選ぶ将来にかかっている。(『文藝春秋』’11.9)

裁かれた命

堀川惠子『裁かれた命――死刑囚から届いた手紙 』 (講談社)

〈極刑に処された、ある男の人生〉

 昭和四十一年(一九六六)五月、東京国分寺市の住宅地で強盗殺人事件があった。殺されたのはこの家の主婦、奪われた金は二千円。
 現場に残された指紋から足がついて、犯人は四日後に逮捕された。杉並区高円寺に住む長谷川武、二十二歳、元自動車塗装工。
 同年十一月に東京地方裁判所八王子支部の裁判で死刑の判決が下り、翌昭和四十二年五月東京高等裁判所でも死刑、翌四十三年四月最高裁で確定し、四十六年(一九七一)十一月に絞首刑が執行された。
 この本は、犯人長谷川が死刑になってから約四十年後の二〇一〇年に、この事件、および犯人長谷川とその周辺について調べて書いたものである。
 この事件は、犯人が犯行事実について争わず、判決にも不服がなく、一審の国選弁護人も異論がなく、したがって裁判はわずか二回とすらすら進み、当時から世間で問題になっていない。問題になるようなところが何もない事件である。それでも最高裁まで行ったのは左の事情による。
 犯人長谷川は母との二人ぐらしであった。長谷川は一審の死刑判決を当然と受け入れて控訴せぬつもりでいたところ、母が、控訴しなければわたしは生きていない、と言うので、判決に不満はありませんが母を徐々にあきらめさせるために形だけ裁判してください、という変った控訴趣意書を出して控訴した。二審で別の国選弁護人がついたが、この人が本人より熱心で、控訴棄却のあと、最終審では自分を私選弁護人に指定してくれ、弁護料は要らないから、と犯人に頼みこんだ。そういうわけで最高裁まで行ったのである。
 四十年も前の裁判だが、粘り強く熱心な人が本気になって調べればこんなに出てくるのか、と驚くほど多数の人や資料があらわれる。子供のころの友だち、犯行直前までの雇い主から始まって、捜査を担当し死刑を求刑した検事、判決した裁判官、最期の日まで一緒だった教誨師、等々。二、三審の弁護士はすでに死去していたが、文書多数をのこし、秘書だったその娘(もうおばあさんだが)がよく記憶していた。
 また犯人自筆の手紙など多数がのこされていて引用してある。小中学校とも成績不良で手紙はもとより字を書いたこともないというが、拘置所に入ってからは実によく手紙を書いている。誠実明晰で、その時その時の自分の気持をこれだけ的確に書ける人はめったにないと感じる。死刑が確定してから独房で飼って可愛がっていた文鳥の描写は目に見えるようだし、死刑囚ばかりの野球の試合の様子などもいい。
 本書を読んで強く感じるのは、第一に、著者のまじめさと熱意、一書にまとめる構成力である。
 つぎに、日本にはなんといい人がどこにでもいるのか、ということだ。著者が探しあて会った人、もう死んでいた人、みないい人ばかりだ。たとえば中学生の時家出して以後行方知れずだった犯人の弟はもう死んでいたが、最後に勤めていた桐生市のマージャン店主など。この本は、日本人の善意に胸を熱くさせてくれる。(『文藝春秋』'11.7)
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たかしまとしお

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