中国は崩壊しない 

陳惠運・野村旗守『中国は崩壊しない 「毛沢東(ビッグブラザー)」が生きている限り 』 (文藝春秋)
〈日中のジャーナリストが説く中国共産党の強さの理由〉

 今日〔こんにち〕の中国についてのすぐれた解説書である。しかもおもしろい。
 新聞やテレビの報道を見ていると、ついその経済発展にのみ目を奪われがちである。
 もちろん、経済発展のすばらしさはうそではない。GDP(国内総生産)が日本を抜いてアメリカにつぐ世界第二位になることは確実だし、外貨準備高も世界一である。国民の生活水準もめざましく向上した。
 しかしこの本は、それにともなう環境破壊のすさまじさも、具体的に詳しく教えてくれる。たとえば○六年に世界銀行が公表した環境汚染が進む世界の二十四都市のうち、十八までが中国の都市である。現在の中国では三十秒に一人の割合で、奇型児を含む障害を持った新生児が生まれている。かつて「住むなら淮河〔わいが〕両岸」と言われた淮河は、いま両岸に林立する工場の未処理の廃水が毎日大量に流れこみ、沿岸の村々の住民の発癌率は異常に高い。淮河がもとの姿をとりもどすには、すくなくともあと百年はかかると言う。
 経済発展にともなう役人の腐敗汚職もすごい。○八年一年間に摘発された大規模汚職公務員は約四万人、一人あたりの平均収賄額は八百八十四万元(約一億三千万円)、中国役人の二人に一人が汚職を働いているという。
 中国を支配しているのは中国共産党である。国家も政府も、党の指揮下にある。中国の最高意思決定機関は、九人の高級党員で構成される党政治局常務委員会である。
 日本には、市場経済の国となった今では共産党の人気もなくなったろう、と思う人があるがとんでもない。大学生の入党希望者は非常に多い。○六年の大学生党員数は約百九十五万人、○七年一年間だけで約百万人の大学生が新たに入党を果たした。それもそのはず、官庁、企業、その他どこに就職するにも、また就職してからも、共産党員であることは絶対的に有利であり、名誉と、権力と、莫大な富とをもたらすからである。現在党員の数は約七千四百万人、もちろん世界最大の政治結社である。この人たちが中国の経済を発展させ、またそこから利益を得ているのだ。
 中国の軍隊である人民解放軍。これも中華人民共和国の軍隊ではなく、中国共産党の軍隊である。指揮権は共産党の中央軍事委員会にあり、この許可がなければ移動することも、したがって被災地の救援におもむくこともできない,四川大地震の際、国務院総理(首相)の温家宝が要請したにもかかわらず、解放軍の現地入りが大幅におくれ、多数の被災者をむざむざ瓦礫〔がれき〕の下で死なせたのは、党中央軍事委員会の指示がなかったからである。
 八九年の第二次天安門事件の際、解放軍が多数の学生市民を射ち殺したり戦車で轢〔ひ〕き殺したりした(三千人とも三万人とも言う)のを、西側のメディアは、なぜ国の軍隊が国民を殺すのか、といぶかしんだが、不思議でも何でもない。党に刃向かう者を党の軍隊が討伐するのは当然なのである。
 この共産党中央指導部に、圧倒的多数の国民は絶大な信頼を置いている。これがゆらぐようなことはまずあり得ないことを、著者は説得的に描き出している。(『文藝春秋』'10.4)

墓標なき草原

楊海英『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録 』 (岩波書店)

〈日本の教育を受けた知識人たちが中国共産党に殺戮された秘史〉

 内モンゴルの現代史である。
 内モンゴルは現在中華人民共和国の一部「内モンゴル自治区」である。自治区と言ってもそこでモンゴル人の自治が許されているわけでないことは、チベット自治区」や「ウィグル自治区」と同様である。「自治区」というのはただのきれいごとであり、実際にこれらの地域を支配しているのは中国共産党である。
本書にこうある。
 〈「一つの幽霊がヨーロッパの大地を徘徊している。共産主義の幽霊だ」
  と、一八四八年にカール・マルクスは『共産党宣言』のなかで書いた。二〇世紀に、この「幽霊」は中国の漢族と結びついて、漢人共産主義者という特殊な集団が生まれた。この集団は少なくともモンゴル人にとっては悪魔のような存在となった。漢人共産主義集団の勢力拡大にしたがい、東アジアの大地に災禍がずっと続き、長城の北側に幸せに暮らしていたモンゴル人たちの受難の時代が始まったのである。〉
 本書が描き出す内モンゴル現代史とは、とりもなおさず、漢人共産主義集団すなわち中国共産党によるモンゴル人殺戮の歴史である。
 何ゆえか。中国とソ連は必ず戦争になる。ソ連・モンゴル人民共和国(外モンゴル)連合軍はまず内モンゴルに攻め入る。その際内モンゴルのモンゴル人は同じモンゴル人のよしみでモンゴル軍の側に立つ,そうなる前に内モンゴルのモンゴル人を殺しつくすのが中国共産党の方針だったのである。
 ところで、内モンゴルの知識人の大部分を輩出したのは内モンゴル東部である。この地域は、かつては「満洲国」であり、つまり日本であった。この、日本の教育を受けた知識人たちが主として中国共産党の虐殺の対象になった。
 本書の筆者(モンゴル人)は、トブシンという生き残りの老知識人に会ってモンゴル人の受難史を取材している。トブシンはかつて東京に留学し一高から東大に進んだ人であり、取材は日本語でおこなわれている。
 トブシンの妻デレゲルマも日本語を話す。この人は王爺廟(現ウラーンホト)の興安女子国民高等学校という日本の学校で、堂本(女)という先生に教わった。本書上巻の九四ページは、紋付袴〔もんつきはかま〕姿の堂本先生を中心に、周囲に女子生徒たちが立つ写真でかざられている。みなおかっぱ頭に白いブラウス、黒いスカートで、日本の女学生の写真とすこしもちがわない。この写真だけでも本書は買う価値がある。
 堂本先生は一九八七年と一九九一年にフフホト市をおとずれた。駅頭には当時の生徒たち約三十人が出迎えた、とある。日本の教育を受けて日本語を話すモンゴル人はまだまだ生き残っているのである。この写真は堂本先生所持のものである。生徒たちも持っていたが中国共産党に焼き捨てられた。デレゲルマも共産党によるさまざまな虐待を受けたことは本書にくわしい。
 いま内モンゴルの問題は、チベットやウィグルの問題ほど世界に知られない。それは、知識人が中国共産党によってほぼ殺しつくされたため声をあげる者がないからだと筆者は書いている。(『文藝春秋』'10.6)

パンとペン

黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い 』 (講談社)

〈「よろず文章代作請負会社」に集った〝夢想家〟たちの群像〉

 明治から昭和初めにかけての社会主義者堺利彦〔さかいとしひこ〕を中心に、その仲間たち――幸徳秋水〔こうとくしゆうすい〕、大杉栄〔おおすぎさかえ〕、山川均〔やまかわひとし〕、荒畑寒村〔あらはたかんそん〕らの「闘い」を描いた伝記である。よく調べてある。文章もしっかりしている。身勝手で、夢想家で、多分に浮浪者的・ルンペン的気質を持つインテリである社会主義者たちの群像が、おもしろく書けている。
 社会主義者とは、日本を社会主義の国にしようとめざした者たちである。社会主義は、二十世紀に、堺たちの時代よりはすこしあとになって、世界の多くの国で実際に行われた。それは、現実形態としては、共産党が専制権力を握り、土地と資本を公有化(事実は党有化)して国を運営する方式をとる。それが、実施された国の国民に巨大な災厄をもたらし、すべて失敗に帰したことは歴史が証明する通りである。現在の世界でなおほぼ純粋に社会主義が行われているのは北朝鮮ぐらいのものである。
 社会主義国で権力を握ったのはこの本に登場する日本の社会主義者のような人たちではない。どこの国にもそういうお人好しのインテリの社会主義者はいたが、ごく初期の段階で皆粛清されている。権力を握ったのはスターリンや毛沢東のような、人間百万人二百万人殺すことを蚊をつぶすほどにも思わない冷酷無慈悲な社会主義者である。つまり日本の社会主義者は、日本の国民を不幸におとしいれ、自分たちが真先に粛清されるような社会を日本で実現しようとしていたわけだ。
 したがって、お世辞にも彼らを「先覚者」と呼ぶことはできない。しかしこれら社会主義者は、今日から見てもけっこう魅力的である。なぜか。
 本書を読むと、当時の日本の、天皇制権力の悪質、兇暴がよくわかる。
 大逆事件では幸徳秋水ら十二人が死刑になり十二人が無期懲役になったが、天皇暗殺を考えたのは宮下太吉ら四人だけであとの二十人は冤罪である。堺利彦らは獄中にあったおかげで命助かった。なお大杉栄が殺された時も堺らは獄中にいた。憲兵隊は市谷刑務所に堺らをよこせと要求したのだが、所長がことわってくれたおかげで助かった。監獄は安全地帯なのである。
 しかし大逆事件によって、社会主義者は社会主義者であるという理由だけでいつ殺されてもおかしくないことがはっきりした。しかし堺らは社会主義者でありつづけた。もっとも、雑誌を出せば発売禁止になるし講演をやればしゃべり出したとたんに警官から「弁士中止」を命じられるしで、まともな発言はほとんどできなかったのであるが――。なお「君主制の廃止」は、言えば死刑だからまちがっても口にできなかった。
 堺の知識界での交友は広い。全国に支持者も多い。これは当時の日本に、権力に対して不快感、反感を持つ人が多く、彼らにとっては、いくら弾圧されても権力に盾つく姿勢を崩さない堺らは希望の星だったからである。
 売文社はこの「冬の時代」に堺たちがやっていた「よろず文章代作請負会社」である。ペン(文筆)でパン(生活費)を得ていたわけで、そのエピソ ードの数々が興味津々である。
 附記。著者は本書刊後死去された由。
(『文藝春秋』'11.1)

中国文学 2

中国文学研究会『中国文学』――開戦以後

 昭和十六年十二月、対米英戦がはじまった。竹内好は名文のほまれ高い「大東亜戦争と吾等の決意(宣言)を『中国文学」第八十号(昭和17・1)に発表した。
 全体の脈絡を見るためには全文を引かねばならぬのだが、紙幅が許さない。ところどころ引く。まず冒頭――
 「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動に打顫へながら、虹のやうに流れる一すぢの光芒の行衛を見守つた。胸ちにこみ上げてくる、名状しがたいある種の激発するものを感じ取つたのである。
 十二月八日、宣戦の大詔が下った日日本国民の決意は一つに燃えた。爽かな気持であつた。これで安心と誰もが思ひ、口をむすんで歩き、親しげな眼なざしで同胞を眺めあつた。ロに出して云ふことは何もなかつた。建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであつた。」
 今の人が読んだら、あまりに調子が高いので、かえって白々しく感じるかもしれない。あるいは、心にもないことを言っているのではないか、と思う人があるかもしれない。しかしそうではないのである。このすっきりした気分が、たしかに多くの知識人の感慨であったのだ。
 なおこの冒頭のあたり、太宰治の文章の影響が顕著である。「これで安心と誰もが思ひ」の一段なぞは太宰その人の文章と言っても通用する。竹内の太宰好みは一貫しており、一年後にも「哲学に比すると文学は影が薄く。唯一の例外は太宰治で、太宰に対する興味は今年度も継続したが、他は殆ど読まず、読んでも軽蔑だけを感じた」(第九十一号後記)と言っている。竹内が太宰を見離すのは戦後復員して『惜別』を読んでからである。
 さて「宣言」、二段落とばして――
 「率直に云へば、われらは支那事変に対して、にはかに同じがたい感情があつた。疑惑がわれらを苦しめた。われらは支那を愛し、支那を愛することによって逆にわれら自身の生命を支へてきたのである。支那は成長してゆき、われらもまた成長した。その成長は、たしかに信ずることが出来た。支那事変が起るに及んで、この確信は崩れ、無残に引き裂かれた。苛酷な現実はわれらの存在を無視し、そのためわれらは自らを疑つた。…わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいぢめをするのではないかと今の今まで疑つてきたのである。」
 その疑いは、きれいに晴れた。
 「われらは支那を研究し、支那の正しき解放者と協力し、わが日本国民に真個の支那を知らしめる。われらは似て非なる支那通、支那学者、および節操なき支那放浪者を駆逐し、日支両国万年の共栄のため献身する。…間もなく夜は明けるであらう。やがて、われらの世界はわれらの手をもって眼前に築かれるのだ。諸君、今ぞわれらは新たな決意の下に戦はう。諸君、共にいざ戦はう。」
 竹内は、「それで、この機会にもう一度支那を見てきたいと思つてゐる。…何もかも初めからやり直しである。最初から出直す。今こそ僕らの働くときである。…力を尽してみたい。一ぺんでも世の中を動かしてみたい」(第八十一号後記)と、十七年二月中国旅行に出かけ、四月下旬にもどって、七月の第八十五号から「旅日記抄」を書きはじめた。しかし案に相違してこれはただの観察記であって、とても「世の中を動かす」底のものではない。三回書いて一回休み、つぎの第四回は、題は旅日記だが、中身はすべて中野重治の『斎藤茂吉ノート』の感想、それも以前と同じ、祭壇をまわって呪文をとなえる式のものである。一年前の昂揚はすでにまったくない。
 その十一月に東京で大東亜文学者大会が催され、中国文学研究会にも参加の要請があったが、竹内はことわった。日本文学報国会の幹事である奥野信太郎が「支那の文学者を招待するのに、日本における唯一の支那文学の団体である中国文学研究会が加はらぬのはをかしいから、何とか出てくれ」と懇ろにすすめたが、竹内は頑として拒んだ。
 竹内は第八十九号の「大東亜文学者大会について」でこう書いている。
 「僕は、少くとも公的には、今度の会合が、他の面は知らず、日支の面だけでは、日本文学の代表と支那文学の代表との会同であることを、日本文学の栄誉のために、また支那文学の栄誉のために、承服しないのである。…弄ばれる支那文学が痛ましい。昭和十七年某月某日某の会合があつて、日本文学報国会が主催したが、中国文学研究会は与らなかつたといふことを、その与らぬことが、現在においては、最もよい協力の方法であることを、百年後の日本文学のために、歴史に書き残して置きたいのである。」
 はっきり、異端たることを選ぶ立場にもどっている。
 この二個月後に、竹内は突然中国文学研究会を解散した。相談にあずかったのは在京の武田泰淳、実藤恵秀、千田九一、それにたまたま大連から出張で来ていた小野忍の四人だが、その一人の千田が「万事は竹内が決する。竹内の腹一つだ。意のまゝだ」と書いているように、相談して存続か廃止かをきめるというようなことではなかった。
 他の地にいる仲間たちには寝耳に水で、ショックだったようだ。北京にいた飯塚朗が、「二月十二日の夜、岡崎が慌てゝ飛び込んで来た」云々と書いている。同じく在北京の岡崎俊夫に手紙で知らせ、飯塚への通知を頼んだ模様である。
 岡崎は竹内にあててこう書いている。
 「兄が会をやめると云ひ出した時、在京の連中はみんな異議なく御尤もと賛成したのであるか。原来会は兄一個のものではなく、兄がやめても他に代つてやるものがあり、その場合当然従来の精神や性格が変更されても、とにかく会は存続し得るにも拘らず、兄がやめると云ひ出したら、ハイソウデスカと承知したとすると、正しく会は兄一人のものでしかなかつたわけだ。…兄はさういふ連中の唯々諾々に満足なりや、まさか、みんな俺と同じ考へを懐いてゐる、乃至懐くべきであると思つたり、俺がやらんと誰も他にはやり手はないぢやないかと秘に自負する気持は毛頭あるまい。むしろ彼等に慊らぬものが多分にあつて、それが、一層兄をしてやめる気にさしたものと思ふ。…遠くに離れてゐて碌に話も通ぜず、たゞ切歯するのみ。」
 竹内はなぜやめることにしたのか。千田は、「この終刊号には、きっと巧いことばを書き連ねると思ふが、こんどばかりはいまゝでのやうに簡単にはいくまい」と言っている。
 その終刊号、昭和十八年三月の第九十二号に、竹内は「中国文学の廃刊と私」と題する長い文を書いている。例によってなかなかわかりにくい。「われわれが党派性を喪失したこと」、それが解散の理由だと竹内はくりかえし言っている。
 中国文学研究会は、漢学と支那学を否定するために生れた。それらを打倒するか、逆に叩きつぶされるか、竹内が期待したのは多分後者だろう。ところがそれらは倒れもしないし叩きつぶしにも来ない。のみならず『中国文学』は支那学に似てくるし、支那学は『中国文学』に似てくる。殺されに出てきた叛逆者が抱擁されては立つ瀬がない。
 松枝茂夫の竹内あて手紙に「われわれはいはばロジンによつて起つた、今ロジンの伝統守りえないこと不可能なが自明の事とあれば、いさぎよく自ら絶つ外はあるまい」とある。文はやや不順だが松枝の言いたいことは非常によくわかる。竹内の長い文章を短く言えば、つまりそういうことだったのであろう。
(『東方』’93.12)

中国文学 1

中国文学研究会『中国文学』――日米開戦まで

 『中国文学月報』は、第六十号(昭和十五年四月)から改組した。題を『中国文学』と改め、発行所を生活社(当時中国関係の本を多数出していた出版社)とした。編集はひきつづき中国文学研究会で責任者は竹内好である。月刊、毎号四十八ページ、定価二十五銭。年会費は三円。改組時の会員は約三百人である。
 ページ数が一挙に三倍になり、当然内容もふえ、執筆者も多彩になった。それに字が大きく読みやすくなった。これから二年ほどが一番おもしろい。
 執筆者ではなんと言っても吉川幸次郎の登場が大きい(呼捨ては気がとがめるが釣合上すべて敬称略とします)。
 吉川は竹内の天敵の一人である。第五十九号で竹内はこんなことを言っている。「長沢、吉川、倉石、目加田。この品種は俺にはなかなか興味深い。俺は他人には不遜かもしれない。だが絶対者に対してはこの人たちほど傲岸に構へてゐない。心みち足りた者は基督さへ救ひ難い」と。
 竹内は「何の因果で支那文学をはじめたかと今も悔んでゐる」人間である。一応研究者とは言っても、実際の研究の手前で、どう研究すればよいのか、何を目的に研究するのか、それが何になるのか、等々と思い悩むことを専らにしている研究者、目加田誠に言わせれば、「まるで祭壇のぐるりをまわつて呪文をとなへてゐるやう」な人である。だから上記四人のような、そうした悩みをちっとも持たず、研究の大道を堂々と歩んでいる「心みち足りた者」を見るとムカついてしようがないのである。
 目加田は月報の当初以来時々寄稿していたが、第六十号で竹内に漫罵されて以後は書いていない。
 長沢規矩也は第六十二号辞典批判特集に原稿を依頼されたが病気を理由に書かなかった。まあ書かないだろうな。
 倉石武四郎は一度だけ、第七十一号に「支那語教育について」を書いている。立派な論である。これが竹内の気にくわなかった。内容が気にくわないのではない。臆面もなく正論をはいてケロリとしている鈍感が竹内にはがまんならぬのである。それで次々号に「倉石武四郎著『支那語教育の理論と実際』批判」という大見出しを立てて悪口を言っている。正しい道を確信にみちて歩み空虚を感じないようなやつはオレはきらいだ、というような悪口である。竹内にしてみればおよそ支那を研究対象とすること自体が原罪なのだから、もだえ苦しみがなければならぬはずなのだ。
 しからば目加田・倉石よりいっそう正々堂々煩悶なしの吉川がなぜ加わることになったのか。
 改組以後「翻訳時評」という連載が始まり、最初の二回神谷正男が書き、ついで竹内が二回書いた。竹内の時評はほとんど総論ばかりだが、唯一各論に及んだのが吉川の訳書で、「吉川幸次郎氏の訳した胡適『四十自述』(創元社)は、原文も胡適流の嫌味な低調な文章だが、訳文は原文よりもなほ低俗である。とくに会話の部分は殆ど文章をなしてゐない」等々とけなし、さらに、初歩的誤訳がある、と書いた。書いても本人が見ないと張合いがないから、京都の吉川のもとへ送った。
 それから両人の手紙のやりとりが数度あって、全部第七十一号(昭16・5)にのっている。これを読んでつくづく感心するのは、吉川さんはちっともおこらないんですね。翻訳技術論に終始している。最後に「真摯な、しかし感情的ではない討論が発展することを希望しつつ筆を擱きます」と一言あるのみ。
 これにはさすがの竹内も閉口して、「誤訳があるぞ」はとりさげた。とは言え、「では、吉川氏の訳には誤訳がないかと云ふと、僕はやはりありさうな気がするのだ。誤訳のない翻訳など僕には信じられないのだが、たゞ僕は吉川氏より支那語が下手だから、これ以上云ひ張る確信がない。実証のないことは云はない方がいいだらうから、取消しておく」といかにも無念そうである。
 これがきっかけで、第七十六号から三回にわたって吉川が「翻訳時評」を書いた。これはもう、この時期のこの雑誌、いや全期を通じてもダントツに立派なものだ。実藤恵秀の「日本雑事詩」訳のまちがいから説き起し、明治以来の支那学の宿弊に説き及んだ井然有序の論である。もっとも世の中には妙な人もいるもので、柳田泉がこれを読んで憤慨し、「いさゝか相互批判に酷に過ぎ、大同団結的前進の気もちが少し足りない」「あれほどまでに切り込まなくても…」と吉川を批判している(なお吉川の時評は「翻訳の倫理」と改題して秋田屋刊『支那について』に収められた)。
 わたしが最も好感を持った文章を一つ。
 昔現代文学の翻訳を少し読んだころ、岡崎俊夫の日本語が一番好きだった。惜しいことに早く亡くなった。その岡崎が第七十四号に「悔恨」という文章を書いている。数号後に松枝茂夫が「何を今さら」と評しているようにあたりまえのことを言ったにすぎないものだが、しかしやはり支那文学に文学を求めた者として切実だし、何よりも岡崎の純な心がよくあらわれている。この「悔恨」と無縁な人はしあわせである。
 「僕はこのごろ支那の現代文学に興味を失つてゐる、嫌悪をさへ感じてゐる。数年の間それのために煩はされもともと貧しくひ弱な自分の文学の土壌を荒したことを思ひ口惜しくてならない。
 ひところは、支那の現代文学は日本で不当に遇されてゐる、西洋の名もない作家のものまで盛んに訳され読まれるのに支那の現代文学はなぜ余り顧られないのであらう、日本人が支那を侮蔑してゐるせゐかも知れない、或ひは文学の性格が西洋のそれと違つてゐて取つつきにくいためかも知れないなどと考へてみた。しかし今にして思へば、読者は僕らよりはるかに賢明であった。支那の現代文学が顧られないのは面白くないからである。性格の相違といふことも一応は考へられるけれど、何より文学としての水準が西洋の下流の文学にも及ばないからである。
(…)
 現代文学の中によいものが全くないわけではない。魯迅は立派である。郁達夫、沈従文、蕭軍らも数篇の読むに足る作品を持つてゐる。しかしその他の有象無象はその名を知らなくても決して恥ではない。寧ろ知つてゐる方が恥かも知れない。それらを訳したり論じたりするのは尚更恥づべきことであらう。僕も些かこの恥づべきことをやつた。後悔してゐる。(…)
 云はれない先に断つておくが、僕が支那の現代文学をつまらないといふのは、僕の支那語の力が足りないからではない。僕の支那語の力はいまだに頼りないが、それでも元に比べれば少しは読めるやうになつてゐる。少しでも読めるやうになれば、だんだん面白くなる筈なのにだんだんつまらなくなるのはどうしたことか。支那語がよく出来て支那の現代小説が面白いと感心する人があるとしたら恐らくその人は文学といふものがわからない人であらうと僕は思ふ。
 また一人の支那の作家がこんな小説を書いた、それはまづくはあるが彼が今の支那の状態で書いたといふことに注意しなければならない、我々は彼の下手な面白くない作品の中から支那人としての悲しみ怒りを酌みとつてやらなくてはいけない――と、このやうにいふ人があるとしたら、それに対し僕は、それは広く文化の問題であるかも知れないが、文学の問題ではないと答へたい。(…)ああ、僕は誰に向つて何を云はうとしてゐるのか。つい筆をとつたもののもう厭だ。……」
(『東方』'93.11)

北京苦住庵記

木山英雄
『北京苦住庵記 日中戦争詩代の周作人』 (筑摩書房)

 一九三七年七月、日本軍が本格的な中国侵略を開始して、北平(北京)および天津が陥落すると、各大学の教員および学生は続々非占領地区に脱出して、同年十一月には、湖南省長沙において、北京大学、清華大学、天津の南開大学の三校が合同で国立長沙臨時大学を開き、この長沙もあぶなくなると、さらに雲南省昆明に移って、翌三八年五月、国立西南聯合大学を設けた。
 この時、北京大学教授のうち、日本軍占領下の北京に残った人が七人いた。周作人、馬幼漁、孟森、馮漢叔、繆金源、董康、徐祖正の七教授である。
 周作人自身は残留の理由を係累の多さに帰している。
 当時周作人は五十三歳で、同居の家族が九人いた。妻(日本人)、息子、娘、娘の子二人、弟周建人の妻(日本人、周作人夫人の妹)、その子三人である。このほかに、同居してはいないが生活の面倒を見ていた家族が二人いた。母と、兄魯迅の妻である。魯迅は、母と妻を北京に残して愛人許広平と南方へ駆落ちし、すでにこの前年に上海で死んでいる。弟建人も妻子を捨てて上海にいた。周作人は、奔放な兄と弟に遺棄された妻子までかかえこむ破目になっていたわけで、この家族たちをおいて一人で奥地へ逃げるわけにはゆかない、というのが彼の弁明であった。
 日本軍は、三七年十二月、北京に王克敏を首班とする「中華民国臨時政府」を作らせ、この臨時政府が翌年、もとの国立北平大学、北京大学、清華大学、交通大学の四校を合併して「国立北京大学」を建てた。中国ではこれを「偽北京大学」と呼んでいる。
 周作人はこの偽北京大学に招かれて、まず図書館長になり、ついで文学院長(日本式に言えば文学部長)になった。
 さらに四一年には、華北政務委員会の教育総署督弁に就任した。華北政務委員会は、南京に汪兆銘の「国民政府」ができて以後の北方の政府機構であり、教育総署督弁はわが国の文部大臣にあたる。
 また同年、「東亜文化協議会」の会長予定者として訪日し、宮中に参内したり、明治神宮、靖国神社に参拝したりしている。東亜文化協議会とは、日本と中国との学術文化協力機関として日本が作った組織である。
 そんなふうにして、周作人は、ずるずると対日協力者の道を歩んだ。
 わが国とちがって、夷狄(周辺野蛮民族)の支配下におかれることの多かった、武力は弱くても文化の誇り高く自尊の念の強い中国では、知識人が夷狄の支配者に仕えるというのはこれは大変なことで、民族の罪人として歴史に汚名をとどめることになる。現に、近年刊行された『北京大学校史』には、「淪陥後の北平にとどまった北大教員はごく少数で、そのなかでも……きわめて例外的な周作人のごときやからが、日寇に協力し、恥ずべき漢奸になった」と激しい鞭撻を加えている。
 だから周作人も、そうアッサリと協力者になったわけではない。しかし日本が、この声名高い、しかもかねてより親日派として知られる人物をほうっておくはずもなく、周作人のほうも、日本占領下で生活している以上、徹頭徹尾拒絶の態度を貫き通せるわけもなく、最少限の妥協が積みかさなって、少しづつ少しづつ、深みにはまって行ったのだった。
 木山英雄『北京苦住庵記・日中戦争時代の周作人』(一九七八年、筑摩書房)は、そうした周作人の歩みをフォローした本である。
 この本はふしぎな本で、あるいはよくできた本で、この間の周作人が躊躇し、逡巡し、あるいは当惑し、呻吟するとともに、それを叙述する木山氏の文章も躊躇し、逡巡し、当惑し、呻吟する。つまり木山氏の文体そのものが周作人の行蔵であり思いである、という仕掛けになっている。こうこうこういう段取りで日本の手先になりました、というような簡単明快な話ではなかったのだし、木山氏もそれを拒否するのを基本姿勢としてこの本を書いているのである。
 わたしはこの本を何度読んだことかしれない。というのが、あの複雑な戦争の複雑ないきさつのなかで、事態が今どういうことになっているのか、渦にまきこまれたようにだんだんわからなくなってきて、時々ふと気がついて顔をあげてみると、前よりだいぶ悪い所へ来ている。おやおやいつのまに――とまた初めにもどるのである。周作人は初めにもどるわけにはゆかなかったが、時々ふと気がついて……の思いは同様であったろう。洒落ではないが、『北京苦住庵記』は、主人公と著者とが二人三脚で苦渋の道をたどる記なのである。
 一九四五年八月に日本が敗退したあと、周作人は十二月に自宅で逮捕され、翌年五月、他の重要通敵者たちとともに、飛行機で首都南京へ護送されて裁判を受けた。同囚のなかには、一言の弁解もせず黙って死刑になった人もいたが、周作人はしきりに情状を訴え罪の軽減を乞うて、いさぎよい態度を期待した人々を失望させたそうである。北京大学の元同僚たちの助命嘆願もある程度奏効して、結局同年十一月に「通敵叛国」の罪で有期徒刑十四年の判決がくだった。
 しかし実際には、南京老虎橋の監獄で二年あまり服役したのみで、四九年一月、北京が共産党軍の手におちたその月に、他の有期囚たちとともに釈放され、八月に北京へもどった。
 その後の周作人は、共産党の保護のもと、北京の自宅で翻訳や回想録の執筆に専念し、一九六六年暮、プロレタリア文化大革命が勃発した直後に、八十一歳で死んだ。 
(『東方』'91.7)

日本文化を語る

周作人著、木山英雄訳『日本文化を語る』(筑摩書房)

 日本には千年の昔から今日只今にいたるまで「中国大好き」という人がゴマンといる。
 逆に中国に「日本大好き」という人がどれだけいるかとなると――多分その数は限りなくゼロに近いだろう。
 もっとも完全にゼロというわけではない。すくなくとも一人はたしかにいたのであって、それが周作人という人である。この人が兄の周樹人(すなわち魯迅)につれられて日本へやってきたのは、一九〇六年(明治39)、二十一歳の時であった。以後五年間を東京でくらし、立教大学でイギリス文学とギリシャ語を勉強した。
 その間に彼は日本を愛するようになったのだが、それは、日本人の生活様式とか生活気分とかいうものが、この人の生来の気質にしっくりと合った、ということなのだった。畳のへやにごろんところがるとか、着物に下駄ばきでぶらりと夜店をひやかしに行くとか、下宿のごく質素な食事とか、周囲の日本人のさっぱりとした性格とか、そうしたことが彼にとってはいかにも気楽で居心地がよかったのだ。
 周作人は、一九一一年、日本人の妻を伴って帰国し、やがて北京大学の教授になった。知日派、親日派の高級知識人として知られた。当然、中国へ来る日本人たちとのかかわりも多かった。
 ところがそのころ――日本でいえば大正から昭和初年にかけてのころに中国へ来る日本人というのは、まったくロクでもない連中が多く、周作人の顔を汚い雑巾でさかなでするようなことばかりした。だから周作人は、いっぽうでは顔をしかめながら無礼な日本人たちに苦言を呈し、いっぽうでは彼以上に顔をしかめている中国人たちにむかって、いやいや日本人というのは本当はとってもいい人たちなのだよと弁護してやらねばならぬのだった。
 周作人はその生涯にたくさんのエッセイを書いた。そのなかには日本および日本人に関するものも相当量ある。木山英雄訳『日本文化を語る』(一九七三年、筑摩書房)は、周作人の数多い随筆集から、そうした日本関係のものを訳者の木山氏が取り出して編成した本である。
 これはまことに珍重愛惜すべき本だ。なぜというに、周作人の原文と木山氏の訳文とがそろって一級品という、めったにない本だからである。
 木山氏の訳は、単に原文の意味をつたえているだけでなく、その呼吸を移している。時には原文の上を行っているのではないかと思われることさえある。中国現代文学の翻訳で、この『日本文化を語る』を越えるものを、すくなくともわたしは知らない。
 たとえばこの本の最初の一篇「日本の人情美」、原文は周作人が一九二五年に書いて随筆集『雨天的書』におさめた「日本的人情美」、その冒頭はこうだ。
外国人が日本の国民性を云々するとき、きまって忠君ということから切り出すのは、少々見当がちがうのではなかろうか。なるほど日本の昨今の尊君教育は旺盛なものだし、外国との戦争に際してはその少なからぬ成果が示されもした。だがそれはどうやら外来の影響にすぎなくて、日本の真の精神を代表しうるほどのことではないらしいのだ。
原文はこうである。
  外國人講到日本的國民性,總首先擧出忠君來,我覺得不很的當。日本現在的尊君敎育確是隆盛,在對外戰爭上也表示過不少成績,但這似乎只是外來的一種影響,未必能代表日本的眞精神。
 「講到」を訳して「云々する」、「首先擧出」を「ということから切り出す」、「不很的當」を「少々見当がちがう」、「確是」を「なるほど」……、実によくこなれている。日本語の文章になりきっているのだ。
 しかも文章にリズムがある。どうかこの二つの文章を、句読点の所でゆっくり間をおきながら、声を出して読んでみてほしい。原文には中国語のリズムがある。訳文には日本語のリズムがある。双方ともそれぞれにこころよい。そして両者が過不足なく対応している。わたしが「これを越えるものを知らない」と言うのが決して大仰でないことを、わかっていただけると思う。
 もう一例。これも一九二五年のもので『談虎集』所収「日本與中國」、訳題「日本と中国」、の一節である。
  中日間の外交関係のことはいわぬにしても、それ以外の面で彼らが私どもに与える不愉快な印象もすでに相当なものだ。中国にやって来る日本人の多くは浪人と支那通である。彼らはまるで中国がわかってない。僅かに旧社会の上っ面を観察し、漢詩の応酬だの、中国流の挨拶だの、麻雀や芸者買いだのをおぼえたばかりで、すっかり中国を知った気になっているが、何のことはない、中国の悪習に染まり、いたずらによからぬ中国人の頭数を殖やしたようなものだ。
 原文は左の通り。
  中日間外交關係我們姑且不説,在別的方面他給我們不愉快的印像也已太多了。日本人來到中國的多是浪人與支那通。他們全不了解中國,只皮相的觀察一點舊社會的情形,學會吟詩歩韵,打恭作揖,叉麻雀打茶圍等技藝,便以爲完全知道中國了,其實他不過傳染了些中國悪習,平空添了個壊中國人罷了。
 周作人といえば日本軍の侵華以後について述べねばならぬのだが、それはまたこの次に――。
(『東方』'91.6)

活死人王害風

幸田露伴『活死人王害風』

 露伴には、道教ないし神仙について書いたものが、大正六年の「支那に於ける霊的現象」より昭和十六年の「仙書参同契」まで、相当数ある。うち、岩波講座「哲学」の一冊「道教に就いて」(昭和八年)と同「東洋思潮」の一冊「道教思想』(同十一年)は概論、あとは個別のテーマについて書いたものである。
 露伴は何でも片端から読む人であり、おもしろいもの、重要な問題に目をつけるのも早くて、しかもするどい。早くも明治二十年代に元の雑劇について詳細に紹介し、あるいは水滸伝の実証的研究に手をつけるなど、おどろくべき慧眼である。道教も、従来の学者はまるで無視していたのを、露伴は「支那民族の間の古伝説や習気や信仰や思想や感情や希望や叡智が…一大団塊を成した」(『道教思想』)ものとして重視したのである。ただしフィールドワークなんぞは無論しない。文献一本槍である。
 その道教・神仙関係のなかでは、のちに「論仙」という総題で一括される「仙人呂洞賓」(大正十一年)「扶鸞之術」(同十二年)「活死人王害風」(同十五年)が最も力が充実しており、さらにそのなかでは「活死人王害風」が最もおもしろい。戦後、河出書房の「現代日本小説大系」に「論仙」が入り、講談社の「日本現代文学全集」に「活死人王害風」のみが入っている。全集では第十六巻。
 露伴の創作生涯には三つのピークがある。第一は、明治二十二年「露団々」で文壇に登場してから日露戦争ごろまで。この時期は、おりおり学殖の片鱗を見せるものの、小説家露伴である。第二は大正後半。露伴はすでに文壇を離れた、あるいは超越した大家で、史伝の力作を多く書いた。第三は昭和十二年第一回文化勲章を受けたあとの数年。この時期は、神様が時々あらわれて作品をくだし、世人は恐惶してこれをおしいただく、という感じである。「論仙」三篇はその第二のピーク、露伴五十代の後半、油ののりきった時期に書かれたものである。
 「活死人王害風」は全真教の教祖王重陽の伝記である。王重陽は金代前半つまり十二世紀の人。全真教は道教の一派であるが、そもそも道教というのが一大団塊なのであるから、その一分派を建てたというより、新宗教をおこしたと考えたほうが実情に近い。まずイエス・キリストのような人と思えばまちがいない。
 実際キリストに似ているので、教祖存命中はいっこうにはやらず、ただ晩年に得た数人の弟子が熱心かつ有能であったので、教祖歿後に大教団に発展した。
 無論似てないところもある。一番ちがうのは、教祖自作の詩がたくさん残っていてその人柄がわかることだ。自在に俗語をまじえた闊達な詩である。頭のはたらきの早い、センスのいい人で、場合に応じてすらすらと詩を作ったらしい。この史伝のおもしろさも、その半分は引用されている詩のおもしろさである。露伴も、詩がおもしろいから調べて伝記を書く気をおこしたのだろう。
 今の陝西省、終南山のふもとの人である。農村の資産家の三男、相応の教育も受けている。しかし新宗教をおこすくらいだからもとよりなみの人間ではない。わがままで周囲と調和しない、酒と遊びの好きな、アウトサイダー的、ないし破滅型の人であった。人は彼を「害風」と呼び、やがてみずからもそう称した。害は害群之馬の害、風は風紀、醇風美俗である。つまり日本語の、困りもの、やくざもの、くらいにあたる。周囲よりこれを見ればただの困りものだが、当人は既製の価値観にとけこめず、煩悶したり反抗したりしていたわけだ。
 そういうことは若い時にはありがちで、そのうち周囲の価値観をうけいれて人なみになる。人はそれを大人になったと言うのだが、なかには五十をすぎても大人にならないのもおり、王重陽はそういう人であった。五十二歳の時に作った自伝詩がある。おもしろいので御紹介しよう(露伴は書きくだして引用しているが、場所をとるので原文にもどす。まちがいがあるかもしれないが御容赦を)。
  余當九歳方省事
  祖父享年八十二
  二十三上榮華日
  伯父享年七十五
  三十三上覺婪耽
  慈父享年七十三
  古今百歳七旬少
  觀此遞減怎當甘
  三十六上寐中寐
  便要分他兄活計
  豪氣衝天恣意情
  朝朝日日長沈醉
  壓幼欺人度歳時
  誣兄罵嫂慢天地
  不修家業不修身
  只任他空望富貴
  浮雲之財隨手過
  妻男怨恨天來大
  産業賣得三分錢
  二分喫著一酒課
  他毎衣飲全不知
  余還酒錢説災禍
  四十八上尚爭強
  爭奈渾身做察詳
  忽爾一朝便心破
  變爲風害任風狂
  ……… 
 父が死んだあと兄に財産分けを強要し、もらった田地は売りとばして飲んでしまい、兄夫婦とは喧嘩し、まわりのものにはいばりちらし、妻子は泣かせ、と手のつけようのないならずものである。
 五十の年に妻子と別れ、自分の墓穴を掘って入り、三年開墓中にいた。ただしまだ生きているから、活死人すなわち生きている死人と自称したのである。この時に作った詩がたくさんある。たとえば、
  活死人兮活死人
  不談行果不談因
  墓中自在如吾意
  占得逍遥出六塵
 あるいは、
  活死人兮活死人
  與公今日説洪因
  墓中獨死眞嘉話
  並枕同棺悉作塵
 この人の詩はどれも、ことばがすなおに出てきているのがいい。
 ここでちょっと、露伴の文章を紹介しておこう。文語文、というより書きくだし文である。露伴の頭のなかで発想される文章は漢文であり、書く際に日本語の語順にしてかなが添えられる。一昔前の、幼時より漢字ばかりの本を読んで育った人の文章はしばしばそういうものだった。王重陽の墓入りについて言う。 
  蓋し古より道を體し眞を證せんとする者、大抵皆獨自一個の心、獨自一個の身、獨自一個の性命、獨自一個の精霊を以て、直ちに宇宙に當り、緊〔きび〕しく古今に對せんと欲す。故に或は土穴に潜み、或は石窟に坐し、或は曠野荊蕀、人の終〔つひ〕に到る無き處に飄浪し、或は深山○(山+酋)崒〔しうしつ〕、鬼も亦居らざるの地に玄黙す。釋迦の山に於ける、基督の野に於ける、マホメットの洞窟に於ける、皆純粹の全獨自一個を以て、驀然湛然〔ばくぜんたんぜん〕と時間空間に直面し、我の由〔よ〕って來〔きた〕るところ、我の去って往くところ、我のこゝに立つところを觀、智といふも未だ盡さず情といふも未だ眞ならず意といふも未だ全からざる渾然たる一體を以て、器世間非器世間未分の境に入り、或は人と境と時と三亡一存するの地に出で、眞に人我天地三世の源頭に立ち落處を得んとす。
 何やらむつかしげなことを言っているようだが、これを露伴の頭に浮かんだ文章にもどすならば、「蓋自古要體道證眞者、大抵皆獨自一個心、獨自一個身、獨自一個性命、獨自一個精靈、以欲直に當宇宙、緊對古今。故或潛於土穴、或坐於石窟、或飄浪於曠野荊蕀人終無到之處、或玄黙於深山○崒鬼亦不居之地…」と、いたって明快なのである。昔から真理を得ようとした人たちはみな、完全な孤独に身をおいて、無限の時間、無限の空間にたった一人で直面した、ということだ。このころの露伴の文章を、日本語を知らない中国の学者が漢字の部分だけ読んで完全にわかったというが、それはそのはずなのである。
やがて王重陽は墓を出て東方へ行き、山東半島の海岸地方で馬丹陽ら七人の弟子を得て、ここに新宗教全真教が発足することになる。
(『東方』'94.8)

怪談

幸田露伴『怪談』

 露伴は日本最後の知的巨人、ないしはバケモノである。こういうバケモノが昔はたまに出た。二十世紀に出なくなったのはなぜだかわからない。どんな子供も平均的な子供用の読みものがあたえられ、平均的学校で平均的教育を受けるようになって、優秀な子供が幼いうちに頭脳をフル回転させて性能を目一杯高めておくことがなくなったからかもしれない。中国は日本より退化がややおくれて銭鐘書あたりが最後のバケモノだろう。
 露伴の目は信じがたいほど多くの書物の上を走った。晩年に「若いころは毎日これくらい本を読んだ」と坐った膝の高さを示したそうだ。そしてその頭は整備された図書館か大型コンピュータみたいになっていて、目から入った本がすべてまるごとおさまり、必要に応じて事項なり文章なりがスルスルと出てきたのであるらしい。そのごく小さな例を一つ。
 『評釈猿蓑』灰汁桶の巻の「あつ風呂すきのよひよひの月」の項。風呂とは何か、とたちまち、保元、栄花、宇治拾遺、和名抄、万葉、源氏、枕草子から「室町将軍家の年中恒例記」なるもの、さらに甲陽軍艦、ト養狂歌集、鷹筑波集、京伝骨董集、三浦浄心見聞集等々々の関係個所がつぎつぎに引き出され、読者はただただあっけにとられるのである。
 その調子が漢籍にもおよぶ。昭和七年のくれ大河内信敬の家で鷭料理を御馳走になった時、同席した寺田寅彦が「先生、支那には鐘に血を塗るということがありますか」と露伴にたずねた。例の孟子梁恵王の牛の話である。われわれなら「うん、孟子にあるな。ゆえに君子は庖廚に遠ざかるというわけさ、ハハハ」といたって簡単だが、大型コンピュータは途端に材料がドドッと出てくるからそう簡単には参らない。「卒然として答へるには余り多岐多端なことであるから」と、帰って数日がかりでメモを作って寅彦に渡した。寅彦はもらったもののチンプンカンプンなのですぐ返し、もともとの自分の考えで「鐘に釁〔ちぬ〕る」という短文を書いて「応用物理」誌にのせた(岩波文庫『寺田寅彦随筆集』四にある)。それは、牛の血液中の油脂が皮膜になって鐘のこまかい割れ目をふさぐ、「かういふ皮膜は多くの場合に一分子だけの厚さをもつものであるから、割目の間隙が10-8〔10のマイナス8乗〕㎝程度である場合に此の種の皮膜が出来ればそれによって間隙は充塡され、その皮膜は最早流体としてではなく固体の如き作用をして、音波が割目の面で反射され分散されるのを防止し、鐘の振動を完全にすることが出来るであらう」というのである。
 いっぽうメモは幸田家に残っていて死後全集におさめられた。「釁考」である。これは血を(ないし犠牲を)儀式に用いる記述を古籍に求め一々検討したもので、孟子本文にはじまってその趙岐注、王筠説文釈例、応劭風俗通義、礼記雑記、大戴礼、周礼大司馬、司馬法、周礼小子、同羊人、同雞人、同天府、尚書顧命、爾雅、左伝、公羊、穀梁、漢書、国語、呂氏春秋……と五十数ページにわたってえんえんとつづく。
 寅彦と露伴はまったくのすれちがいである。寅彦は血液の皮膜による音波の変化に関心があって儀式なんぞは知ったことでないし、露伴にとっては儀式に用いる血の実用的効果など問題外である。寅彦が死んだあと書いた「寺田君をしのぶ」で露伴はこのすれちがいをなつかしく思いおこしている。これもまた一種の君子の交わりなのであった。
 この「釁考」が露伴の学識の恰好の説明になるのは、露伴はもともと釁に特段の関心があったわけではなく、偶然の質問に答えたものであるからだ。つまり露伴は、何について問われてもこの「釁考」程度の返事ができる人だったのである。
 もっとも「釁考」に用いているような歴とした典籍なら、スラスラと出てくる人が従前はいくらもいた。露伴のすごいところは、その他黄老釈家詩文典志戯曲小説俗書雑本なんでも知っていたことだ。
 ごく気軽で楽しいものをひとつ御紹介しよう。「怪談」(昭和三年。全集十八)は史上のおばけ話について思いつくままに雑談したもの。そのおしまいのほうにこうある。
  清になつて聊斎志異は何といつても怪談幽霊話妖異譚の頭株である。これも作者の文才学識を示すべく、俗文でなく、しかも自在に揮灑されてゐる。相当に褒めてもよい。然し要するに田舎先生のコツコツと丹念に書いたもので、イヤに気取った評論を插んだり、飣餖成文の痕が見えてゐたりして、雋気の乏しいものであるを免れない。斉天大聖の条に、孫悟空は即ち邱翁の寓言、といってゐるなぞも学問稗販の書の外に出ないことを示してゐるので、邱翁何ぞ猴精を幻出せんやである。
 聊斎はなにしろキチンと整った文章で、文言文のリズムを体得するにはあれを音読するのが一番とかねがねわたしは言っているのだが、露伴のような通人から見れば、なるほど田舎秀才が肩いからせた底の浅い文章なのであるにちがいない。
 ついで閲微草堂筆記について言う。
  志異はちと悪く言ひ過ぎたか知らぬが、これは撰者からしてが段違ひだから、気取り気も余り無く、もとより推敲などしたものでもなく、すらすらと浅川に水の清く流るゝが如くに書かれてゐるが、流石に観奕道人である、腹中万巻の書があって筆下生花の才もある人であるから、無造作に何のこだはりも無く書かれた中に、中〻おもしろいところが多い。たゞし何れも小品であるから、且又青年男女の心を惹付けようといふ意が有るのでも無いから、身にしみ込むやうな人情談的のおばけ話は割合に少いが、虚実不分明、作意の有無定かならぬ中に、諷刺の如く、勧懲の如く、寓意談の如く、又然様でも無い写実式の如く、ふわりと物惜みせずに、敷衍すれば何程かの長い談にもなるものをも大富豪が銀器や蒔絵の器を何でも無く扱ふやうに無頓着に扱つてゐるところは、何と云つても面白い。普通支那小説に臨むやうな態度を以て此書に臨めば必ず失望するだらうが、学問も有り、浮世の事も知つてゐる、枯れたおぢいさんに勝手な談をさせて、それを聴いて居ると思って素直に読めば甚だ面白い。
 そのあと紀暁嵐が、ともにほっぺたに大たんこぶを有する文官と武官とを面晤させるいたずらをやった話を紹介して、 「道人は斯様なことをして、そして双瘤対面の場を想像して書斎の中で引くり反って笑つてゐたのである。かゝる無邪気の大茶目大人紀文達公の妖怪神鬼の譚であるから、怪談だか何だか分らないやうなものも有り、そして読者がうつかりして居ると其大たんこぶの持主のやうに扱はれてゐるのでは無いか、と思はれるやうな節も稀には有るのである。しかも二十四巻といふ分量であるから、先づ以て怪談文学の拇指としてもよい」と評価している。
 紀暁嵐は、ふつうならどれほどの仕事をしたかしれない大学者だが、四庫全書の提要に生涯の精力を傾注してしまった。万巻の書どころではない。この世にありとあらゆる書を全部読んだ古今の大バケモノだ。東海小島のバケモノとしてはうたた親愛の情にたえぬのである。
 それはともかく、上に見るごとく露伴の文学談義は、今の人の矮小な「研究」なんぞとはことちがい、驚異的読書量と確かな批評眼に支えられた軽妙にして豁達自在のものだから、どれを読んでも楽しいのである。
(『東方』'94.9)
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たかしまとしお

Author:たかしまとしお
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