国語という言葉 (5)

  「国語」は場合によっては険悪な、暴力的な語である。したがって「国語学」「国語学者」も場合によっては険悪である。
 『海を渡った日本語』の第八章に国語学者時枝誠記〔ときえだもとき〕のことが出てくる。時枝(一八九〇―一九六七)は昭和二年(一九二七年)から十八年(一九四三)まで京城帝国大学(今のソウルにあった日本の大学)の助教授・教授だった人である(そのあとは東京帝国大学教授)。つまり勤務地は朝鮮だがそこで教えるのは国語である。当時の朝鮮は日本だから日本の帝国大学があり、授業は当然国語でおこなっていたのである。
 時枝は朝鮮に住んでいるのだから、散歩したり買物したりする時、また学校の行き帰り電車の中バスの中などで聞くのは朝鮮語である。大学の学生の中にはもちろん朝鮮人の学生もいる。専攻は国語学でありそれを国語で教えており、周辺には朝鮮語が満ちているのだから、いやでも国語と日本語と朝鮮語の性質なり関係なりについて考えることになる。それを論文や著書にする。
 朝鮮語は人類の話す言語の一つであり、日本語と同列である。しかし国語はちがう。日本語や朝鮮語より一段上の価値ある言語である。――これが時枝が考えた(編み出した)理論であった。
 時枝は著書も多いし、研究者が時枝について書いた本も多い。時枝の所説・理論はいろいろ読むと多少のズレもある。しかしその中心の考えとして、川村著は昭和十七年に発表した「朝鮮に於ける国語政策及び国語教育の将来」と題する論文の左の所を引いている。ところどころわたし(高島)の感想をはさみながら引きます。川村著の引用のまま。引用文のカッコつきふりがなはわたしがつけたおせっかいです。
  〈国語は国家的見地よりする特殊な価値的言語であり、日本語はそれらの価値意識を離れて、朝鮮語その他凡〔(すべ)〕ての言語と、同等に位〔(くらい)〕する言語学的対象に過ぎないものである。〉
 日本語は、朝鮮語・英語・フランス語・タガログ語等々地球上で人類がしゃべっている何千の言語と同等の言語学的対象である。国語はちがう。価値的言語である、と言う(以下「と言う」は省きます)。
  〈従つて国語と日本語とは或〔(あ)〕る場合にはその内包〔(ないほう)〕を異〔(こと)〕にすることがあり得〔(う)〕る。〉
 国語と日本語とはその中身が必ずしも同じではない。以下、方言は日本語ではあるが国語ではない、という話になる。つまり「おまへん」とか「あかん」とかは日本語であるが国語ではない、ということですね。
  〈方言は標準語に劣らず或〔(あるい)〕はそれ以上に研究的価値ある言語学的対象であり、又誰しも己〔(おのれ)〕の方言に母の言語としての懐〔(なつ)〕かしさを感ずるであらう。しかし、国家的見地は之〔(こ)〕れらの方言を出来る限〔(かぎり)〕無くさうと努力する。こゝに標準語教育、国語教育の優位が現われて来るのである。〉
 国語とは標準語である。方言に対して優位である。
  〈国語は実に日本国家の、又日本国民の言語を意味するのである。国家的見地よりする方言に対する国語の価値は、とりもなほさず朝鮮語に対する優位を意味するのである。〉
 この「とりもなほさず」が曲者ですね。つまり朝鮮語は日本の方言の一つだというのですからね。朝鮮は日本の一地域なのだから、朝鮮語は日本の一方言だというわけですね。ただし左に「方言や朝鮮語」と言うから一応方言とは別、という逃げ道も用意してある。
  〈方言や朝鮮語に対して国語の優位を認めなければならないのは、その根本に遡〔(さかのぼ)〕れば近代の国家形態に基くものといはなければならない。こゝから我々は又大東亜共栄圏に於ける日本語の優位といふものを考へる緒〔(いとぐち)〕が開かれるのである。〉
 内地および外地、つまり日本では、国語である。大東亜共栄圏では、日本語である。大東亜共栄圏で話されている言語はあまたあるが、その中で「日本語の優位といふものを考へる」、つまり主要語として行こう、というわけである。

 安田敏朗『植民地のなかの「国語学」』('98三元社)は表紙(ラッピング)に「時枝誠記と京城帝国大学をめぐって」とあるように、一冊すべて時枝について書いたものである。これもよい本である。
 中に時枝の論文や著作を多く引用してある。こういう所がある。引用は、ふりがなとも、安田著引用のまま。
  〈方言は、国語研究上如何〔いか〕程〔ほど〕重要な価値があらうとも、我々の言語生活上それが標準語と同等に価値があるとは考へられないのである。時には方言は極力撲滅〔きょくりょくぼくめつ〕しなければならない場合すらあり得るのである。〉
 この極力撲滅すべき方言には朝鮮語も含まれる。
  〈この問題に対する私の結論を卒〔ママ〕直に述べるならば、半島人は須〔すべから〕く朝鮮語を捨てゝ国語に帰一〔きいつ〕すべきであると思ふ。国語を母語とし、国語常用者としての言語生活を目標として進むべきであると思ふ。〉
 以下、朝鮮語の現状は「甚〔はなはだ〕しき混乱と不統一」であり、国語への統一は「半島人にとつてはもつとも内面的な又精神的な一の福利である」とつづく。つまり朝鮮語をなくしてしまうのが朝鮮人にとっての幸せだ、ということである。
 なお同著者の『「国語」の近代史・帝国日本と国語学者たち』('06中公新書)も多く時枝について書いたものである。
 イ・ヨンスク『「国語」という思想』('96岩波書店)、同『「ことば」という幻影』('09明石書店)は、朝鮮人の立場から国語について書いたものであり、多く時枝にも触れている。
 なお方言をなくしようというのは戦前の日本国家の目標であるから、そう主張した国語学者は時枝誠記だけではない。たとえば保科孝一も、
  〈各地方の方言を打破すること。〉
と言っている(安田著所引)。
 東條操『方言と方言学』(増訂版昭和十九年春陽堂)の著者東條は、こういうテーマ内容の本を書くくらいだからもとより方言の貴重なこと尊重すべきことを説いた国語学者であるが、しかしこの本のなかでこう書いている。
  〈翻つて、国民思想統一の立場から考へると国語統一の必要は勿論いふまでもなく急務であり、国語教育の目的が標準語教育による国語統一にあることは疑ふべからざる事実である。〉
 いやでもこう書かねばならなかった。それが戦前の国語学の置かれた立場だったのである。

国語という言葉 (4)

 川村湊『海を渡った日本語―植民地の「国語」の時間』('94青土社)はたいへんよい本である。しかし今のふつうの日本人にとっては必ずしも愉快でない本かもしれない。題に見える通り、戦前の日本軍がアジア各地へ出て行って占領支配し、日本(日本人)がそこへ日本語を押しつけて回ったことを書いた本だからである。著者は無論それを否定的に見ている。章ごとの題(地域)は左の通りである。
 一南洋群島、二台湾、三シンガポール、四南方、五朝鮮、六満洲、七北海道・樺太
これを戦前の、朝日新聞社刊「国語文化講座」シリーズの第六巻『国語進出篇』(昭和十七年一月)と読みあわせるとおもしろい。昭和十七年(一九四二年)一月は昭和十六年十二月に日本が英米に戦争をしかけた直後であるが、内容は明らかにすべて、対英米戦開始以前に書かれたものである。川村著と同じ事態を描いたものだが、こちらは無論皆肯定的に見て書いたものである。
 二十三人の研究者がそれぞれの題目で書いている。全般的なものもあり、各地域個別のものもある。今はめったに見かけない本だろうから要目をお目にかけよう。個別のもの八本の地域と筆者は左のごとくである。各項の下にどう呼称しているかを附記しておく。
  台湾―加藤春城 国語
  朝鮮―森田梧郎 国語
  関東州―大石初太郎 日本語
  南洋群島―麻原三子雄 国語
  満洲国―丸山林平 国語 日語
  蒙疆―宮島英男 日本語
  中華民国―太田宇之助 日本語
  仏印及び泰国―高宮太郎 日本語
 もしかしたら今のふつうの日本人は各項目の指す所もわからないかもしれないので、簡単に御説明しよう。なお一九三〇年代・四〇年代初現在なお流動的な所もある。たとえば南洋は第一次大戦で国際連盟から日本への委任統治領になったから呼称は委任統治領であったが、一九三三年に日本は国際連盟を脱退したから委任統治領ではなくなり自然日本の領土になり、その後呼称は南洋群島になり言語は国語になった。
 関東州。中国遼東半島南端の旅順・大連・金州を含む地域。日露戦争後日本の支配地になった。領土ではなく租借地だが事実上の領土である。一九三二年満洲国ができると地続きになったが満洲国には含まれない。
 南洋群島。ミクロネシア方面の数百の島。サイパン、グアム、トラックなど。ドイツの領土だったのを第一次大戦で連合国の日本が取り、国際連盟から委任統治領として認められた。一九三三年国際連盟を抜けたので日本になった。
 満洲国。中国東北。一九三一年満洲事変により日本軍が取り、一九三二年(昭和七年)日本が国を建てた。三四年帝国とした(皇帝溥儀)。日本は独立国と言ったが日本以外は独立国とは認めなかった。今は日本の「傀儡〔かいらい〕国家」と言うのがふつうである。日本の領土ではないが事実上日本の領土である。
 蒙疆。現在の中国内蒙古東部および山西省北部。宮島が本文冒頭に、
  〈蒙疆とは支那亊変によつて生れた言葉である。〉
と書いている。言葉は蒙古方面地域という意味の語として支那事変発生ごろにできたのだろうが、日本軍が事実上支配していたのはその前からだろう。
 中華民国は無論蔣介石国民党の中華民国ではなく、汪精衛(汪兆銘)の中華民国(日本支配地域)である。
 仏印はフランス領インドシナ、今のヴェトナム。泰国はタイである。
 日本(の領土内)では「国語」と呼んでいる。南洋群島はもと委任統治領だが日本のうちなので国語である。
 日本が支配しているが日本ではない所では「日本語」である。
 ややこしいのは満洲国である。ここは日本の認めるところではレッキとした一箇の独立国である。満洲国には「国語」が三つある。「日語」と「満語」と「蒙古語」である。実際にこの国の中で話されている言葉はもう一つ俄語(ロシア語)があるが、これは満洲国の国語には入っていない。
 三つのうち「日語」は無論日本語である。日語は三つの国語の中で地位が高く、中心である。
 「満語」というのは中国語(漢語、チャイニーズ)である。これを日本人は(満洲国は)「満語」と呼ぶのである。満洲国の国民(住民)の大多数はこの「満語」をしゃべっている。この人たち(チャイニーズ)を日本人は「満人」と言っているわけである。
 「蒙古語」はモンゴル語。満洲国の中でモンゴル寄りの地域のモンゴル人がしゃべっている。
 なお八つの個別項目のほかに、
  外地の国語教育―大岡保三
という概括項目がある。筆者大岡は文部省の国語課長である。国語課は一九四〇年(昭和十五年)十一月にできた。冒頭に、
  〈外地といふ言葉は、こゝ四五年来しきりに使はれるやうになつたが、何時誰がこれを用ひ出したものかは明らかでない。もとより国語辞典などには見当らない新造語で、従つてその意味もまちまちまちである。〉
として、検討のあとに自分の意味を書いている。
  〈外地とは、台湾・朝鮮・樺太の新領土及び関東州・南洋群島の新統治地を指し、内地と相対して我が国土の一部を形成するところと言ふべきであらう。〉
 「新領土」とは明治以後日本になった所である。台湾と朝鮮と樺太とは日本の領土だから問題なく日本であり、関東州と南洋群島とは領土ではないが統治地だから日本の範囲である。そこまでが日本だから使う・教える言語は国語である、ということであろう。なお役所別では、台湾・朝鮮・樺太・南洋群島は「拓務省統理区域」であり、関東州は「対満事務局所管」だとある。蒙疆は「興亜院管轄の地域」だから外地に含めるのはよくないと言っている。つまり外地ではなく外国に入る。
 簡単に言うと、日本は内地と外地にわけられる。内地は、北海道・本州・四国・九州である。外地は、台湾・朝鮮・樺太・関東州・南洋群島である。
 日本で用いられる言語が国語である。
 もう一つ概括項目として、
  東亜共栄圏に於ける日本語―関口泰
がある。東亜共栄圏は日本および日本が支配する地域だが、ここでは日本以外の日本が支配する地域について述べている。具体的には、満洲国・蒙疆・中華民国・仏印及び泰国、である。これら地域では「日本語」である。
 なお東亜共栄圏は一般には大東亜共栄圏と言っていた。そう厳密に具体的に範囲を意識していたわけではないが、おおむね、マレー、シンガポール、ビルマ、ジャワ、スマトラなどを含む広い範囲であった。

(つづく) 

国語という言葉 (3)

 「国語」という日本語は日清戦争後、十九世紀末から広く用いられるようになったのだが、『日本国語大辞典』第二版が、それまでの「国語」という語(字並び)を丹念に集めてくれている。早いものから二三御紹介しよう。日国引用のまま。
 まず『秉燭譚』(一七二九)。八代吉宗の享保年間だから早い。著者は伊藤東涯。
  〈日本にて文尾に必あなかしこと書き(略)あなとは国語にて発語の音、〉
 次に早いのは『解体新書』(一七七四)。
  〈凡有物必有羅甸与国語、今所直訳、悉用和蘭国語也〉
 羅甸はラテン、和蘭はオランダ。
 次は『篶録』(一八〇九)。
 〈蓋西洋諸国各々有其国語其国則不行〉
 これらを見ると江戸時代の人は、世界には数々の国があって、国ごとにその国の言語が一つある、と考えていたようである。英国には英語、オランダにはオランダ語、といったふうに――。それが各国の「国語」だ。明治二十年に肥塚竜が「日本ニ第二ノ日本語ヲ作ルベシ」「英語又ハ仏語ヲ以テ日本第二ノ国語トナシ」と主張したそうだが、この「国語」は「国の言語」の意である。そして諸国の国語のうちで日本で用いられているのが日本の国語である。なお諸国にまたがって通用するのが西洋ではラテン語、東洋では漢文(どちらも読み書きだけの言葉)、と思っていたわけである。
 だから日清戦争後、一九〇〇年ごろからとはだいぶちがう。一つはもちろん、以前は国語という言葉がそうポピュラーではないことである。一つは一九〇〇年前後からは日本の言語つまり日本語だけを指すことである。日本の領土内ではどこでも国語と言う。そこの人がしゃべっているかどうかは関係ない。

 日露戦争後朝鮮半島が日本の支配下に入り、一九一〇年(明治四十三年)に日本の領土になった。つまり日本になった。わたしどもが子供のころの世界地図は、日本は赤く塗ってあるのでくっきりとわかった。今の日本よりよほど広いが、特に広いのが朝鮮と台湾であった。子供だから歴史経過などは知らない。北海道や九州が日本であるのと同じく朝鮮と台湾も日本であった。
 もちろんこの時、一九一〇年から、朝鮮の人たちの「国語」は日本語になった。実際には朝鮮語をしゃべっている。子供たちは家でも近所でも朝鮮語を聞き話して育つ。学校にあがると先生は朝鮮語は一切使わず、「国語」で授業する。台湾と同じである。
 「日本語」はそんなことはないが、「国語」は険悪な暴力的な部分を持っていたのである。

(つづく)

国語という言葉 (2)

 台湾にはいろんな人がいたが、大きく三つ、あるいは二つにわけられる。
 もともと台湾にいた人。この人たちが古くどこから台湾へ渡ってきたかはわからず、学者によって諸説あるようだが、顔形や言葉などから、南の方から島伝いに来たと考える人が多いようである。原住民、と呼んでおく。
 向いの中国大陸からもぽつぽつとは来ていたようだが、どっと来たのは十七世紀である。満洲族(清〔しん〕国人)が中国大陸を制圧して南へと押して来たので、台湾の対岸方面の人たちが台湾へ逃げて来たのである。多いのが閩南〔びんなん〕人。閩〔びん〕は今の福建省で、閩南はその南部である。閩南人は閩南語(漢語の一類)を話す。次が客家〔ハッカ〕人。広東省北部など中国南部にかたまって住む。古くはもっと北の方にいたのが戦乱などでこの地方へ流れて来たので「客家」と呼ばれる。「客」は「他の所から来た人」の意。客家語(漢語の一類)を話す。
 この閩南人と客家人が大挙して台湾へやって来た(逃げて来た)。閩南人も客家人も漢人であるという点では一つと数えてもよい。
 台湾は西側(大陸側)の狭い地域が平地で、中央から東側にかけては高い山である。原住民はもともと平地に住んでいたのだが、大陸から来た漢人に土地を奪われ追い立てられて山地に入った。それで漢人は原住民を「高山族」と呼んだ。のちに日本人が台湾へ行って、この高山族を高山族〔たかさんぞく〕と読んで、そのタカサンゾクに漢字を当てて高砂〔たかさご〕族と言うようになった。
 だから十九世紀末に台湾が日本になった時に台湾にいた主な人たちは山地人(高砂族)と閩南人と客家人の三つ、閩南人も客家人も漢人だからまとめて一つとすれば山地人と漢人の二つである。
 なお山地人は多くの部族にわかれていてそれぞれ話す言葉が違う。共通語はない。
 「台湾語」というのは閩南語を指して言うばあいが多い。閩南系の人が多いからである。
 日清戦争後日本が台湾を領有すると、台湾各地に学校を作り子供たちを学ばせることにした。学校では「国語」を教え、各科目とも国語で教えた。この「国語」とは日本語である。台湾語は一切用いないし使わせない。
 「国語」と「日本語」とは指すものは同じである。日本人が日本でしゃべるものは「国語」と呼ぶ。外国人が学んだりしゃべったりするものは「日本語」と呼ぶ。ここでは一応簡単にそう区別しておく。たとえばアメリカ人が日本へ来て日本人に日本の言葉を習って話すようになればそれは「日本語」である。アメリカ人は日本人ではないのだから――。つまり「日本語」と言えば外国語の一つであり、地球上にあまたある言語の一つである。
 十九世紀末以後台湾は日本であり台湾人は国籍日本人なのだから、日本語は外国語の一つである「日本語」ではなく、自分の国の言葉である「国語」である。――リクツとしてはそれで通っているようでもある。しかし台湾の子供たちにとって日本語は一言もわからない外語(外国〔ヽ〕語ではないにせよ)なのだから、台湾の子供たちにとっての「国語」は変な感じでもある。
 しかしともかくこの時、「国語」という語、国家としての語が必要になったのである。それを日本本土でも用いるようになったわけだ。
 余談。わたしは一九五五年(昭和三十年)に大学に入って、二十年ほど東京の大学にいた。台湾からの留学生が大勢いて、仲良くなった。皆日本語を話した。子供のころの話をよく聞いた。彼らが学校にあがったころの台湾は日本で、学校では日本語で授業をしていたのだから日本語ができるのは当然である。
 満六歳で学校に入ると授業はすべて日本語だった、という点はわれわれ日本の子と同じだが、情況は全くちがう。先生が話す言葉は一言もわからない。そりゃそうだ。それまで家庭でも、近所の子と遊ぶ時も、台湾の言葉、台湾語だったのだから。
 皆キョトンとしている。先生はおかまいなくしゃべる。ところが――ここからがおもしろくて彼らは皆その話をしたのだが――何日か何週間かあるいはもしかしたら何か月かたつと、先生の話すことがすっかり全部わかるようになっている。子供だから、自分がどういう段取りで先生の話がすっかり全部わかるようになったか、なんてことはわからないし考えもしない。
 しかし多分、地球上の多くの所、たいがいの所で、子供がそれまで家や近所でしゃべっていた言葉と、学校に入って先生が話す言葉とは違っていて、それがふしぎなことにわりあい短期間でわかるようになるんじゃないかなあ。幼時まわりがしゃべる言葉がわかるようになり自分もしゃべるようになるのもそうなんだから、――というような話になるのであった。
 なお台湾留学生たちの話はまだ先がある。一九四五年日本が敗けて日本人は皆日本に帰り、日本語は使われなくなった。入れ代りに中国大陸から中国人が来て、そのうちの学校の先生が学校へ来て教え始めた。中国語である。もちろん子供たちには一言もわからない。しかしふしぎなことにしばらくたつとこのたびもまた、すっかり全部わかるようになった、とのことである。
 当時の中国は中華民国である。一九四五年八月を境にして、それまで台湾は日本であり、それ以後台湾は中華民国になった。だから中華民国政府が台湾に学校の先生を送りこんできたのである。
 中国語(漢語)の話される地域は広いから、同じ漢語と言っても地域が違えば言葉は違う。通じない。台湾の人たちがしゃべっているのは主として閩南語が台湾に入ってきて数百年の間に変化した台湾語である。一九四五年以後大陸から派遣されてきた学校の先生が話すのは北方語である。北方語は俗に北京〔ペキン〕語とも言うが、北京方言とはちがう。河南省北部から河北省南部それに山東省西部あたりで話されている、漢語の中で最も有力な言葉である(山東省ではちょっとトーンがちがうが)。
 中華民国は知識人が政府の方針・指示で北方語を整頓し上品なものにして標準語とした。これを「国語〔グオイ〕」と名づけた(同じものを中華人民共和国は「普通話〔プートンホワ〕」と言う)。一九四五年に大陸から来た学校の先生が台湾の学校で話し教えたのはこの国語〔グオイ〕である。日本語も「国語〔こくご〕」として教えられたのだから字が同じだが、国語〔こくご〕は日本語のこと、国語〔グオイ〕は中華民国の標準語のことで、全く別物である。
 であるから、一九五五年(昭和三十年)以後にわたしが親しくした台湾留学生たちは、台湾語、日本語、国語〔グオイ〕の三つの言葉が話せたのである。これはもちろん、時期によっていろんな権力が台湾を支配したということだから、台湾の人たちにとって幸せなことではない。

(つづく)

国語という言葉 (1)

 国語、というのは今のふつうの日本人にとっては何でもない言葉である。
 子供のころの学校の教科の名である。国語・算数(数学)・理科……などの国語だ。それと入学試験の科目の名である。内容はだいたい、語や文の解釈である。「やんごとなき」とはどういう意味か、とか、この文は何を言っているのか、とか。
 学校を卒業して入学試験がすむと、国語という言葉とは縁が切れる。新聞は毎日読んでも、「これは国語の新聞だ」なんて言う人はいない。英字新聞と対比して言う時でも、「日本の新聞」と言うだろう。もっとも国語辞典は持っていて時に引く人は多かろうが、しかしその時に「自分は国語を調べるのだ」と意識して引く人はまずなかろう。
 そういう何でもない、縁のない言葉であるが、戦前は、ややこしい、険悪な言葉であった。
 国語という言葉は、今のふつうの日本人にとっては子供のころの学校の教科の名であるが、言葉自体は「国の語」つまり「日本国の言語」ということである。だから「日本語」と一応は同じことであるが、それが戦前はややこしかったのだ。
 「国語」という言葉(字並び)は中国に二千年以上前からあった。意味は全くちがう。『国語』は書物の題名である。中国の春秋〔しゅんじゅう〕・戦国の時代、二千何百年も前の大昔、中国は斉〔せい〕だとか魯〔ろ〕だとか呉〔ご〕だとかのたくさんの国にわかれていた。そのそれぞれの国の歴史(物語)を集めた本が『国語』である。つまり「諸国の歴史」「諸国の物語」の意である(大昔の中国では歴史と物語とは分離してなかった。同じことであった)。
 そういうわけで「国語」という言葉(字並び)は二千何百年前から中国にあったのだけれども、日本語の「国語」という言葉はぐっと新しく、つい百年あまり前、だいたい一九〇〇年前後のころにできたものである。日清〔にっしん〕戦争後である。安田敏朗『「国語」の近代史』(中公新書)に「一九〇〇年前後に官主導によって「国語」をつくりあげることが具体的に始まった」という通りである(なお一九〇〇年というのは切れがよくおぼえやすいから言うので、ぴったり一九〇〇年からという意味でないのはもちろんである)。
 日清戦争の前までは、日本には日本人が住んで日本語をしゃべっていた。しあわせな三位一体である。こんな国は多分ほかにはない。そりゃそうだ。地球上には何千もの言語があり、国の数は百かそこらである。平均的に言っても一つの国の中で地域によって十も二十もの異る言語が話されている。逆に一つの言語が地球上の複数の地域で用いられているケースもある。
 学校の教科の名、あるいは「日本の言語」という意味の「国語」という日本語ができて広く用いられるようになるのは、日清戦争後、清〔しん〕国留学生が大勢日本(主に東京)に来るようになってからである。一八九〇年代末である。同じころに学校の教科目「国語」も使われるようになった。それまでは「読本」(とくほん)「読方」(よみかた)などであった。わたしは一九四三年(昭和十八年)に学校にあがったのだが、一年生の国語の教科書は『ヨミカタ』で、科目名も「ヨミカタ」でしたね。
 なお、清〔しん〕(中国)留学生が日本へ来る目的は、日本で日本語を通じて西洋近代の科学技術ないし西洋文化を、なるべく安上りに手っ取り早く学ぶことである。日本は近いから渡航費も安いし生活費も安い。同じ漢字だから言葉もわかりやすいだろうと思った。何百人あるいは何千人の中国人留学生の中で、日本の言語や文化そのものに興味を持ったのはたった一人周作人だけだった、とはよく言われることである。あとの人たちにとって日本と日本語はただの通路だったのである。だから日本に留学しても日本びいきになった人はいない。
 日清戦争後、一八九五年に台湾が日本の領土になった。つまり台湾は日本の一部になった。台湾人は日本人になった。と言ってももちろん、以前からの日本本土(内地)の日本人と同じ日本人になったというわけではない。第一日本語を知らない。人種もちがう。だから従来からの日本人と同じ日本人になったわけではないが、一応「日本人」の範囲に入ったわけである。
(つづく)

連行という言葉

 好きでない言葉は数々ある。種類も理由もさまざまである。
 「連行」という言葉を近年よく見る。「朝鮮人強制連行」の形でよく出てくる。この「連行」という言葉がどうも好きでない。――いやもちろん、朝鮮人強制連行という歴史問題についてどうこうと言うわけではない。「連行」という言葉についてです。
 意味は誰でもわかる。つれてくる、ということである。このばあい「行」の字を主にこちら向け(日本向け)の意に用いている。あちら向けのばあいも同じだろう。
 「連行」は「つれてくる」「つれてゆく」だが、イコールではない。
 「子供が友だちを家へつれてきた」はごくふつうだが、「子供が友だちを家へ連行した」とは言わない。「先生が子供たちを海水浴につれて行った」はふつうだが、「海水浴に連行した」とは言わない。連行はつれてくる・つれてゆくであるが、当人の意にかかわらず(反して)強制的に、のニュアンスがある。
 つれてくる、つれてゆく、の「つれて」は「つれる」に「て」がついた言葉である。
 鈴木孝夫先生の『日本語と外国語』('90岩波新書)にこういうことが書いてある。――日本語(本来の日本語つまり和語)と英語をくらべると、日本語は一つ一つの語の抽象性が高く意味が広くしたがって語の数が少い。英語は語の個別具体性が強くしたがって語の数が多い、と。このことは日本語と漢語(漢字)についても言えるだろう。
 日本語の「つれる」も意味領域が広いが、大きく①上位者・主動者が帯同する、ひきいる、と、②同位者・類同者がそろって同じことをする、の二つにわけられるだろう。
 ①は単に「つれる」と言うことはまずなく、「つれてゆく(くる)」の形を取る。「先生が子供たちを海水浴につれてゆく」もしくは「先生が子供たちをつれて海水浴にゆく」である。「先生が子供たちを海水浴につれる」とは言わない。「友だちを家へつれる」と言えなくはなく、言う人があるかもしれないが、ふつうは「友だちを家へつれてくる」である。この①の「つれる」にあたる漢語(漢字)は「帯」「率」「領」あたりである。「連」ではない。「朝鮮人をつれてくる」を「連行」と言うのにわたしがいやな感じがするのはその故である。
 「つれる」の②「同位者・類同者がそろって同じことをする」は通常「つれだって○○する」の形を取る。「子供たちがつれだって山へ栗拾いにゆく」などである。単に「つれる」と言うことはまずない。「子供たちがつれて山へ栗拾いにゆく」とは言わない。
 幼稚園の時、毎日のおしまいの歌は「今日の遊びはすみました、みなつれだって帰りましょ、…」であった。「つれだって」は幼稚園児にもわかり、言う語である。「つれだって」は「つれる」と「たつ」に「て」がついた語である。この「つれる」が「そろって(何かする)」の意であることは誰にもわかる。「たつ」はどういう意味なのだろうか。国語辞典の「たつ」の項には種々さまざまの意味が書いてあるが、その中では「勢いよくある行動をおこす」あたりだろうか。「勇み立って」などの「たつ」と同類か。
 ②の「つれる」は「つれになる」「道づれ」などの「つれる」である。同様のものが相並ぶ意である。「連」は、つながる、つらなる意の語(字)であるから、この②の「つれる」に「連」の字を書くのは適当だろう。しかし①の「つれる」(上位者・主動者が下位者・被動者を帯同する、ひきいる)に「連」を書くのは不適当である。「朝鮮人を日本へつれてくる」の「つれる」は①であるから、「連行」は見て不快なのである。
 つれてくる(ゆく)の「連行」はいつからある語なのだろう。日本国語大辞典「れんこう連行」項では②である。こうある。
  〈②本人の意志にかかわりなくつれて行くこと。特に、警察官が犯人または容疑者などを警察署につれて行くことをいう。*警察官職務執行法(1948)二条・三「派出所若しくは駐在所に連行され」〉
 なんと戦後の昭和二十三年にできた語なのですね。それも警察用語である。この法の文を作った役人は、つれて行くのつれるの漢字は「連」だからつれて行くは「連行」だ、とこんな法文を作ったのだろう。いやな感じがする語であるのも当然だ。
 戦前戦中の日本人が朝鮮の人を強制的に日本につれてきたのを一九九〇年ごろかそこらに「朝鮮人強制連行」と表現した人は、警察官が犯人・容疑者を警察署へつれて行くのと同じ形、同じ性質の行為と見て「朝鮮人強制連行」と言ったのではなかろうか。多分そうでしょうね。

おかわいそうに

 机のわきの本棚に、ルイス・ブッシュ、明石洋二譯『おかわいそうに 東京捕虜收容所の英兵記録』(昭和三十一年文藝春秋新社)という本があった。こんな本が棚にあることも知らなかった。なんで五十年以上も前の本がすぐそばの本棚に残っていたのかもわからない。しかしともかく多分、昭和三十年代前半ごろ(一九五〇年代後半ごろ)に買って、そのころに読んだのだろう。もちろん内容は全くおぼえてないので、読み返してみた。
 著者ルイス・ブッシュは副題にあるように英国人で、戦争中日本軍の捕虜收容所にいた人である。
 原題は表紙および中表紙にCLUTCH OF CIRCUMSTANCEとある。この意味はわたしにはわからないが、わが人生環境の転変、とか、なりゆきのままに、とかいうことかなあ、と思う。いや根拠は何もないよ。アテズッポである。しかし「おかわいそうに」という意味ではなさそうである。
 この本の中には「おかわいそうに」という言葉は出てこない。多分版元文春新社の人が、人目を引いてよく売れるようにと考えてつけた題だろう。当時の人には「おかわいそうに」と言えば意味がわかったからである。
 当時つまり昭和二十年代のころの「おかわいそうに」という言葉の意味、それにまつわる話は、今の日本人はたいていごぞんじないだろうと思う。しかしそのころの日本人なら誰でも知っていた。わたしは中学高校生だが、中学高校生ももちろん知っていた。捕虜にかかわる言葉である。
 ことがあったのは戦争中だが、人々が誰も知るようになったのは戦後である。
 昭和十六年(一九四一年)十二月に日本は英米に対して戦争をしかけた。当初たくさんの英米兵を捕えた。つかまえたものの処置に困ってしまった。そこで人種によってわけて、現地人(アジア人)は釈放して労務者として使い、西洋人(白人)は急いで收容所を建てて收容した。
 戦争が進むと日本は、男は片っ端から兵隊にしたので労働者が不足した。そこで捕虜を日本へつれて来て働かせることにした。捕虜を日本に運ぶのは輸送船である。
 そのころには制海権も制空権も敵方に奪われている。極力目立たぬように運んだ。それでもしばしば潜水艦や飛行機に見つかって攻撃され撃沈された。輸送船団には護衛の駆逐艦をつけるのだが、潜水艦や航空機による攻撃を阻止するのはむずかしい。潜水艦や飛行機は、その輸送船には味方の捕虜が乘せてあるとわかれば攻撃を躊躇したかもしれないが、たいがいそこまではわからなかったのだろう。
 途中で船が沈められて死んだ捕虜は約一万一千人、日本に到着したのは約三万五千人である。――この数字は笹本妙子『連合軍捕虜の墓碑銘』(二〇〇四年草の根出版会)による。この笹本著はたいへんすぐれた本です。
 日本についた捕虜は各地に送られて単純肉体労働に従事させられた。わたしも見たことがある。
 わたしが育ったのは兵庫県西南部の造船の町である。父親は造船所で働く建築工であった。ある日どういうことからであったかはおぼえてないが、父が造船所の中を見せてやろうとつれて行ってくれた。その時捕虜を見たのである。
 無論父は捕虜を見せてやろうとつれて行ってくれたのではない。捕虜がいたのは多分偶然である。三四人(さんよにん)だったと思う。
 わたしはそれまで西洋人を見たことはなかった。突然見たので、それはそれはびっくりした。赤くて大きかった。髪が黄色くて、見たこともない顔をしていた。白人であるが、毎日日射しの下で上半身裸で肉体労働をしているから日燒けで赤くなっていたのかもしれない。それとも、白人とは言うけれど、知らない日本人が初めて見るとその肌は赤く見えるのかもしれない。とにかくその時の印象は七十年後の今もなお強烈である。
 さて「おかわいそうに」の件である。
 横浜かどこかで、日本兵につれられて行く捕虜を見た老婦人が「おかわいそうに」と言ってお菓子かせんべいか何かをあげた、というのである。その時は多分その老婦人は「何をするか!」と日本兵にどなりつけられたろうが、その話が伝えられたのはその時ではない。
 敗戦後、戦争中にそういうやさしいおばあさんがいたという話が、ひろく伝えられたのである。戦後の日本人にとっては心なごむ戦争中の話であった。
 だから出版社の人は戦後、戦争中の連合軍捕虜についての訳書を出す時に、その題を『おかわいそうに』としたのであろう。この題を見たら当時の日本人なら誰でも連合軍捕虜についての本だとわかる。それも捕虜にあたたかい気持をかけた心やさしい日本人についての本だとすぐわかるからである。
 こういう、一時期の人なら誰にもわかったが、その後忘れられた言葉を引く辞書がないものですかねえ。
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