播州言葉 (2)

 わたしは昭和三十年に大学の入学試験を受けるために初めて東京へ行った。そのころは入学試験を受けに東京へ行く者は中学高校の上級生の下宿に泊めてもらうのがならわしだったのでわたしもそうした。雑司ヶ谷だった。試験期間中下宿のおばさんとよく話をした。四十代くらいのおばさんだった。これが東京の人と話をした最初である。
 この話がおかしかった。おばさんの言うことは、わたしは全部わかる。それはあたりまえである。当時は映画が最もポピュラーな大衆娯楽だったから日本中どこの者でも東京の言葉は十二分に聞いている。ただしそれが、自分たちの平生しゃべる言葉には影響しなかった。
 わたしのしゃべる言葉がおばさんにはしばしばわからない。けげんな顔をし、首をかしげる。それはこちらにもつたわる。とうとう双方同時に声をあげて笑ってしまった。
 今考えるとあの時おばさんに、わたしのしゃべることがなんであんなに通じなかったんだろう、と思う。ふしぎである。播州弁丸出しだったのだろうか。
 一般的に言って、東京の言葉(あるいは首都圏の言葉)と関西の言葉とは無論ちがうけれども、相手からの言っていることがわからないというほどではない。
 大学に入ると、三鷹にあった寮に入った。寮は首都圏の者は入〔はい〕れない。事実上大部分が西日本の者である。と言ってもみんな昼間は学校へ行くのだから、首都圏の者ともつきあっている。
 わたしは寮で、山梨県甲府から来た小林という男と同室になった。小林はしょっちゅう、わたしのしゃべる言葉に腹を立てた。
 「お前はどうしてそんなに助詞を全部とばして物を言うんだ!」
というのである。
 初めは、小林が何をそんなに怒っているのかわからなかった。聞いてわかった。日本語には「は」「へ」「を」等々の助詞がある。わたしはしゃべる時にそれを全部とばすから、聞いていてイライラする、というのである。
 言われてみるとたしかにわたしは、たとえば「わいきのう学校行かなんだ」といったふうにしゃべっているようである。小林に言わせると、「おれは、きのうは学校へ行かなかった」とちゃんと助詞を入れて言わないと日本語のサマにならない、聞くにたえない、というのである。
 いったい、助詞をとばしてしゃべるというのは関西語一般の傾向なのだろうか、それとも播州言葉の特徴なのだろうか。この『関西方言の社会言語学』には全く触れるところがない。小林がイラついたくらいだから、関西一般がそうなのなら東日本の人には耳につくはずである。播州特有なのかもしれない。

 この本にこうある。
  〈関西人が、これは全国共通語だろう、と意識している語がある。チリメンジャコ(しらす)、コケル(ころぶ)、サンパツヤ(床屋、理髪店)、ナスビ(茄子)など。〉
 なるほどね。わたし個人の感覚で言えば、コケルは関西語だが、あとは全国共通語の感じで使ってきた、と思う。
 言われてみるとナスビのビは何なんだろう。辞書を見るとナスビが本来で、ナスは女房詞の省略形なんですね。日本国語大辞典二版に「語末のビはアケビ、キビなどの植物に通じるものか」とあった。これはナスビが全国共通語の感覚でいいわけだ。
 なおこの本に関西一般に広く使われているものとして「ナオス(かたづける)」をあげてあった。
 これはわたしが昭和三十年代初めに東京へ行って、よく聞いた一つ話がある。
 ある会社で、関西から東京へ課長さんが転勤して来た。課員が提出した書類を点検して、「はい、なおしといて」と返した。課長が言ったのはもちろん、元の所にもどしておいて、の意味である。ところが課員たちは東京の子だから、訂正しておいて、の意味に受け取った。
 今度の課長さんは恐い人だ。どこがまちがっているとも言わないで、なおしておけと言う。課員たちは書類を初めから丹念に見なおし、数字が主だから原材料と見比べたり験算したりした。見つからない。とうとう徹夜になってしまった。翌日出勤して来た課長さんにおそるおそる、どうしてもまちがいが見つかりません、と申し出た。課長さんはキョトンとした、――という話である。あっちこっちの会社でほぼ同様の伝承が語られていたのだろう。元になる事実もあちこちであったに相違ない。
 上記辞書「なおす」の項に、
  〈近世、関西地方で、「しまう」ことをいう。〉
とあり、十九世紀前半(江戸時代末頃)にできた『大阪江戸風流ことば合せ』という本に、
  〈大阪にて、直しておく、江戸にて、しまっておく〉
とあるのを引いている。
 この件がよく語られるということは、逆に言えば、東と西とで誤解が生じる言葉はそれくらいのものだった、ということも言えるのかもしれない。

 いま播州言葉はどれくらい変容しているだろう。播州にいながらつきあいがせまいのでよく知らない。ここ五十年あまりテレビの普及子供の言葉への影響が甚大であったとは聞くところである。
 最も消滅したのは多分人称だろう。われわれが子供のころ若いころ、男の子の一人称は「わい」だった。中年老年は「わい」「わし」半々ぐらいだった気がする。「わし」のほうが重々しさがあった。もっとも同じ播州でも地域によっては子供でも「わし」と言っている所もあったかもしれない。わたしが知っているのは播州の一地域である。
 相手を言う語は「お前」だった。相手が上級生でも「お前」だった。ほかにないんだからしょうがない。東京へ行ってから、上級生に「お前」なんて言ったら殴られるぞ、と言われたことがある。本当に殴られるわけではない。不適当だということである。それじゃどうするのか。姓に「さん」をつけて言うように教えられた気がする。
 今の子はもう「わい」「わし」とは言わないようである。「ぼく」「おれ」であろう。相手を言う語は「きみ」になっているんじゃないかと思うが、もしかしたら「お前」も残っているかもしれない。
 人称以外、言わば無意識にしゃべる言葉は、個々の語彙にテレビの影響はあるにしても、案外変ってないのかなあと、時に耳に入る子供たちの発言を聞いて思うことがある。

播州言葉 (1)

 徳川宗賢・真田信治編『関西方言の社会言語学』('95世界思想社)はおもしろかった。中でも鎌田良二「近畿・中国両方言の表現形式の地理的分布」はわたし自身にかかわることだから興味深かった。残念ながら筆者の鎌田氏はどこの育ちなのか書いてない。
 わたしは播州〔ばんしゅう〕で育ち、今も播州に住んでいる。播州は兵庫県の西南部である。海(瀬戸内海)に面し、すぐ隣は岡山県である。
 兵庫県は広い。本州で、両端の青森県と山口県を別とすれば、太平洋側と日本海側と、双方に面した県はほかにない。わたしたち播州の者にとっては同じ兵庫県と言っても日本海側とは全く縁がない。太平洋側(瀬戸内海側)でも神戸方面とは外国みたいなものである。
 すぐ西隣が岡山県だが、言葉がまるで違う。わたしは三十代四十代のころに岡山県で勤めたから岡山県の言葉はたっぷり聞いた。播州と岡山県(備前)との境が、西日本における言語の境である。岡山県の言葉・発音は東京に近い。
 ところがこの本を見ると、同じ兵庫県でも南と北(但馬)とでは違う。この本は双方の海岸線沿いの言葉を線状に調査したものだが、南の瀬戸内海沿いは関西語だが、北の日本海沿いは中国方言であってそのまま鳥取県につながる。関西語は北東と南西へ延びていて、北東は能登半島へ、南西は香川県徳島県まで延びているが、兵庫県北西部の但馬は鳥取と同じ乙種型(東京型)なのだそうである。つまり「兵庫県の言葉」という一つのものはないのである。
 わたしは播州で育って播州の言葉をしゃべっていたので、自分の言葉を外から、いわば客観的に、意識したことはなかった。
 思い出してみると、それに近いことが一度だけあった。昭和十九年、国民学校二年生の時に、神戸大阪方面から疎開の子が数人入ってきた。わたしはどちらかと言うと人見知りする子だったと思うが、この時の疎開の子とはすぐ仲良くなった。幼稚園以来の同級生よりむしろ疎開の子とのほうが仲良くなったくらいである。その時の友だちとは七十年後の今日まで親しくしている。
 疎開の子はわたしどもと種々違う所があった。たとえば疎開の子は靴をはいていた(わたしどもは藁草履、雨の日は下駄である)。中でも大阪から来た赤尾は革の靴だった。今でも赤尾と顔を合わせるたびに「何しろお前は革の靴やったもんなあ」と言う。赤尾はそのたびに「それは初めだけや。子供の足はじきに大きいなるでなあ」と言う。七十年来それをくりかえしている。
 赤尾は「来ない」ことを「けーへん」と言った。それがわたしがおぼえている限り初めて聞いた「外の言葉」である。それじゃ自分たちは何と言うのか、その時には考えなかった気がする。今考えてみると「こーへん」か「きーひん」で、「こーへん」が多いようである。
 この本に、
  〈「来ない」のコーヘンは播磨地域で古くから使われていたものだが、神戸でもかなり見られる〉
とある。岡山県に入ると「こん」であり鳥取県も「こん」である。
 「ひん」については「書かない」の項に、
  〈カカヒンの否定ヒンは、本来、語幹末尾イ音である上一段活用などにつくもので、ヘンが順行同化によりヒンとなったものである(起キヘン→起キヒンなど)。〉
とある。それがイ音以外にもひろがったわけである。ただし「きーひん」は瀬戸内海沿い地域では「着ない」であって、「来ない」を「きーひん」と言うのはあげられていない。わたしの育ったあたりだけなのかもしれない。
 言いどめの「じゃ・や」についてかなり詳しく書いてある。わたしが子供のころ、若いころは皆「じゃ」であった。「雨じゃ」「どこ行くんじゃ」「帰るんじゃ」など。考えてみると今わたしは皆「や」と言っている。この本に、
  〈そもそも、ヤは江戸末期に大阪の女のことばとして生まれたものである。(…)それが、現在では近畿のほとんどがヤ専用になってしまっている。〉
 とある。「や」が「じゃ」を駆逐してゆく趨勢なのであり、わたし個人もその中にいて無意識にそうなったのであるようだ。
 一歩岡山県に入ると「じゃ」である。岡山県は近畿語に染まらないのである。なお日本海沿いは但馬から鳥取にかけてすべて東京語の「だ」である。ここでも兵庫県は一つではない。
 ここで福浦のことを書いてあるのがおもしろい。福浦は播州海沿いの最西端、あるいは岡山県海沿いの最東端である。昭和三十六年に、それまで岡山県だったのが兵庫県に編入されたのだそうだ。昭和三十六年(一九六一年)にはわたしは東京へ行っていたので福浦が兵庫県に入ったことを知らない。なぜ県境が変ったのかも知らない。そもそも福浦という地名も知らない。多分一部落程度の小さな地域なんじゃないかと思う。現在は赤穂市に入っているとのこと。福浦の言いどめ語についてこうある。
  〈ここで注目されるのは福浦の成人である。成人男性はヤ、女性はジャになっている。これは、先に記したように、この地はもと岡山県であったので、福浦から離れて他の土地へ出かけることの少ない女性は岡山式のジャを使っているのに対し、男性は赤穂市に編入され赤穂の旧市内から姫路市のほうへ出かけるので姫路式のヤになったものと思われる。〉
 兵庫県では女から先にヤになり、あとから男がヤになった。福浦は兵庫県とは言え元来岡山県だから、その地にいる女は岡山式のジャで、昭和三十六年に兵庫県に編入されると男は仕事などで兵庫県へ行くからヤになったのである。
(つづく)

本はおもしろければよい (5)

 戦後わたしたちの町に本屋が二軒できた。一軒は妹尾〔せのお〕さんという本を売る店、一軒は山下さんという、住宅街の中の物置を改造したような貸本屋だった。
 どっちも小さい店だったが、特に妹尾さんは小さくて、本棚が壁の一面の四段ほどだった。そりゃそうだ。戦争に負けて本が出るようになったと言っても、急にそうこんな地方にまで回ってくるほど大量に出たわけではなかろう。その点山下さんは、古いよごれた本でもいたんだ本でも本でさえあればいいのだから、集めやすかったろう。
 わたしはせっせと山下さんに通〔かよ〕った。そのうちに、子供の読めそうな本、おもしろそうな本はみな読んでしまった。
 佐藤卓己『「図書」のメディア史』(岩波書店)に、わたしと同世代の池田満寿夫さんの文を引いてあった。
  〈戦後も、しばらく同様の書物欠乏の時代が続いていた。終戦時に一一歳だった作家・池田満寿夫が「少年時代の読書」(一九七五年一月号)で述べるように、戦後に少年たちが読んだ本は戦後民主主義の読み物ではない。山中峯太郎や高垣眸、佐藤紅綠の作品が載った『少年倶楽部』のバックナンバーや「戦前の古書」だった。「私たちは民主主義教育の最初の洗礼者だったが、読書の方は戦前戦中のものばかりだった。終戦後の数年間は中学生用の新刊書を見たこともなかったし、級友たちが持っていたものは、戦前戦中に刊行された古本ばかりだった。」〉
 まことにこの通りだった。いわゆる「血湧き肉躍る」少年小説である。わたしは特に高垣眸が好きだった。『豹〔ジャガー〕の眼』『快傑黒頭巾』『まぼろし城』など忘れられない。
 山下さんがすむとあとは妹尾さんしかない。しかしここは新しい本を売る店である。まさか次々に買うわけにはゆかない。
 わたしは母に、妹尾さんの本を山下さんの本みたいに読みたい、と言った。母も困ったろうが、妹尾さんへ相談に行ってくれた。交渉の結果こうきまった。――妹尾さんの店の本を一冊につき一晩だけ、定価の一割の値段で借りる。わたしはそれを、手をよく洗って、本が売り物として変形しないよう、ほんの少しだけ開いて読む、そのことは誰にも言わない、――という協定である。
 さてそういうことで戦後の新刊書を次々読んだのだが、どんな本を読んだかたいてい忘れてしまった。坪田讓治の本がちっともおもしろくなかったのをおぼえているくらいのことである。

 しかしまあそういうわけで、本のことや著者のことや出版社のことを子供にしてはよく知っていたのはたしかである。
 だから昭和二十四年(一九四九)に岩波書店が宣伝誌『図書』を出すことになった時も、そのことを何で知ったのかは記憶にないが、すぐ申しこんだ。『図書』は戦前にも出ていたが(昭和十七年まで)それはわたしは知らないから、わたしにとっては創刊だったわけである。すぐつづいて『文庫』も出し始めたのでこれも申しこんだ。宣伝誌だから事実上タダだったのである(両誌はその後『図書』に一本化した)。他の出版社の宣伝誌も出ると知ると片端から申しこんだが、皆岩波よりはだいぶあとだったと思う。
 この『図書』で自然と岩波精神、言わば「イワナミズム」を刷りこまれたと思う。上に「一杯喰わされた」と書いた件である。
 それまでは、幼いころから、本はおもしろい、おもしろいから大好き、であった。おもしろくない本も多々あるが、それは読まないまでのことである。それでどうということはない。
 ところが岩波は、「古典」「名著」を読め、そして「教養」を身につけよ、と教える。こちらは、病気になったことのない、バイ菌に接したことのない無抵抗の体のような子供(少年)だから、これに手もなくひっかかってしまったのである。本を読むことは、おごそかな、人の人間としての向上・成長に必須のことになった。
 どんな本が「古典」「名著」であるかは岩波がきめる。いろいろあるがたとえばヴォルテールだとかドストエフスキーだとかいうのが「必読書」である。読みかけてみるとなんにもおもしろくない。
 これまでだったら読みかけておもしろくなかったらほうり出して、それでおしまいである。ところが今度はそうはゆかない。ヴォルテールやドストエフスキーの価値がわからないのはぼくが悪いのだ、という気になる。そういうふうに導くのがイワナミズムなのである。本を読むのはたいそうなことになってしまった。
 なぜそう導くのか。岩波文庫を売るためである。しかしそれがわかったのはずっとのちのことである。
 いつ、どんなふうにしてこのイワナミズムの呪縛から抜け出したのかよくおぼえてない。意識的に抜け出したのではない。
 わたしは職業の関係で、昭和三十年代の後半ごろから、つまり一九六〇年代ごろから、日本の本、日本語の本をほとんど読まない時期がかなりつづいた。たまに日本の本を読む時はおもしろい本を読む。たとえば向田邦子を読む。そんなふうにしてだんだん、自然に抜け出したのかと思う。

 最近、千葉県習志野の大岩和子さんが、勢古浩爾『定年後に読みたい文庫100冊』('15草思社文庫)という本のことを教えてくれた。それは100冊のなかにわたしの本を入れてくれてますよと教えてくれたのだが、そのことを別としてもこの本はおもしろかった。
 「まえがき」に、
  〈だから選考の基準はたった一つ。読んで「おもしろいかどうか」だけである。〉
とある。
 第8章の章題は、
  〈古典・名作はどうでもいい〉
である。その第一行に「名作におもしろいものなし」とある。読んでゆくと、トルストイ『アンナ・カレーニナ』、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』をまだ読んでないと言って、こうある。
  〈つい「恥ずかしながら」と書きそうになった。そうなのだ、やはりこんな名作を、こんな歳になるまで読んでいないのは「恥ずかしい」という思いが、まだわたしの心のどこかに残っているのである。日本文学・世界文学の「名作」という刷り込みはかくも強烈である。〉
 この、自分の心をのぞきこんでの告白には心を打たれた。今では「本はおもしろければいい」と思いながら、心のどこかに、名作を読んでないのははずかしい、という気持が残っているのである。勢古さんは名をあげていないが、これが日本の知識人の若いころをとらえたイワナミズムの呪縛である。
 もちろん当人の仕事関係は別である。仕事に必要ならおもしろいのどうのとぜいたくは言っていられまい。
 それ以外は、本はおもしろければそれでよい。当人にとっておもしろい本を読んでいればいいのである。

本はおもしろければよい (4)

 敗戦後わが家は、駅から坂を下〔くだ〕った埋立地の一画を買って家を建てた。地名は陸〔くが〕と言う。陸〔くが〕は高台という意味だから駅のあたりが本来の陸〔くが〕なのだが、坂を下った埋立地までその地名に含めてしまったわけだ。
 陸〔くが〕へ移って磯部と家が近くなった。何十年ものち、母が死んでからでもよほど経ってから、何かの折に磯部が言った。
 「お前のお母さんは偉かったなあ。孟母三遷〔もうぼさんせん〕や」
 何のことかときくと、戦後の苦しい時期に無理して陸に土地を買い家を建てたのは、それまでいた所が女郎屋の近くでだんだん大きくなるわたしの教育によくないからだ、というのである。
 「そんなこと友だちはみんな知っとった。知らんのは当のお前さんだけや。ほんまに抜け作や」
 磯部はそう言った。磯部は子供のころ山を走り回ったり同級生と殴り合いの喧嘩をしたりする乱暴者でわたしはどちらかと言うと敬遠していたが、ちゃんと見ていて、それをあとでおぼえた「孟母三遷」という言葉と結びつけるところ、えらいやつだと感心した。
 また立花と家が近くなって、しょっちゅう遊びに行くようになった。立花も幼稚園からいっしょだが、家が近くなって急速に親密になったのである。立花の家は大きかった。立花は磯部とちがってどっちかと言うと弱虫のほうで、幼稚園以来よく強いやつに泣かされた。
 立花には少し年の離れた兄がいた。直接話したことはない。家が大きいのでこの兄は自分の部屋を持っていた。兄がいない時に立花が「内緒やで」とその部屋を見せてくれたことがあった。
 本棚があって本が並んでいる。そのなかに「岩波文庫」という背の低い本が並んでいる一画があった。わたしはそのイワナミというシリーズ名を見て、イワヤサザナミ(巖谷小波)だと思った。「イワヤサザナミの本がこんなにある!」と胸ときめかして背文字を見てゆくと、「小僧の神様」というのがあった。豆粒のような小さな神様が悪者の口から入ってお腹の中で大暴れする、という本だと思い、立花に「これ見して!」と頼んだ。立花は困って躊躇したが、一番の仲良しのたっての頼みである。「薄いからすぐ返しといたら一日ぐらい抜けとってもわからんやろ」と抜いて貸してくれた。
 持って帰って読んでみるとイワヤサザナミではなかったし、豆粒大の神様の大暴れの話でもなかったが、非常におもしろかった。なかでも「清兵衛と瓢簞」というのが一番おもしろかった。そのおもしろさは、わたしがそれまで知っていた本のおもしろさとは全く違うおもしろさだった。急に、今まで知らなかった広さと深さを持ったおもしろい本があることを知って、未知の世界が広がった気がした。
 ある日父親が興奮して帰って来て、「今日皆勤橋〔かいきんばし〕で立花さんが声をかけてくれた!お前のおかげや!」と言う。皆勤橋というのは造船所に渡る浮橋である。上の平らな四角い浮台をたくさん縦につらねて綱〔つな〕でつないである。造船所に勤める者は皆そこを通るから「皆勤橋」である。船が通る時は綱を解いて浮台二台か三台横に開くとどんな船でも通れる。
 それでその日皆勤橋で、造船所の立花専務が父に「おう高島君か」と声をかけ、「うちの周児〔しゅうじ〕がお宅の息子さんと仲良うしてもろうとるそうな」と言ってくれたのだそうである。父から見ると本社の専務と言えば雲の上の人である。それが直接親しく声をかけてくれたというので感激しているのである。父はその後何度も何度もこの話をくり返した。
 わたしはもちろん立花の父親が専務だなんて知らなかった。そもそも「専務」という言葉も知らなかった。立花も、父親が造船所に出ていることは知っていても、重役だとか専務だとかいうことは知らなかったろう。
 立花は多分、食事の時などによく、今日高島が来たとか高島と遊んだとか言い、父親は周児がそんなに仲良しの友だち、として高島という名をおぼえ、何かの折にその父親が下請〔したうけ〕の建築屋だと知って、部下の者に大本〔おおもと〕の高島というのはどの人かと聞いて一言挨拶しようと思ったのではなかろうか。とにかく、何千人が渡る皆勤橋で立花の父親がどうやってあれが大本の高島だとわかったのか、ちょっとふしぎな感じもする。そう思うと父が突然声をかけられて大感激したのももっともだという感じもする。大本というのは父が勤める下請の建築屋の名である。
 ずっとのちになって福沢諭吉の『福翁自伝』を読んだら、中津藩では、父親の身分階級によって子供同士の言葉づかいにも上下の差別があったと書いてあったので「へえ」と思った。わたしが育った所ではそんなことは全くなかった。どの子の父親も造船所関係で当然身分の上下があったに相違ないが、子供たちはそんなことは知らないし、気にとめる者もいなかった。立花はよく叩かれたり泣かされたりしていた。叩いたり馬乘りになっていじめたりしたほうの父親もいずれ造船所関係で、立花専務とは家老と足軽くらいの身分差があったかもしれないが、子供たちの世界には関係なかった。言ってみれば、明治以後子供たちの世界はまっさきに民主化していた、ということだろう。

(つづく)

本はおもしろければよい (3)

 母も本好きだった。
 母は四国の香川県からちょっと愛媛県側に入った海沿いの川之江辺の育ちである。明治末年の生れである。子供のころ冬に冷い川で下の子のおむつを洗っていると、向うの土手を友だちがつれだって楽しそうに学校へ行く。自分も行きたくて行きたくて、ぼろぼろ泣きながらおむつを洗った、とよく言っていた。学校へやってもらえなかったのである。
 日本は明治のころから義務教育が行われたのだから子供は皆学校へ行ったのだと思っている人がいる。大間違いである。それは立て前である。「女に学問は不要」の考えは根強いし、女の子はある年ごろになったらけっこう役に立つから、地方の下層の子は学校へやってもらえない。時々就学率なるものを書いているものがあるが、それはせいぜい入学率であり、それも役場や学校の名簿である。入学したからとて卒業まで行ったとは限らない。そうでない子のほうが多い。
 母は十の時京都へ奉公に出され、三上さんというお医者さんの家(兼医院)に住みこんだ。奥さんともどもたいへんいい人だったそうだ。わたしが子供のころにも何かと言えば三上さん三上さんと言い、物を贈ったり時々挨拶に行ったりしていたようだ。わたしも赤んぼのころに抱かれて行ったようだ。一人で家においとくわけにもゆかないし、子供ができましたと見せる意味もあったのだろう。ごく幼いころ母につれられて行ったような気もする。しかしそれは母に話を聞いているうちに自分の記憶のようになったのではないかとも思う。
 三上さんは母を夜間の看護婦学校へやってくれた。だから母はその後ずっと看護婦だった。初めは京都で、のちには四国にもどって病院に勤めていたらしい。わたしが子供のころには主婦専業だった。もっとも友だち誰のうちのお母さんもそうなのだから「主婦専業」なんて言葉はなかったけれど。
 わたしが学校へあがったころ、斜め裏に早瀬さんという若い夫婦だけの家があった。その早瀬さんの家に吉川英治『宮本武蔵』の揃いがあると聞いて、母が一冊づつ順に借りてきて家事の合間に熱心に読んでいた。母が読み終るとわたしが読んだ。そうゆっくり借りているわけにもゆかないし母も早く続きが読みたいしで、忙しかったのをおぼえている。この『宮本武蔵』が、わたしが読んだ『偉人野口英世』の次の本らしい本であった。
 だから母は、わたしが友だちに「本気違い」と言われるのも、自分の血を引いているのだからしようがない、と思っていたようだ。
 ある意味でいい時代だったというのは、誰も本を読むのはいいことだなどと言わず、もちろん自分でも思わず、ただ本を読むのはおもしろいとのみ思っていたからである。

 子供のころの同学年生は、昭和十七年の四月に幼稚園に入ってから二十七年に新中〔しんちゅう〕(新制中学校)を出るまで十年間ずっと同じ顔ぶれである。増えたのは戦争末期に神戸大阪あたりから数人疎開して来たのと、敗戦後に満洲あたりから一人二人引揚〔ひきあげ〕の子が来ただけである。それ以外はそっくり同じ顔ぶれであった。だからそういうものだと思っていた。
 姫路の高校に入ってから聞いてみると、幼稚園に行かなかったというやつが多い。郡部の連中はそもそも幼稚園なんかなかったと言う。それで初めてわたしどもの相生〔あいおい〕は特殊なのだということを知った。
 相生は全員が造船関係者である。商店も相手は造船関係者である。仲良しの松浦の家は油屋で松浦は名前をきかれると「油屋の松浦」と言っていたが、店先で油を売っているわけではなく、造船所に油を入れているのであった。
 幼稚園も造船所の幼稚園である。もっとも造船所の中ではない。町全体が造船所の関係個所みたいなもので、そのうちの運動施設が集中した所にあった。わたしは子供だから幼稚園が造船所の幼稚園だとは知らなかったが、そう言えばわたしたち子供が午前中歌を歌ったりして帰るころになると、剣道具を持った青年たち(わたしから見ればおじさんたち)が集って来ていた。つまり剣道場を午前中幼稚園にしていたのである。造船工の余暇活動の仕組などわかるわけもないが、お昼前後が余暇活動の組もあったのだろう。
 造船所の幼稚園だから同じ地域の同じ年齢の子全員がいたのである。
 もっとも朝鮮人の子はいなかった。学校にあがると各組に数人づついた。みんな体が大きかった。話によると朝鮮人の子はその年齢になっても学校へ行かない。そのうちに役場の人が気づいて注意する。だから一つか二つ年上の子なのだということだった。ほんとうかどうか知らないが体が大きかったことはたしかである。
 朝鮮人でも國本〔くにもと〕だけはわれわれと同じ年恰好、体つきだった。家が近いのでわたしは國本と仲良しだった。口数の少いおとなしい子だった。
 國本の家はほかの朝鮮人の家と全くちがっていた。ほかの朝鮮人の家は川っぷちの一ヶ所にかたまったバラックで豚がいた。匂いがするのでわれわれは土手上の道を急いで通りすぎた。
 國本の家は本通りに面する女郎屋〔ぢょろや〕だった。わたしは子供だから無論女郎屋〔ぢょろや〕が何をする所か知らないが、二階建の大きな立派な家であった。われわれふつうの日本人の家とは比べものにならない。その家はいつも表が全面的に開いていて、赤いきれいな長い着物をぞろっと着た女の人が家の中にも表にも大勢いた。
 國本は道をへだてた向いのふつうの家の、三畳か四畳半くらいの部屋に、二つ三つ年上の兄さんといっしょに住んでいた。わたしはしょっちゅうそこへ遊びに行った。行くと、当時はもう手に入らない『ノラクロ』などの戦争前の漫画の本が次から次へとあった。
 そこで漫画を見たり國本としゃべったりしていると、時々國本のお父さんが来た。品のいい、やさしい感じの人だった。わたしを見るとにっこり笑って、「級長さん、遊んだってな」(遊んでやってね)と言うのだった。わたしが学校で級長だということを國本に聞いていたのだ。それで級長さんが遊びに来てくれるように、手に入りにくい戦争前の漫画の本をどういう方法でか次々手に入れて持って来ていたのだろう。今思うと当時、裕福な朝鮮人が日本でやれる商売は女郎屋〔ぢょろや〕くらいしかなかったんじゃなかろうかと思う。
 戦争が終るとすぐ國本の一家は朝鮮へ帰った。わたしがその時もうちょっと大きかったら、朝鮮の家の住所を教えてくれとか、こちらの所書きを渡して向うへ帰り着いたらここへ知らせてくれとかしただろうが、考えつきもしなかった。だから國本とはそれきりである。女郎屋は戦後もそのままだった。だれかがあとを引受けたのかもしれない。

(つづく)

本はおもしろければよい (2)

 そういう町だから、書店は一軒もなかった。まわりに本がなかったのは当り前である。母が「講談社の絵本」を買ったのはいわゆる「なんでも屋」だったんじゃないかと思う。
 本の形をしたものなら何でも読んだ。父は本など読まない人だったが本棚はあった。建築の本ばかりだったらしい。『ラーメン』という本があったので見たが、わけのわからぬむずかしい本だった。今辞書で「ラーメン」を引いてみると「ドRahmen(枠)建造物・構造物の枠形の骨組」云々と説明がある。背文字がカタカナだからとて子供にわかるはずがない。ふつうの本はたった一冊、池田宣政『偉大野口英世』だけだった。なんでこれ一冊だけがあったのかわからない。これは一冊まるまるおぼえてしまうほど、くりかえし読んだ。何しろ本はこれ一冊しかないんだから――。最初の、
  「をばさん、鰌〔どぢやう〕買つてくんなよ。なあ、をばさん」
はいまだにおぼえている。
 それ以外に母が取っている『主婦之友』のバックナンバーがあった。これは忙しかった。もう便所紙のない時代だから『主婦之友』は古い順に一家のトイレットペーパーになる。その前に読み終らないといけない。何を書いてあるか考えながら読むなんてひまはない。とにかく全部読む。総ルビだから全部読める。毎号出てくる菊池寛と吉屋信子との名前をおぼえた。
 学校にあがると同級生たちに、家に本があったら見せてくれ、と頼んだ。親はたいてい造船工だから、本らしい本はない。古雑誌が多かった。その友だちに兄がいて兄の買ったものが半端に残っていたのか、『少年倶楽部』のバックナンバーが一番嬉しかった。『少年倶楽部』はわたしも取ってもらったが、それは昭和十八年以後だからだんだん薄くなって、十九年には六十四ページ、二十年には折畳〔おりたたみ〕式三十二ページ、それも合併号が多くなる。アッという間に読んでしまう。連載は大佛次郎の「楠木正成」一つだけで、これがまたちっともおもしろくなかった(折畳式の雑誌というのは紙一枚で、これが表裏のいろんな方向に字を印刷してある。折畳むとページが合って字が同じ方向になる。これを上と下と左とのページを切って右側を針と糸で縫うと表紙も含めて三十二ページの雑誌になるのである)。
 それが戦前(昭和十年前後から十年代前半ごろ)の『少年倶楽部』となると夢のように部厚くて初めからしまいまでおもしろかった。連載物が多くてそれは部分的にしか読めないが、それでもおもしろかった。
 そういうわけで本好きの子供にはいい時代ではなかったが、ある意味では、いい時代だったとも言える。
 「男の子は強い兵隊さんになって憎いアメリカをやっつけ、天皇陛下に命を捧げましょう」「女の子は強い兵隊さんを生む強いお母さんになりましょう」の時代である。
 先ごろ本を読んでいたら「戦争中の男の子は、陸軍大将、海軍大将になるのを夢見ていた」と書いてあったので、あきれると共に腹が立った。書いたのは戦後生れの、戦争中の緊迫した空気なんか全然知らないやつだろう。
 少くとも対米英戦争中にそんな悠長なことを考えていた男の子はいない。予科練(海軍少年飛行兵養成校)に何万という少年が殺到したのでもわかる。予科練は海軍大将を育てる学校ではない。すぐ飛行機を操縦してアメリカ艦隊に突っこんでゆく少年飛行兵を作る学校である。飛行機乘りが一番の人気だったが、そうでなくても男の子なら兵隊になるにきまっていた。
 そういう時代だから、周囲に「本を読みましょう」とか「本を読むのはいいことです」などと言う人はいなかった。もちろん学校の先生も言わなかった。「体をきたえましょう」ばかりである。
 だからわたしは本が好きだったが、それがいいことだなどとは全く思わなかった。と言って特に悪いことと思っていたわけでもない。ただ好きだというだけである。だから学校へ行き出すと友だちに片端から家に本があったら見せてくれと頼んだのである。
 なお本が好きだからと言って兵隊になるのはイヤだというのではない。当然兵隊さんになって天皇陛下に命を捧げるのだと思っていた。
(つづく)

本はおもしろければよい (1)

 出版社のPR誌はいろいろ出ている。事実上タダで(郵送料のみ)中身はけっこう質が高くおもしろいので、わたしもいくつか取っている。
 一番のシニセは岩波書店の『図書』である。これについては、『お言葉ですが…⑥』の「この魚変だ」など何度か書いている。
 『図書』の由緒を言い出すとややこしいが、ごくかいつまんで言うと、『図書』という題になったのは一九三八年(昭和十三年)、戦後の復刊は四九年(昭和二十四年)の十一月、『文庫』を合併して『図書』一本になったのは六一年(昭和三十六年)一月からである。わたしは『図書』『文庫』二本立てのころ、五〇年ごろから取っている。子供のころでもあり、ずいぶん影響を受けていると思う。
 出版社はたくさんあるが、それらのなかでわたしにとって岩波は特別で、「一杯喰わされた」という感じを持っている。ある時急にそう思ったのではない。一九六〇年代の後半ごろから(昭和四十年代の前半ごろから)だんだんそういう感じを持つようになった気がする。

 わたしは子供のころから、本を読むのが無性に好きであった。テレビが現われるより遙かに以前、他に子供の楽しみのなかった時代である。
 のちに母がよく言ったことであるが、字をおぼえる前から本が読めた。「講談社の絵本」である。戦前の「講談社の絵本」は昭和十七年で打切りになっているようなので、それ以前である。
 絵に説明の文がついている。わたしは絵を見ている。母が横から文を読んでくれる。何度か読んでもらうと文全体をおぼえる。そうすると母に読んでもらわなくても、絵を見て声に出して読める。一冊の本をまるまるおぼえきる。それから読みの通り字を見て行けば自然に字をおぼえる。幼稚園に入る前に字は読めた。
 よい時代ではなかった。学校にあがったのは昭和十八年だが、もう子供むけの本なんぞはなかった。字が書いてあるものなら何でも読んだ。
 ずっとのち、何十年も後〔あと〕になって、実は戦争中にも東京では細々〔ほそぼそ〕ながら子供むけの本が出ていたことを知った。わたしのいた地方なぞにはまわって来なかったのである。
 また、子供のわたしの知らぬことだがあとで考えれば、わたしが育った所は日本のなかでもごく特殊な所であった。
 もともと長崎と地形(湾形)が似ているので長崎の造船所の出店(子分の造船所)ができたのだそうである。昭和十二年(一九三七年)以後「支那事変」(日本軍の中国本土への本格的進出)が始まると兵員や物資を運ぶため輸送船の需要が増え、造船工など造船関係者が来て人口が増え始めた。わが家がこの町に移って来たのは昭和十四年である。わたしの父は造船所の工場や事務所の建屋〔たてや〕を作る建築工で、広い意味の造船関係者である。私は移って来た時の記憶はないが、住んだ家の記憶はある。造船工が住む家五軒くらいが一棟で、そういう棟が十も二十も並んでいる。外見は皆同じだから、ちょっと外へ出ると自分の家がどれだったかわからなくなる。
 「大東亜戦争」(対米英戦争)が始まると、輸送船の需要が、支那事変の時とは比べものにならないほど増えた。兵員・物資を運ぶ先がフィリピンはもちろんインドネシアやマレーやビルマまで遠く広がった。途中にはアメリカの潜水艦が待ち受けていて魚雷で撃沈するから輸送船はいくら作っても足りない。戦標船〔せんぴょうせん〕という言葉をおぼえた。戦時標準船の略である。何度も航海するようなしっかりした船を作る必要はない。一往復持てばよい船、という意味である。とにかく必要なのは数だ。平均一日一隻の割合で作らないと間に合わなかったそうだ。
 そういう次第で対米英戦争が始まって船を作るための人間が大量に集められ急激に増えて、たちまち人口が三万を越えて町が市に昇格した。
 だから市と言っても近くの姫路や岡山とは性格がまるで違う。姫路や岡山は古くからの町だから当然いろんな人間がいる。わたしたちの町は何万人いると言っても造船工だけである。それも本職の造船工はとっくにいなくなっているから、アメリカとの戦争が始まってから集められたのは、それまで造船工ではなかった者、造船工としては最低層の俄仕立〔にわかじたて〕の造船工である。わたしの学校友だちも、この町で生れたというのは松浦だけだった。あとは皆昭和十三年以後に親につれられて来たのである。
(つづく)

兵隊帰り (1)

 敗戦の時、わたしは国民学校初等科の三年生だった。満八歳である。
 そのあと、どっと「兵隊帰り」が帰ってきた。短期間に八百万人近くが帰ってきたのだから(吉田裕『兵士たちの戦後史』)、無論わたしのまわりだけではなく、日本中に兵隊帰りがあふれたのである。二十代から三十前後の男なら兵隊帰りと見てよかった。
 その兵隊帰りたちに人々は兵隊経験の話を聞きたがったか、兵隊帰りたちは兵隊時分の話を聞かせたがったか、というと、そんなことは全然なかった。
 第一に、まわりに兵隊帰りはいくらでもいるんだから珍しくもない。それにあの時分は、兵隊帰りたちもそのほかの人たちも、食うことに追われていた。親たちは、その日子供の口に入れるものを入手する、畠で作るのに精一杯だった。百万人くらい餓死者が出るんじゃないかと言われていた。
 ごく一部の元本職軍人の連中が、自慢半分弁解半分の本を出してはいたらしい(辻政信のような連中。一九五〇年ごろから)。しかしわたしが言っているのはこういう連中のことではない。ごく一般の、兵隊に取られた人たちのことである。
 上記吉田著が「社会全体の復員兵に対する態度は冷ややかなものだった」と数々の例をあげている。読むと、もっともだという気がする。「ごくろうさまでした。お話聞かせて!」というような雰囲気ではなかったのである。
 わたしは、学校の行き帰り、「予科練帰り」と称するゴロツキがこわかったのをおぼえている。本当に予科練帰りだったのかどうか知らない。予科練帰りと言えば幅が利くし人が恐れるから言っていたのかもしれない。
 兵隊帰りが兵隊時代の話をし、人も聞くようになったのは、ずいぶんたってからだったと思う。

 わたしは、敗戦直後の兵隊帰り充満の時よりずっと前、たしか幼稚園にあがる前の昭和十六年ごろだったかと思うが、兵隊帰りの戦地話を聞いた記憶がある。
 そのころわが家に傷兵が同居していた。父の姉の息子、つまりだいぶ年の離れた従兄〔いとこ〕である。中国戦線で負傷して(足だったと思う)帰ってきて、「おじさん」の家であるわが家で医者に通いながら仕事を捜していた。生家は瀬戸内海の小さな島だから、負傷兵の仕事なんぞはなかったのである。そのうち傷も癒え(多少びっこをひいていたが)神戸あたりで職が見つかって越して行った。
 わたしはこの従兄にずいぶん戦地の話を聞いた記憶がある。しかしその内容は何一つ記憶に残ってない。その時はおもしろく聞いてせがんだりしたのだが、中身は四つや五つの子供には複雑すぎたのだろう。
 わたしは昭和十八年の四月に学校にあがった。その前の幼稚園の一年間は、先生の顔も身なりも教わった歌もおぼえているのに(浅野先生と言い年ごろはわれわれから見るとかなりの「おばあちゃん」で、いつも焦茶色の着物を着ていた)、学校にあがってから敗戦までの二年四ヶ月ほどはあいまいである。
 学校の先生は校長先生と教頭先生と高等科の先生以外はみな女の先生だった。年間通して教えてもらった先生はない。顔と名前をおぼえているのは一年生の夏休み前と二年生の夏休み前の先生だけである。そのあと先生が何人変ったのかもおぼえてない。戦争で学校の先生が足りなかったのだろう。裁縫の先生が来て九九を教えてくれて、そのあと校長先生が来てまた九九だったので「九九はもう習ったのになあ」と思ったことはよくおぼえている。手すきの先生が来ていたのだろう。
 あのころ(戦争中の後期)、学校の教室で毎日授業をしていたのは国民学校初等科だけだった、と書いたものをよく見る。それ以外が勤労動員で工場や農村へやられていた、という点ではこれは正しい。
 しかし国民学校初等科が毎日悠暢に教室で授業していたわけでは必ずしもない。
 だいたい、よく警報がある。警報は警戒警報と空襲警報と二段階ある。警戒警報はサイレンが長く鳴る。空襲警報は断続的に鳴る。
 ずっとのち、昭和四十年代の後半ごろ(戦争が終って三十年近くたったころ)わたしは岡山大学の教員になって赴任した。岡山大学は校地が日本一広いと言われた学校だから、授業の開始終了の時はサイレンが鳴る。そのサイレンが鳴り出した途端、反射的に胸がドキーンと高鳴って体がわなわなふるえ出した。自分では完全に忘れていたが、体の奥が警報のサイレンの恐怖をおぼえていたのだな、とおそろしく思った。それまでも教員をしていたが、東京の学校では多分リーンとベルが鳴っていたのだろう。その前の中学高校時分はベルだったのか小使さんが鉦〔かね〕を鳴らして歩いたのか。とにかく授業の合図なんぞは毎日毎度のことだから何の音かなんて意識したことがなかったのだろう。サイレンでなかったことはたしかである。岡山大学で二十数年ぶりに聞いて恐怖をおぼえたのだから。
 話は戦争中にもどる。警戒警報のサイレンが鳴り出した途端、何をしている最中だろうと、子供はそれぞれの家にむかって走り出す。つまり四方八方に散る。そうするように学校で教えられ、訓練もしていた。学校でかたまっている所へ爆弾が落ちたら何百人が一ぺんに死ぬ。八方へ散っていれば危険が分散される、ということだったのだろう。
 帰ってから警報解除になっても、その日はもう学校へもどらなくていい。これもそういう規則になっていた。警戒警報は、米軍機が西日本方面にむかって飛んでいる、というくらいの段階で出たのだろうから、よくあったような気がする。
 そのほかにもいろいろあった。「馬糞拾い」。これは実際には牛糞拾いだったのだが、言葉は「馬糞拾い」だった。道路上の牛の糞を拾うのである。道路清掃でもあるが肥やし集めだった。手でつかんで拾い、バケツなどに入れた。何かの時家でその話をしたら、母親が「えーっ、糞を直接手でつかむの?」とびっくりした。こちらは初めからそう教えられて当り前のこととしてやっているので、母のびっくりにびっくりした。ほかにどんな方法があるのか。まさか子供の人数だけの火挟みを用意するわけにもゆくまい。たかが牛の糞である。
 「松根油掘り」。実際には山の松の木の根を掘るのである。その根を搾って油を取るのはどこか別の所の仕事であるが、「松根油掘り」と言っていた。これで飛行機を飛ばすんだと教えられた。敗戦の時にあちこちに松の根を集めたのがいっぱいあったそうだから、その当時の工業力には松の根を搾って飛行機燃料に精製するだけの余裕がなかったのだろう。
 馬糞拾いや松根油掘りよりしょっちゅうだったのは、山の斜面の畠仕事である。学校の運動場はすでに畠になっている。周囲の畠はもちろんそれぞれの主がいてやっている。学校の畠となると少し離れた山の斜面ということになる。
 今その場所へ行くと太い樹木がびっしり並んでいて、こんな所を畠にしたとは信じられないくらいだが、戦争中は食糧増産の掛声のもとにやったのである。
 畠仕事より肥〔こえ〕運びのほうが印象に強く残っている。学校の便所はほとんど小便ばかりである。それを肥桶に汲み入れて、天秤棒を通して二人でかつぐ。わたしはいつも川口と組であった。山の裾まではかなり距離があって天秤棒が肩に喰いこむが、こぼすことはない。むずかしいのは山の斜面にかかってからである。天秤棒を水平に保ってないとこぼしてしまう。前後二人の協力呼吸が大事である。せっかくここまで無事運んできたものを桶のふちからこぼして、「あーあ」と嘆いたものだった。
 まあそういうわけで、初等科の生徒といえども毎日のんきに教室で授業していたわけではない。なおついでに――、今小学校の子供のことは「児童」と言うようであるが、われわれのころはそんな言葉はなかった。学校にあがった時から「国民学校生徒」である。
(つづく)

戦争中の映画 (2)

 『戦時下の日本映画』と『大東亜戦争と日本映画』を読んで驚いた。
 この二冊には津村秀夫が頻繁に出てくる。他の批評家の名前も出てくるが、他の批評家全部あわせても津村一人にとてもおよばぬほど、断然津村がよく出てくる。戦争中の映画評論を背負って立っていたと言っていいほどである。
 津村の批評は辛口である。日本国家にとって日本映画そのものが駄目なのである。出てくる映画出てくる映画片端からけなす。櫻本著の引用の一部を左に引く。『映画旬報』昭和十八年七月二十一日号である。
  〈…恰〔あたか〕もわが国未曽有の国家的危局に直面して、計らずも骨髄を蝕まれたる日本映画の醜状を今日暴露したものといへるであらう。(…)直接戦力増強といふ一点に映画政策の目標を集中して、一大英断をくだすべき秋である。今日の日本には有つても無くてもよいやうなもの、又は比較的無害なるものといふ風なものの存在は許されない。(…)「暖き風」「戦陣に咲く」等の怪映画も「あさぎり軍歌」も有害であるが「音樂大行進」「ハナ子さん」「兵六夢物語」「若き日の歡び」等の一連のアメリカニズムの色彩ある東宝的企画も亦、これに次いで有害無益である。〉
 以下、「幽霊大いに怒る」「サヨンの鐘」「むすめ」「戦ひの街」「家に三男二女あり」「男」「愛の世界」「歌行燈」「風雪の春」「華やかなる幻想」「開戦の前夜」「家」「ふるさとの風」「海ゆかば」「敵機空襲」「シンガポール總攻撃」「マライの虎」などをすべて「駄映画」「二流作品」と言っている。つづいて、
  〈一八年度は半歳を経て漸く得たものが一本である。約三十数本の中で「望樓の決死隊」が僅かに映画作品としての体を成してゐるのみである。何んといふ惨状であらうか。「姿三四郎」もその中では一種の力作で魅力もあるが、ここにもアメリカニズムは払拭されてゐず、あのだらしない結末では低脳映画と申されても致方がないであらう。〉
 津村秀夫がたった一つほめている「望樓の決死隊」は今井正の作品で「朝鮮国境警察官夫婦(高田稔、原節子)の物語」とのことである。今井正なら戦後再上映されたんじゃないかと思うが、わたしは全くおぼえがない。
 ところが津村秀夫は敗戦を境にコロリと変ったらしい。古川著から引く。文中引用されている津村の文は『映画評論』'45・9、まさしく敗戦直後のものである。
  〈評論家たちの方は、国策映画を推奨し続けてきた津村秀夫のように、「日本映画に今まで思想がなく、主張がなく、批判のなかった一半の理由は、たしかにあの永年の検閲制度のお蔭には違ひない」、「映画界は近い将来に宗教的といひ得るほどの崇高な感情を盛つた日米親善映画を創造する位の決断力があつてほしい」などという豹変ぶり(大衆蔑視は相変わらずだが)を示す者もいたが、…〉
 敗戦を境に言うことが変った人のことは時々聞くが、これほどケロリとした「豹変」もめずらしいんじゃなかろうか。戦後のわれわれ映画好き中学生は、こんな人に導かれていたのかと思うとなさけない。
 なお津村秀夫は外部の寄稿者として『週刊朝日』に映画評論を書いていたのではなく、いつからかは知らないが『週刊朝日』の編集長であったらしい。つまり朝日新聞社の人だったのである。

戦争中の映画 (1)

 古川隆久『戦時下の日本映画』('03吉川弘之館)と櫻本富雄『大東亜戦争と日本映画』('93青木書店)を読んだ。どちらもよかった。おもしろかった。
 わたしは戦争中に映画を見ていない、と思う。敗戦の年三年生だから一人で映画館へ行くとか同級生と誘いあって行くとかは無理である。つれて行ってくれるとしたら母親だが、それどころではなかったろう。とにかく全くおぼえがないのは行ってないからだろう。
 しかしこの二冊を読むと、戦争中の映画はけっこう見ている。小津安二郎、黒澤明等々戦後の有名監督は、戦争中の作品もくりかえし再上映されたからである。再上映は戦後だいぶたってから、米軍占領が終ってからだったと思う。
 櫻本富雄さんの本に「気になるのは当時の形のまま、再上映されたのかどうかである。」(P.147)とあるのを読んでハッとした。そんなこと考えもしなかった。言われてみるとたしかにそうである。ぐあいの悪い所をちょっと削るくらいのことをしてないとも限らない。もちろんそっくりそのままかもしれない。映画のばあいは痕跡が残らないからむずかしい。
 わたしが見た(と思う)映画は左である。カッコ内の最初の人名は監督。
 『ハワイ・マレー沖海戦』('42、山本嘉次郎、特撮円谷英二)
 これは特撮が売りものである。
 『姿三四郎』('43、黒澤明、藤田進)
 柔道映画である。黒澤の最初の作品である。
 『無法松の一生』('43、稲垣浩)
 阪妻〔ばんづま〕映画。阪妻は役者の阪藤妻三郎。役者は戦後「俳優」と言うようになったが、どうもわたしはこの言いかたになじめない。なんとなくなよなよした感じがするからだろうか。
 『戸田家の兄妹』('41、小津安二郎)
 『父ありき』('42、小津安二郎、笠智衆)
 笠智衆はこの映画に出た時まだ三十代だったのだとのちに知ってびっくりしたおぼえがある。
 『花咲く港』('43、木下恵介)
 木下恵介の最初の作品である。よく戦争中にこんな映画を作れたなあと思ったのをおぼえている。映画評論家双葉十三郎が「時局意識を裏から逆手に強調している面白さは絶えて久しく見られなかったところで、ほっと一息つける作品である」とほめている(櫻本著所引)。映画評論家の水町青磁が雑誌『映画評論』昭和十九年二月号に十八年の日本映画界について「この年度の拾いものは二人の新人が登場したことである。黒澤明と木下恵介である。」と書いている(櫻本著所引)。両人の登場は事件だったのである。
 『一番美しく』('44、黒澤明)
 ガラス工場の女子工員の集団を描いたものである。スターも出てないし主役もいない。場面は工場内ばかりで、出てくるのはレンズを磨いたりしている地味な女の子の集団だけである。

 わたしが映画を見に行くようになったのは、昭和二十三年(一九四八)六年生のころからだったと思う。残念ながら証拠はない。昭和二十五年の夏休み日記が残っており、七月二十日(木)の項にこうある。
  〈晝から、立花君と松尾君と平沢君と村尾君と室井君と僕とで映画「きけ、わだつみの声」を見に行った。〉
 翌二十一日(金)にはこうある。
  〈晝から立花君と藤田君と室井君と僕とで相生館へ「インパール作戦」と「火山脈」とを見に行った。〉
 二日つづけてである。このころまでに同級生といっしょによく映画を見に行くようになっていたことがわかる。「火山脈」は野口英世の伝記映画である。
 どんな映画を見に行ったか。案内役は『週刊朝日』の映画欄であった。筆者は「Q」である。これが映画評論家の津村秀夫であることも知っていた。誰でも知っていた。津村秀夫は当時の映画好き中学生の指南役、中学生だけでなく多分広く映画好きの指南役であった。
(つづく)
プロフィール

たかしまとしお

Author:たかしまとしお
高島俊男「お言葉ですが…」ブログへようこそ!
ここでは「お言葉ですが…」の最新原稿と単行本未発表の書評などを掲載します。

単行本著作一覧・連載記事一覧は下記リンク欄をクリックしてください。

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク