兵隊帰り (2)

 戦争が終ると兵隊帰りの先生たちが学校に帰ってきた。わたしたちの組は夏休みが終って九月になってすぐ、軍服で坊主頭の先生が来た。わたしたちは、戦争に負けて軍隊がなくなったので兵隊が商売替〔がえ〕して先生になったのだと思っていた。実はその先生は本職先生なのであって戦争中兵隊に取られていたのだ、と知ったのはずっとのちになってからである。兵隊帰りの先生だからと言って授業中に兵隊時代の話をするようなことはなかった。九月にすぐ来たから、内地の部隊にいたのだろう。前掲吉田著によると復員兵約八百万人の半分以上は内地の部隊である。本土決戦用だったのだろう。したがって比較的おそい時期に兵隊に取られた人が多かったんじゃないかと思う。
 戦争に負けて新制中学校ができてわたしたちは入った。もともと国はずっと前から義務教育を八年にのばすつもりであったのだが、戦争で実行できなかった。だから戦後の日本中あっちもこっちも燒野原の時期に新制中学校(新中〔しんちゅう〕と言っていた)ができたのだそうである。
 新中は何も在来校がなかった(あったとすれば国民学校高等科だけ)ところへ突然ポッとできたのだから、校舎もないし先生もいない。わたしたちの校舎は、戦争中に造船所の労働者として、朝鮮人やら支那人やら囚人やら捕虜やらをかき集め、その宿舎として埋立地に建てた細長いバラックの列であった。先生は兵隊帰りであった。と言ってもふつうの兵隊帰りには学校の先生は無理だから、軍の学校を出たか在学中だった人であったようだ。
 一人だけ軍人でも軍学校でもない先生がいた。服が肩から垂れさがっていた。つまり胸の厚みが全くなかった。肺病の手術で肋骨を全部取ってしまったのだと言っていた。
 その一人を除いてあとはみな軍帰り軍学校中途である。若い男の先生ばかりだった。しかし授業中に軍の話をすることはなかった。授業が軍と無関係だったというわけでは必ずしもない。
 数学の授業はわからなくて退屈だから、授業を聞かないでがやがや話をする連中が多い。先生はそういうやつらを教壇上に並ばせて、片端からビンタを取った。よろけるやつもいた。殴られた連中は「海軍式だからこたえるよ」と言っていた。軍隊の話はないが授業中は軍隊式のところもあったというのはそういうことである。
 高校の時の先生で一人、空で爆音がすると窓の所へ行って見あげて、「カーチスですなあ」とか何とか言うのがいた。生徒たちはB29とグラマンは恐怖とともにおぼえているが、戦後は空を飛んでいる米軍機の機種などには無関心だった。
 そういうわけでわたしは、まわりが兵隊帰りだらけの時代に国民学校三年生以後をすごしたのだが、軍隊の話や兵隊の話を聞くことはなかった。戦争中は戦争の話や空襲ばっかりだったから、戦後は誰もそんな話は聞きたくもなかったのだろう。

 昭和三十年にわたしは東京の大学に入ったのだが、そのあとよく入院した。体が弱かったわけでもないと思うのだが、六十年も前のことだから理由は忘れてしまった。一度医者に「来るのがもう一日おくれていたら死んでたぞ」と言われてびっくりしたのをおぼえているが、それも理由(病名、体の部位など)は全くおぼえてない。
 見てもらうのは学校の診療所である。きまった先生がいるのではなくて、日によって東大病院のいろんな医者が一日一人来ていたような気がする。したがって「入院だ」と言われて入るのは東大病院である。東大病院は本郷だけでなくあちこちにあるのを知った。二人部屋のことが多かった記憶がある。個室というのは、知らないけど重態の人とか伝染病とか特殊な病気の人だったんじゃなかろうか。とにかく二人部屋は最上等の部屋の感じだった。もちろんわたしが希望したわけではなく、上等患者であるわけもないが、学内の診療所から送られるのだから「うちの人間だ」と二人部屋に入れてくれたんじゃなかろうか。看護婦さんが「学生さんね」とにこやかでやさしかったのはよくおぼえている。同室にもう一人いるわけだが、それが東大関係の人だった記憶はない。
 強烈におぼえているのは二人部屋でいっしょになったおっさんである。四十代くらいだったろうか。
 入院生活は退屈だから話をすることはよくある。そのおっさんは話し好きで、一方的にいくらでも話した。敗戦まで兵隊だったようで、中国戦線の話である。
 ショックで、六十年後の今もおっさんの顔とともに忘れられないのはこういう話である。これをおっさんは自慢話としていかにも楽しげにしゃべった。
 ――チャンコロを十何人かつかまえて来て、縛って横一列に膝まづかせて、俺が機関銃で左から右へ一なめして、一瞬にして全員殺した、――というのである。
 今では、中国戦線の日本軍のことを書いた本は無数に出ている。中国人を気楽に殺した日本兵のこともよく出てくる。しかしそういう本が出るのはずっとあとである。
 わたしがそのおっさんの話を聞いたのはそれよりよほど前のことである。少くともわたしは、そんな話を聞いたこともなかったので、それはそれはびっくりした。人を殺したことを虫をつぶしたほどにも思っていないのである。
 今ならたとえば、
  〈住民が反抗的態度に出たと言うので「十里四方の住民全部を殺せ」という軍命令が出された。〉
 と本に書いてある(吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』が引く浅香進一『初年兵日記』)。しかし当時(昭和三十何年かのころ)には知られてなかったし、少くともわたしは夢想だにしなかった。だからたまげた。
 すべての日本兵がこのおっさんのようであったというわけではない。
 井上俊夫『初めて人を殺す』('05岩波現代文庫)に馬場二等兵という人が出てくる。大阪河内〔かわち〕の百姓で、部隊一番のノロマである。国元の母親から手紙(実際には妹が書いたもの)が来ると、同じ河内出身の井上二等兵に読んでもらう。返事も井上に書いてもらう。
 妹は軍あての手紙のことを知らないし、馬場は現に軍隊にいながら軍の手紙のことを知らない。妹は「お母ちゃんと二人で、兄ちゃんが無事に帰ってくるのを首を長くして待っています」などと書いて、馬場が上官に「貴様の留守家族は今の時局をなんとこころえているのだ」と叱られる。馬場は「おかんの顔が見たい」とか「田圃〔たんぼ〕がどないになってるか気にかかって仕様がない」とか書いてくれと井上に頼む。井上は心得ていて「天皇陛下に一命を捧げる」などと書いてやる。
 上官が、生きている人間を殺す練習をする、と、炊事役の若い中国人を一人つかまえて木にくくりつけ、兵隊たちに一人づつ順番に銃剣で刺殺する訓練をした。中国人はびっくりして大声で叫び立てる。
 この時馬場二等兵は「かんにんしとくなあれ」と泣き声で言って、突かない。殴られてもぶっとばされても「かんにんしとくなあれ」をくりかえすばかりである。
 こういう兵隊もいた。ただしごく稀な例外的兵士であるから、この本の著者も馬場二等兵のことを詳しく書いているのである。他の兵士たちは著者の井上も含めてたいていはいやいやながら突いた。
 中国戦線の経験を書いた本を読むと、兵隊たちはみな中国へ送られた当初は人を殺すことに対する抵抗感が強い。日本で人を殺したことはないのだから当然である。くり返しているうちに感覚が鈍磨してきて、あとになると、殺したあとでもことがすむと平静な気持で、さっき人を殺したこともほとんど意識にない状態になるのだそうである。しかしなかには痛快な記憶として残る人もある。わたしが病院の二人部屋で一緒になったおっさんはそのような男の一人だったわけであろう。
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