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『東京外語支那語部』

「東京外語支那語部」 (藤井省三著、朝日新聞社)

 のっけから私事で恐縮ながら――わたしは以前、二十年ばかりの間、中国語の教師をしていた。もうやめてだいぶになるが、今でも夜寝る時は、枕元で中国語のテープをかけておくと安らかな眠りにつける。中国語は美しい言語である。……
 ところがなかなか、そんな悠長なことを言ってはいられないのが、ここ百年ほどの、日本における中国語なのであった。わたしは昭和三十年代に東京飯田橋の中国語学校に入ったのだが、教室の壁には巨大なポスター、中国のたくましい労働者が目をむいて大きな拳骨をふりあげているのがはってあって、なんだか殺気がただよっているような雰囲気にたじろいだものだ。中国語を学ぶことはとりもなおさず社会主義中国を擁護することである――誰がきめたかそういうことになっていて、「響きの美しい言葉だから……」なんてとろくさいことを言うやつは、ほとんど身の置き場がないのであった。
 戦前は、ある意味ではその正反対、ある意味では似たようなことであった。明治以降、中国語は、中国大陸へ経済的・軍事的に進出して行こうとする日本人の活動の手段であり、日本帝国の政策が骨がらみになっていた。戦後は、その反省(あるいは反動)からあちらがわへの骨がらみになったわけで、どちらにしても政治が鳥モチのようにべったりくっついて離れない。日本における中国語は、不幸な言語だったのである。
 これは、その戦前の、政治に翻弄される中国語の浮沈の姿を描いた本である。著者の言う「東京外語支那語グループ」、すなわち明治大正期に東京外国語学校支那語部を卒業して中国語教師になり、あるいは教科書を作った人たち、およびその周辺の人たちが物語の登場人物であり、最も主要な人物は、東京外語教授神谷衡平、横浜高等商業助教授武田武雄、そして中国の作家巴金である。
 神谷衡平は、明治末に外語を卒業、大正末年から昭和初めにかけ、当時勃興してきた中国の新文学――胡適、魯迅、周作人等々の作品を全面的に取り入れた革新的な教科書をつぎつぎに作った人である。魯迅の日本への紹介が神谷ら外語グループによって先鞭をつけられたものであることを明らかにしたのは本書の功績の一つだろう。
 武田武雄は神谷の次の世代に属し、大正末に外語を出て新設横浜高商に任官、日中間の全面戦争が始まると、教師をやめ、志願して陸軍通訳になった。巴金は、昭和九年に来日してその武田宅に寄寓し、以後折にふれて武田の思い出を書くとともに、日本の中国語教科書、日本人の中国理解について発言している。こうした生身の人間の献身や困惑や怒りをつうじて、戦前日本の中国語の不幸な歴史が語られるのである。
 著者藤井氏の調査探索の広さ、確かさ、綿密さは、かねてわたしの最も敬服するところ、本書においてもそれは十分に発揮されている。そしてそれはたとえば、武田家の朝の紅茶から、わが国における紅茶生産の開始、日東紅茶の由来に説き及ぶ、といった本筋外の細部にまで行き届いていて、それがまたこの本の魅力の一つなのであるが、それは読者諸賢、直接本書に就いて御堪能ください。
(1992.10.26 毎日新聞「今週の本棚」)

『少女目にみゆ』

「少女目にみゆ」 (角田秀雄著 新評論)

 自分史を書くのが盛んだそうである。たのもしいことだ。
 昭和の日本は、目まぐるしい変化の六十数年であった。それをいろいろな場で経てきた人たちの、たくさんたくさんの自分史が要る。すくなくとも、わたしは読みたい。そしてそれは、できるだけ正確な、具体的なものであってほしい。
 無論これまでにも、自分史はあった。たとえば向田邦子さんのエッセイは、その全体が、昭和前半の日本の家庭と女の子を書いた最高の自分史である。わたしは(自分のまわりにも女の子はいくらもいたにもかかわらず)向田さんを読んで、ああ、女の子とはこういうものであったのか、と初めて知った気がした。読み返し読み返して、そのたびに感銘を深くする。向田さんが書き残した数々の文章は、日本の宝だとわたしは信じている。
 この角田秀雄さんの本は、向田さんより少し前、昭和ヒトケタの時期の、東京の男の子の自分史である。これもまたすばらしい出来だ。戦後ずっと朝日新聞の記者であったかただから、文章は達意にして流麗、純日本的抒情がしたたるようである。驚くべきはそのずばぬけた記憶力だ。齢七十になんなんとして幼少時の追憶を書き始め、昭和十一年小学校卒業時までで三百七十ページに達している。並の頭脳ではない。
 角田さんは、大正十二年八月生れ、生れた翌々日が関東大震災、というかたである。東京大森の上流サラリーマン家庭に育った。
 お父さんは東大農学部を出て味の素に勤める技師。神奈川県葉山の旅館「日蔭茶屋」の次男坊である。日蔭茶屋…、なんか聞いたことあるなあ、とお思いのかたもおありでしょう。そうです。神近市子が大杉栄を刺して全国的かつ歴史的に著名になった旅館である。今も、「日影茶屋」とちょっと字を変えて、つづいているそうな。
 お母さんは東京牛込の人で、結婚前の名は夏目千鶴子、と言えば、ははあと思い当たるかたも多かろう。さよう、漱石の姪である。父は夏目直矩。漱石には兄が三人あったが、二人は早世し、この直矩だけが残った。この兄を漱石が軽蔑し嫌悪していたことは作品のあちこちに見える。しかし姪は別で、次女の恒子さんと同級の仲良しだったこともあり、漱石に可愛がられた。漱石の死後、夫人と子供たちは千鶴子さんも加え毎夏を葉山の日蔭茶屋ですごした。それで日蔭茶屋の次男坊と漱石の姪が結ばれることになったわけである。
 このお母さんから聞いた、漱石門下の俊秀たちの話もおもしろい。女学生だったお母さんが一番好感を持ったのは「芥川さん」だった。夏目家のお嬢さんたちのあいだで最も評判がよかったのは「和辻さん」で、お嫁に行くなら和辻さん、と騒いでいた、等々。
 わたしはこの本を読みながら、しばしばみずからの幼時に思いを馳せた。たとえば、大森駅近くの踏切で牛をたくさん積んだ貨物列車を見て、翌日から踏切通いを始めるところがある。「ああ、ぼくは宇野線の早島駅だった。牛や豚の貨物列車が見たくて、日がな一日木柵の所で立っていたっけ」と思うのである。特に東京生れの人なら、そういう眠っていた記憶を誘い出されることがいっぱいあるにちがいない。
 この本を読んで感心することの一つは、人物が実によく書けていることだ。このお母さん、色白でひたいが広くて目がややひっこんでいて、背が低く豊満で日本舞踊も社交ダンスも上手なお母さんなんか、ほんとうに目に見えるようだし、その父、御一新で没落した町名主のあとをつぎ、才能も成功も輝かしいところは全部弟に持って行かれて、矢来町の暗い家の一間にうつろに坐って生涯を過ごした夏目直矩の姿も短い筆ながらみごとである。
 そして圧巻は、女中のとくや〔傍点〕である。とくやは、ねえやと言うより秀雄少年の親分だ。葉山の近在の漁師の娘で、頗る尚武の気象に富む。腰巻一つで海に飛び込み、秀雄少年に相撲の特訓をほどこす。メンコの技術を伝授し、チャンバラ映画につれてゆく。弱虫の子犬を近隣を圧する猛犬に育て上げる。わたしはとくや〔傍点〕の登場するくだりを読み返してあきることがなかった。
 最後に特筆大書しておきたいこと。角田さんはことばや文字を可能なかぎり忠実に再現しようとしておられる。ちいさな例を一つあげれば、『幼年倶楽部』ではなくて『幼年倶樂部』である。こういう心づかいがすみずみまでゆきとどいている。ありがたいことだ。
 角田さんはこのあとさらに、昭和二十年の敗戦までを書きつぐおつもりとのことである。必ずや昭和の記念碑の一つになるにちがいないと、わたしは確信している。どうぞ健康にお気をつけて――。
(1992.9.21 毎日新聞「今週の本棚」)

『中国ひとり旅』

 『中国ひとり旅 そこを何とか泊めて下さい』 (武田亨著 連合出版)

 世界中の「貧乏旅行者」が、いま中国の各地を流れ歩いている。彼らのことを「パックパッカー」と称する。「バックパック」というのは彼らがせおっているリュックのことである。男も女もいるが、たいていはわかく、そしておおむね一人旅であるらしい。彼らは安い旅館の「ドミトリー」(相部屋)に泊まり、汽車の「硬座」(二等車)か「硬臥」(二等寝台)、もしくはバスをのりつぎ、大衆食堂で食事し、たがいに情報交換しながら、一にも安く、二にも安くをモットーに旅行をつづける。
 こうした青年たちの出身国は多くは西側先進諸国で、行き先は、以前は中近東や東南アジアがおもであったが、近年は俄然中国がはやり出したもののようである。
 武田亨『中国ひとり旅 そこを何とか泊めて下さい』(一九八七年、連合出版)は、そうした中国バックパッキングの記録である。
 「そこを何とか泊めて下さい」という、副題ともコピーともつかぬ一句が、中国貧乏旅行の一番の難点を、おかしくもピタリと言いあらわしている。中国の旅館の受付は、宿泊申込者に対して、なにはともあれまずは「没有」(ない)とことわるのである。もちろんベッドはたいていはあいているのであって、「没有」と言われた時点から、虚々実々、丁々発止のやりとりがはじまるわけだ。
 著者の武田さんは、一九五一年生まれ、七三年に明治大学を卒業、五年間都立高校の先生をしたのち、一九八二年に貧乏旅行に出た。ネパール、インド、パキスタン、イラン、シリア、ヨルダン、トルコと、バックパッカーの花道をちょうど一年かけて歩き、一九八三年五月、香港から中国に入り、広州から北京、大同、包頭、蘭州、敦煌、ウルムチ、トルファンなどを二か月かけてまわった。
 英語ができるが、中国語は全然できない。中国の人と意思の疎通をする際には、まず、ノートに「我、日本人、旅人」と書いて示したそうである。それで英語も日本語もわからない旅館の受付を相手に宿の交渉をするのだから摩訶不思議であるが、パックパッカーというのは概してそういう摩訶不思議な技倆を身につけているものらしい。
 さて、この本は、わたしにとってたいへんおもしろかった。いい本であった。それはこの本が、パックパッカーたちについて、あるいは彼らが見た中国について教えてくれたから、というだけではない。
 わたしは、この本を読んで、心を洗われるような思いをした。武田さんのすなおさ、やさしさ、心のゆたかさに打たれた。
 たとえば最初に入った広州の旅館勝利賓館で、武田さんは、四階の女性服務員たちとたちまち仲よしになってしまう。わたしの経験によれば、中国のホテルの、特に女の服務員というのは、おおむね、つっけんどんで無責任で、愛嬌のカケラも色気のカケラもない連中なのであるが、武田さんの前では、彼らはけっこう人間らしい、いやそれどころかとっても可愛い女の子の本性をあらわしてしまうのだ。
 武田さんは、彼女らと再会を約して内陸へ旅立ち、一か月後にまた広州へもどってきた。そして勝利賓館の受付で、例によって「部屋はない」「そこを何とか」の一時間にわたるすったもんだとなり、ついに最後の奥の手、ノートに「日中友好二千年的歴史、我是友好四階服務員!」と書いて示した。かくてめでたく四階のベッドにたどりつき、この中国旅行の最後の二日間を「洗濯やアイロンがけや風呂場洗いなど、かいがいしく働く彼女たちのそばに腰かけてのんびり楽しく過ごした」という。
 この美しい風景は、もちろん、なによりも武田亨さんの人がらに負うものであることは言うまでもない。
 しかしもう一つわたしは、こんなふうにも思うのだ。――中華人民共和国建国後の日本人の中国レポート、ないしその中国観は、これを「バラ色のウソの時期」、「幻滅と憤りの時期」、そして「白紙の時期」の三つにわけることができる。そして武田さんなどは、よけいな先入観のない、しあわせな「白紙の時期」に属するのではあるまいか、と。
 わたしなどは「幻滅と憤り」の世代に属するのであるが、これはあたかも、勝手に美人と思いこんでいた女が実はブスとわかって「だまされた!うらぎられた!オレの半生をどうしてくれる!」と怒り心頭に発し、もしくはそのうらがえしでひどく冷笑的になり、そのうえおせっかい至極にも「こんなブスでこの先いったいどうするのだ!」と悲憤慷慨している中年男みたいなものなのであって、これでは人に好かれるわけがないのである。
 そこへゆくと武田さんなど若い人たちは、何の予断も心理的葛藤もなく中国へ行き、腹の立つことがあっても「それでも社会主義か!」などとヤボは言わず、苦笑とあきらめを含んだ寛容でふんわりと包んでしまう。そういう人には中国のあちこちですばらしい出会いがつぎつぎに待っており、それがまたわたしなどのようなヤヤコシイおっさんの心をもろに打つ、ということなのではあるまいかと思うのである。
    (独断・中国関係名著案内(10) 『東方』1983年2月号)

『この流れの中に』

「この流れの中に」(木下富砂子著 沖積社)

 大正うまれの一婦人の自伝である。北九州市の自分史文学賞受賞作とのこと。
 正直言って、しろうとさんの書いたものだからまあたいしたことはなかろうと、さして期待もせず読み出したのだが、これがおもしろかった。
 まず材料がいい。つまりこのかたの経歴そのものが、変化に富んでいておもしろい。
 つぎに、文章が書ける。これがだいじのところですね。変化に富んだ経歴をもつ人はいくらもあるが、文章が書けなければしようがないわけだから。
 佐世保にちかい炭鉱住宅の長屋で七人きょうだいのかしらとして育ち、高等小学校を出て呉服屋の女中になったが、商品の浴衣地を盗んでたちまちクビ。
 ここがまずおもしろかった。お店の品を盗んだりしたらどんなに叱られるかと思えば、店の奥さんはまったく何も言わない。だまって親を呼んで、つれて帰らせる。女中のなり手など掃いて捨てるほどいるんだから、手癖の悪い娘の不心得を諭してまで使うことはないのだ、とある。なるほど、と感心した。
 つぎに芸者の卵になったが、一年でダウン。
 昭和十一年十六歳の時、仲のいい友だちといっしょに家出して、博多でおでん屋の女中になり、ついでキャバレーの女給になる。
 この民子という友だち、これがずっと主人公と行をともにするのだが、なかなかよく書けている。大柄で、よく言えば鷹揚、わるく言えば少々鈍感でノーテンキ、あきっぽくてこわいもの知らずの娘である。
 昭和十三年のはじめに海を渡って奉天のダンスホールに移ったが、ここで大病、やっとなおってまたおでん屋、ただしこんどはもちろん奉天のおでん屋から再出発し、ついでキャバレー。このキャバレーが河北省の石家荘に将校相手の支店を出すというので志願して行き、昭和十四年春、そこからさらに山西省太原のキャバレーへ。―だいたいこのあたりで、自分史募集の制限枚数いっぱいになったらしい。これから将校あがりの戦地ビジネスマンと結婚し、三人の子を生み、夫が再召集されてソ満国境へおもむいたあと敗戦をむかえるくだりは、わずか二ぺージでかたづけてある。まことに惜しい。
 この人は、人物を描き出すのがうまい。
 たとえば博多のおでん屋で店をきりもりする梅子という三十女。有能で働き者で、新入り女中に対してはきつい。
あるいは、主人公らを奉天へつれて行ってくれた田中という客。風采のあがらない小男で、金ばなれがよく、気さくで親切だがまたいたって淡泊でもある。
 実際の人生は小説とはちがう。この田中という男など、作者の人生に一大転機をもたらした人物だが、奉天へついたらそれきり姿をあらわさない。しいて小説めかして作ってないところがいい。実人生における人との出会いはかくのごとく、多くのばあいそういつまでも因縁がからまるものではなく、一時期交渉があると、まもなく車窓の風景のように背後へ過ぎ去ってゆくものなのである。
せひ、二ぺージでかたづけた部分を一冊に書いてもらいたい。結婚してからの、開封、徐州などでの生活のほうが、いっそうおもしろくなりそうだ。
 『この流れの中に』というタイトルはあまりにも無内容である。何のメッセージもない。このつぎはもうすこし気のきいたタイトルを考えてもらいたい。
 紋切型の表現を便わないこと。この本の特に前半、「不況の嵐が荒れ狂う」「滝のような汗」「食い入るように見つめる」「蒸し風呂さながらの暑さ」等々にはほんとにガッカリする。たとえば博多の市内電車の車掌の姿態など、短くてもピカリと光る描写ができるのに、どうしてこんな手垢のついた形容にたよろうとするのか。やめましょうね。
 続篇、ほんとに期待してます。
(熊本日日新聞 1996.年2月18日)

『幕末 写真の時代』

「幕末 写真の時代」(小沢健志編 ちくま学芸文庫)

 わたしは、自分の幼時の写真が二枚ある。
 一枚は三つくらいの時のもので、大きなハーケンクロイツのついたナチまがいの洋服を着て、鉄砲を手に、キョトンとした顔でうつっている。七五三の時か何かなのだろう。
 もう一枚は国民学校に入った時のもので、学童服を着て頭に大きな帽子をのせ、直立不動、おそろしく緊張した顔をしている。
 どちらも昭和十年代、もちろん写真館でとったものである。はじめての子なので、節目には親が写真をとりにつれて行ったのだ。
 われわれ、現在〔1996〕六十歳代以上の者が子供のころのふつうの家では、写真をとる、というのは、一家の一大事であった。その大騒ぎのようすは向田邦子さんの『父の詫び状』、「記念写真」によくえがかれている。昭和十五年の冬、鹿児島で一家七人の写真をとった時のことを書いたものである。
 それからさらに七十年以上前、幕末から明治はじめとなると、写真はいよいよ重大事であった。なにしろ写真をうつすと魂をすいとられて寿命がちぢむ、と信じている人がすくなくなかったころである。
 それに、十分くらいのあいだじっとしてないといけなかった。顔がうごかないように「首おさえ」というものでうしろからささえた。難行苦行である。それでも、肖像画をかいてもらうことにくらべれば「アッというま」と感じられたことだろう。
 金もかかった。初期には、いまの金にして一枚十万円くらいしたようである。それを、高価な額縁に入れてだいじに保存した。
しかし新しいものずきの日本人は当時でもけっこうよく写真をうつした。坂本龍馬が写真ずきであったことはよく知られていよう。各地のお殿様にも写真ずきは多かった。資金を出し、臣下に命じて研究もさせた。
 この本は、それら幕末(一部明治はじめ)の写真のなかから約二百枚を厳選しておさめ、説明をつけたものである。
 感心するのは、鮮明にうつっている、というだけでなく、どれも芸術作品としてすばらしいことだ。人物ならば、うつすほうもうつされるほうも一世一代、よいものをのこそうとしたし、風景ならば、構図やアングル、あるいは季節や時間を考えぬいたのだろう。
 最初期の撮影者は日本にきた欧米の写真家である。ついで、上野彦馬、下岡蓮杖の幕末二大写真家をはじめとして、すぐれた日本人写真家がつぎつぎにうまれてくる。いずれにせよ、いまのようにしろうとが簡単に写真をうつせる時代ではなく、写真家は日本に何人という高級技術者なのであった。
 写真とは何か。
 鏡の前に立つと、自分の像がうつる。立ち去れば、消える。
 もし、立ち去ったあとも鏡面に像をのこすことができたら…。それを実現したのが写真である。鏡だから左右は逆になる。きものは左前になるし、左の腰に刀をさしていれば、右にさしてうつる。複製はきかないから、あとにもさきにも一枚きり。これが初期の写真、ダゲレオタイプ(銀板写真)である。
 つい先日、七月四日の朝日新聞に、
 〈「日本人初撮影は漂流者!?」「『しんぱち』『こめぞう』ら4人 通説より3年前」「乱れた髪、よれよれ NYの古新聞から推定」〉
という、日本人最初の写真に関する大きな記事が出ていた。この「しんぱち」ら四人の写真はこの本にも出ている。逆に新聞には、本書の著者小沢健志さんの談話も出ている。双方てらしあわせると実におもしろい。
 わたしの本欄執筆は今回でおしまいにさせていただきます。最後の大サービス、本書を買い、朝日の記事も見たいが、図書館・販売店・知人宅その他で見る便宜のないかたは、あて名を書いた切手つき封筒を同封して直接小生にお申しこしくださればコピーをお送り申しあげます。
 あて先は―〔省略〕
(熊本日日新聞 1996.年8月4日)
プロフィール

たかしまとしお

Author:たかしまとしお
高島俊男「お言葉ですが…」ブログへようこそ!
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