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内田魯庵傳

 内田魯庵傳(野村喬著、リブロポート)

  内田魯庵、といっても、今はもう知らない人が多いかもしれない。せいぜい一部の人が「丸善の魯庵」としてその名を知る程度であろうか。
 魯庵は、明治から昭和はじめにかけての高級知識人であり、オールラウンドの文筆人である。古今東西なんでも読んでなんでも知っているというほどの博識、くわえてその文章は軽妙にしてエスプリに富む。本好きにとってはつきぬ魅力のある人だ。
 これは、その魯庵の詳細な評伝である。著者は長年魯庵を研究しておられるかた。洪水の如くでてくる多くは粗製濫造の本のなかで、まれにこういう周到な準備の上に成った渾身の作に出あうと、ほんとうにうれしい。
 魯庵は、明治四年閏四月、江戸下谷のうまれである。その前年におなじ下谷で露伴が、また牛込で漱石がうまれている。同年うまれは美妙、透谷、蘆花など。慶應四年は九月に明治と改元するから、魯庵は明治の年数と年齢とがおなじである。
 十五歳のころから築地に下宿して立教学校に学び、また教会の聖書講義にかよってフルベツキにかわいがられた。いわば日本のなかの西洋に留学したみたいなものだ。この時期にイギリスの書物、特に文学書を多読する習慣を身につけた。同時に江戸文学を耽読した。これは魯庵だけのことではないが、西洋文学によって文学の何たるかを学び、その目で日本の文学をふりかえってみると、最も質の高いものは西鶴と近松であった。魯庵の教養の核心をなした二本柱はイギリス文学と江戸文学である。
 明治二十一年、処女評論「山田美妙の小説」を巌本善治の『女学雑誌』に発表、わずか二十一歳で一躍、石橋忍月とならぶ文芸評論のスターになった。といっても、この時代はみんな若いのである。忍月だってこの年二十四歳だし、そもそも魯庵の評論の対象になった美妙が魯庵と同年であることは上にいったとおりだ。なお忍月の評論の基盤はドイツ文学である。
 やがて巌本と考えがあわず『女学雑誌』をはなれ、徳富蘇峰の民友社にはいって『国民新聞』や『国民之友』を発表の場とした。
 この間明治二十二年に二葉亭四迷と知りあい、親友になっている。二葉亭は魯庵より四つ年上である。魯庵は友人の多い人だが、最も敬意をいだき、重んじた友人はこの人であった。
 明治二十五年から翌年にかけて『罪と罰』を翻訳刊行した。本邦初訳である。魯庵はロシア語はできないから英訳からの重訳だが、二葉亭の助力があったから部分的には原文を参照している。
 この本は、一面大成功、一面大失敗であった。「この書の反響はすさまじいものがあった」「巻之一の現れるや批評紹介をなすもの凡そ七十種」は大成功だが、かんじんの本は四百部ほどしか売れず、それでもがんばって巻之二は出したが巻之三はとうとう出せなかった、というほうは大失敗だ。当時の文芸界のせまさを端的に示す話である。
 しかしこれをきっかけに、アーヴィング、ヴォルテール、トルストイ、シルレル、アンデルセン、ポー、とつぎつぎに翻訳を発表した。すなわち二十代の魯庵は、文芸評論家兼翻訳家である。
 明治三十一年『くれの廿八日』を発表して小説家に転身。以後数年の魯庵は小説家である。
 同三十四年に書籍部顧問として丸善に人社。なにしろ魯庵はヨーロッパの書物についてよく知っている人である。無論文学書だけではない哲学、宗教、科学、音楽、美術、なんでも知っているし読んでいる。欧州諸国のおびただしい新刊書のなかから、重要なもの価値あるものを選んで仕入れをせねばならぬ洋書輸入専門店としては、こういう生き字引のような人がぜひとも必要だったのだ。 
 丸善にはいった魯庵はPR誌『学鐙』の編集をひきうけた。現在は、岩波の『図書』、新潮社の『波』など出版社のPR誌がたくさん出ているが、明治三十年創刊の『学鐙』が断然歴史がふるい。そしてああいうスタイルは魯庵が作り出したものなのだ。六年ほどまえから紅野敏郎さんが『学鐙』に、「『学鐙』を読む」と題する『学鐙』史を連載していて、そのときどきの『学鐙』所載の文章を完全に原文のままで読むことができる。ちょっと御推薦しておきます。
 明治四十二年に親友二葉亭が死ぬと、魯庵は文壇からしりぞいて随筆家、時評家になり、昭和四年六十二歳の死まで書きつづけた。この時期の魯庵について長子の巌さんは、「彼は夜店商人の如く、その雑学を絶えず自嘲を交へながら叩き売りした」と書いている。
 「日本最大の読書人」というのが、著者野村氏の魯庵総括である。
 (1994.8.1 毎日新聞「今週の本棚」)

『東京外語支那語部』

「東京外語支那語部」 (藤井省三著、朝日新聞社)

 のっけから私事で恐縮ながら――わたしは以前、二十年ばかりの間、中国語の教師をしていた。もうやめてだいぶになるが、今でも夜寝る時は、枕元で中国語のテープをかけておくと安らかな眠りにつける。中国語は美しい言語である。……
 ところがなかなか、そんな悠長なことを言ってはいられないのが、ここ百年ほどの、日本における中国語なのであった。わたしは昭和三十年代に東京飯田橋の中国語学校に入ったのだが、教室の壁には巨大なポスター、中国のたくましい労働者が目をむいて大きな拳骨をふりあげているのがはってあって、なんだか殺気がただよっているような雰囲気にたじろいだものだ。中国語を学ぶことはとりもなおさず社会主義中国を擁護することである――誰がきめたかそういうことになっていて、「響きの美しい言葉だから……」なんてとろくさいことを言うやつは、ほとんど身の置き場がないのであった。
 戦前は、ある意味ではその正反対、ある意味では似たようなことであった。明治以降、中国語は、中国大陸へ経済的・軍事的に進出して行こうとする日本人の活動の手段であり、日本帝国の政策が骨がらみになっていた。戦後は、その反省(あるいは反動)からあちらがわへの骨がらみになったわけで、どちらにしても政治が鳥モチのようにべったりくっついて離れない。日本における中国語は、不幸な言語だったのである。
 これは、その戦前の、政治に翻弄される中国語の浮沈の姿を描いた本である。著者の言う「東京外語支那語グループ」、すなわち明治大正期に東京外国語学校支那語部を卒業して中国語教師になり、あるいは教科書を作った人たち、およびその周辺の人たちが物語の登場人物であり、最も主要な人物は、東京外語教授神谷衡平、横浜高等商業助教授武田武雄、そして中国の作家巴金である。
 神谷衡平は、明治末に外語を卒業、大正末年から昭和初めにかけ、当時勃興してきた中国の新文学――胡適、魯迅、周作人等々の作品を全面的に取り入れた革新的な教科書をつぎつぎに作った人である。魯迅の日本への紹介が神谷ら外語グループによって先鞭をつけられたものであることを明らかにしたのは本書の功績の一つだろう。
 武田武雄は神谷の次の世代に属し、大正末に外語を出て新設横浜高商に任官、日中間の全面戦争が始まると、教師をやめ、志願して陸軍通訳になった。巴金は、昭和九年に来日してその武田宅に寄寓し、以後折にふれて武田の思い出を書くとともに、日本の中国語教科書、日本人の中国理解について発言している。こうした生身の人間の献身や困惑や怒りをつうじて、戦前日本の中国語の不幸な歴史が語られるのである。
 著者藤井氏の調査探索の広さ、確かさ、綿密さは、かねてわたしの最も敬服するところ、本書においてもそれは十分に発揮されている。そしてそれはたとえば、武田家の朝の紅茶から、わが国における紅茶生産の開始、日東紅茶の由来に説き及ぶ、といった本筋外の細部にまで行き届いていて、それがまたこの本の魅力の一つなのであるが、それは読者諸賢、直接本書に就いて御堪能ください。
(1992.10.26 毎日新聞「今週の本棚」)

『少女目にみゆ』

「少女目にみゆ」 (角田秀雄著 新評論)

 自分史を書くのが盛んだそうである。たのもしいことだ。
 昭和の日本は、目まぐるしい変化の六十数年であった。それをいろいろな場で経てきた人たちの、たくさんたくさんの自分史が要る。すくなくとも、わたしは読みたい。そしてそれは、できるだけ正確な、具体的なものであってほしい。
 無論これまでにも、自分史はあった。たとえば向田邦子さんのエッセイは、その全体が、昭和前半の日本の家庭と女の子を書いた最高の自分史である。わたしは(自分のまわりにも女の子はいくらもいたにもかかわらず)向田さんを読んで、ああ、女の子とはこういうものであったのか、と初めて知った気がした。読み返し読み返して、そのたびに感銘を深くする。向田さんが書き残した数々の文章は、日本の宝だとわたしは信じている。
 この角田秀雄さんの本は、向田さんより少し前、昭和ヒトケタの時期の、東京の男の子の自分史である。これもまたすばらしい出来だ。戦後ずっと朝日新聞の記者であったかただから、文章は達意にして流麗、純日本的抒情がしたたるようである。驚くべきはそのずばぬけた記憶力だ。齢七十になんなんとして幼少時の追憶を書き始め、昭和十一年小学校卒業時までで三百七十ページに達している。並の頭脳ではない。
 角田さんは、大正十二年八月生れ、生れた翌々日が関東大震災、というかたである。東京大森の上流サラリーマン家庭に育った。
 お父さんは東大農学部を出て味の素に勤める技師。神奈川県葉山の旅館「日蔭茶屋」の次男坊である。日蔭茶屋…、なんか聞いたことあるなあ、とお思いのかたもおありでしょう。そうです。神近市子が大杉栄を刺して全国的かつ歴史的に著名になった旅館である。今も、「日影茶屋」とちょっと字を変えて、つづいているそうな。
 お母さんは東京牛込の人で、結婚前の名は夏目千鶴子、と言えば、ははあと思い当たるかたも多かろう。さよう、漱石の姪である。父は夏目直矩。漱石には兄が三人あったが、二人は早世し、この直矩だけが残った。この兄を漱石が軽蔑し嫌悪していたことは作品のあちこちに見える。しかし姪は別で、次女の恒子さんと同級の仲良しだったこともあり、漱石に可愛がられた。漱石の死後、夫人と子供たちは千鶴子さんも加え毎夏を葉山の日蔭茶屋ですごした。それで日蔭茶屋の次男坊と漱石の姪が結ばれることになったわけである。
 このお母さんから聞いた、漱石門下の俊秀たちの話もおもしろい。女学生だったお母さんが一番好感を持ったのは「芥川さん」だった。夏目家のお嬢さんたちのあいだで最も評判がよかったのは「和辻さん」で、お嫁に行くなら和辻さん、と騒いでいた、等々。
 わたしはこの本を読みながら、しばしばみずからの幼時に思いを馳せた。たとえば、大森駅近くの踏切で牛をたくさん積んだ貨物列車を見て、翌日から踏切通いを始めるところがある。「ああ、ぼくは宇野線の早島駅だった。牛や豚の貨物列車が見たくて、日がな一日木柵の所で立っていたっけ」と思うのである。特に東京生れの人なら、そういう眠っていた記憶を誘い出されることがいっぱいあるにちがいない。
 この本を読んで感心することの一つは、人物が実によく書けていることだ。このお母さん、色白でひたいが広くて目がややひっこんでいて、背が低く豊満で日本舞踊も社交ダンスも上手なお母さんなんか、ほんとうに目に見えるようだし、その父、御一新で没落した町名主のあとをつぎ、才能も成功も輝かしいところは全部弟に持って行かれて、矢来町の暗い家の一間にうつろに坐って生涯を過ごした夏目直矩の姿も短い筆ながらみごとである。
 そして圧巻は、女中のとくや〔傍点〕である。とくやは、ねえやと言うより秀雄少年の親分だ。葉山の近在の漁師の娘で、頗る尚武の気象に富む。腰巻一つで海に飛び込み、秀雄少年に相撲の特訓をほどこす。メンコの技術を伝授し、チャンバラ映画につれてゆく。弱虫の子犬を近隣を圧する猛犬に育て上げる。わたしはとくや〔傍点〕の登場するくだりを読み返してあきることがなかった。
 最後に特筆大書しておきたいこと。角田さんはことばや文字を可能なかぎり忠実に再現しようとしておられる。ちいさな例を一つあげれば、『幼年倶楽部』ではなくて『幼年倶樂部』である。こういう心づかいがすみずみまでゆきとどいている。ありがたいことだ。
 角田さんはこのあとさらに、昭和二十年の敗戦までを書きつぐおつもりとのことである。必ずや昭和の記念碑の一つになるにちがいないと、わたしは確信している。どうぞ健康にお気をつけて――。
(1992.9.21 毎日新聞「今週の本棚」)

『中国ひとり旅』

 『中国ひとり旅 そこを何とか泊めて下さい』 (武田亨著 連合出版)

 世界中の「貧乏旅行者」が、いま中国の各地を流れ歩いている。彼らのことを「パックパッカー」と称する。「バックパック」というのは彼らがせおっているリュックのことである。男も女もいるが、たいていはわかく、そしておおむね一人旅であるらしい。彼らは安い旅館の「ドミトリー」(相部屋)に泊まり、汽車の「硬座」(二等車)か「硬臥」(二等寝台)、もしくはバスをのりつぎ、大衆食堂で食事し、たがいに情報交換しながら、一にも安く、二にも安くをモットーに旅行をつづける。
 こうした青年たちの出身国は多くは西側先進諸国で、行き先は、以前は中近東や東南アジアがおもであったが、近年は俄然中国がはやり出したもののようである。
 武田亨『中国ひとり旅 そこを何とか泊めて下さい』(一九八七年、連合出版)は、そうした中国バックパッキングの記録である。
 「そこを何とか泊めて下さい」という、副題ともコピーともつかぬ一句が、中国貧乏旅行の一番の難点を、おかしくもピタリと言いあらわしている。中国の旅館の受付は、宿泊申込者に対して、なにはともあれまずは「没有」(ない)とことわるのである。もちろんベッドはたいていはあいているのであって、「没有」と言われた時点から、虚々実々、丁々発止のやりとりがはじまるわけだ。
 著者の武田さんは、一九五一年生まれ、七三年に明治大学を卒業、五年間都立高校の先生をしたのち、一九八二年に貧乏旅行に出た。ネパール、インド、パキスタン、イラン、シリア、ヨルダン、トルコと、バックパッカーの花道をちょうど一年かけて歩き、一九八三年五月、香港から中国に入り、広州から北京、大同、包頭、蘭州、敦煌、ウルムチ、トルファンなどを二か月かけてまわった。
 英語ができるが、中国語は全然できない。中国の人と意思の疎通をする際には、まず、ノートに「我、日本人、旅人」と書いて示したそうである。それで英語も日本語もわからない旅館の受付を相手に宿の交渉をするのだから摩訶不思議であるが、パックパッカーというのは概してそういう摩訶不思議な技倆を身につけているものらしい。
 さて、この本は、わたしにとってたいへんおもしろかった。いい本であった。それはこの本が、パックパッカーたちについて、あるいは彼らが見た中国について教えてくれたから、というだけではない。
 わたしは、この本を読んで、心を洗われるような思いをした。武田さんのすなおさ、やさしさ、心のゆたかさに打たれた。
 たとえば最初に入った広州の旅館勝利賓館で、武田さんは、四階の女性服務員たちとたちまち仲よしになってしまう。わたしの経験によれば、中国のホテルの、特に女の服務員というのは、おおむね、つっけんどんで無責任で、愛嬌のカケラも色気のカケラもない連中なのであるが、武田さんの前では、彼らはけっこう人間らしい、いやそれどころかとっても可愛い女の子の本性をあらわしてしまうのだ。
 武田さんは、彼女らと再会を約して内陸へ旅立ち、一か月後にまた広州へもどってきた。そして勝利賓館の受付で、例によって「部屋はない」「そこを何とか」の一時間にわたるすったもんだとなり、ついに最後の奥の手、ノートに「日中友好二千年的歴史、我是友好四階服務員!」と書いて示した。かくてめでたく四階のベッドにたどりつき、この中国旅行の最後の二日間を「洗濯やアイロンがけや風呂場洗いなど、かいがいしく働く彼女たちのそばに腰かけてのんびり楽しく過ごした」という。
 この美しい風景は、もちろん、なによりも武田亨さんの人がらに負うものであることは言うまでもない。
 しかしもう一つわたしは、こんなふうにも思うのだ。――中華人民共和国建国後の日本人の中国レポート、ないしその中国観は、これを「バラ色のウソの時期」、「幻滅と憤りの時期」、そして「白紙の時期」の三つにわけることができる。そして武田さんなどは、よけいな先入観のない、しあわせな「白紙の時期」に属するのではあるまいか、と。
 わたしなどは「幻滅と憤り」の世代に属するのであるが、これはあたかも、勝手に美人と思いこんでいた女が実はブスとわかって「だまされた!うらぎられた!オレの半生をどうしてくれる!」と怒り心頭に発し、もしくはそのうらがえしでひどく冷笑的になり、そのうえおせっかい至極にも「こんなブスでこの先いったいどうするのだ!」と悲憤慷慨している中年男みたいなものなのであって、これでは人に好かれるわけがないのである。
 そこへゆくと武田さんなど若い人たちは、何の予断も心理的葛藤もなく中国へ行き、腹の立つことがあっても「それでも社会主義か!」などとヤボは言わず、苦笑とあきらめを含んだ寛容でふんわりと包んでしまう。そういう人には中国のあちこちですばらしい出会いがつぎつぎに待っており、それがまたわたしなどのようなヤヤコシイおっさんの心をもろに打つ、ということなのではあるまいかと思うのである。
    (独断・中国関係名著案内(10) 『東方』1983年2月号)

『この流れの中に』

「この流れの中に」(木下富砂子著 沖積社)

 大正うまれの一婦人の自伝である。北九州市の自分史文学賞受賞作とのこと。
 正直言って、しろうとさんの書いたものだからまあたいしたことはなかろうと、さして期待もせず読み出したのだが、これがおもしろかった。
 まず材料がいい。つまりこのかたの経歴そのものが、変化に富んでいておもしろい。
 つぎに、文章が書ける。これがだいじのところですね。変化に富んだ経歴をもつ人はいくらもあるが、文章が書けなければしようがないわけだから。
 佐世保にちかい炭鉱住宅の長屋で七人きょうだいのかしらとして育ち、高等小学校を出て呉服屋の女中になったが、商品の浴衣地を盗んでたちまちクビ。
 ここがまずおもしろかった。お店の品を盗んだりしたらどんなに叱られるかと思えば、店の奥さんはまったく何も言わない。だまって親を呼んで、つれて帰らせる。女中のなり手など掃いて捨てるほどいるんだから、手癖の悪い娘の不心得を諭してまで使うことはないのだ、とある。なるほど、と感心した。
 つぎに芸者の卵になったが、一年でダウン。
 昭和十一年十六歳の時、仲のいい友だちといっしょに家出して、博多でおでん屋の女中になり、ついでキャバレーの女給になる。
 この民子という友だち、これがずっと主人公と行をともにするのだが、なかなかよく書けている。大柄で、よく言えば鷹揚、わるく言えば少々鈍感でノーテンキ、あきっぽくてこわいもの知らずの娘である。
 昭和十三年のはじめに海を渡って奉天のダンスホールに移ったが、ここで大病、やっとなおってまたおでん屋、ただしこんどはもちろん奉天のおでん屋から再出発し、ついでキャバレー。このキャバレーが河北省の石家荘に将校相手の支店を出すというので志願して行き、昭和十四年春、そこからさらに山西省太原のキャバレーへ。―だいたいこのあたりで、自分史募集の制限枚数いっぱいになったらしい。これから将校あがりの戦地ビジネスマンと結婚し、三人の子を生み、夫が再召集されてソ満国境へおもむいたあと敗戦をむかえるくだりは、わずか二ぺージでかたづけてある。まことに惜しい。
 この人は、人物を描き出すのがうまい。
 たとえば博多のおでん屋で店をきりもりする梅子という三十女。有能で働き者で、新入り女中に対してはきつい。
あるいは、主人公らを奉天へつれて行ってくれた田中という客。風采のあがらない小男で、金ばなれがよく、気さくで親切だがまたいたって淡泊でもある。
 実際の人生は小説とはちがう。この田中という男など、作者の人生に一大転機をもたらした人物だが、奉天へついたらそれきり姿をあらわさない。しいて小説めかして作ってないところがいい。実人生における人との出会いはかくのごとく、多くのばあいそういつまでも因縁がからまるものではなく、一時期交渉があると、まもなく車窓の風景のように背後へ過ぎ去ってゆくものなのである。
せひ、二ぺージでかたづけた部分を一冊に書いてもらいたい。結婚してからの、開封、徐州などでの生活のほうが、いっそうおもしろくなりそうだ。
 『この流れの中に』というタイトルはあまりにも無内容である。何のメッセージもない。このつぎはもうすこし気のきいたタイトルを考えてもらいたい。
 紋切型の表現を便わないこと。この本の特に前半、「不況の嵐が荒れ狂う」「滝のような汗」「食い入るように見つめる」「蒸し風呂さながらの暑さ」等々にはほんとにガッカリする。たとえば博多の市内電車の車掌の姿態など、短くてもピカリと光る描写ができるのに、どうしてこんな手垢のついた形容にたよろうとするのか。やめましょうね。
 続篇、ほんとに期待してます。
(熊本日日新聞 1996.年2月18日)
プロフィール

たかしまとしお

Author:たかしまとしお
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