『この流れの中に』

「この流れの中に」(木下富砂子著 沖積社)

 大正うまれの一婦人の自伝である。北九州市の自分史文学賞受賞作とのこと。
 正直言って、しろうとさんの書いたものだからまあたいしたことはなかろうと、さして期待もせず読み出したのだが、これがおもしろかった。
 まず材料がいい。つまりこのかたの経歴そのものが、変化に富んでいておもしろい。
 つぎに、文章が書ける。これがだいじのところですね。変化に富んだ経歴をもつ人はいくらもあるが、文章が書けなければしようがないわけだから。
 佐世保にちかい炭鉱住宅の長屋で七人きょうだいのかしらとして育ち、高等小学校を出て呉服屋の女中になったが、商品の浴衣地を盗んでたちまちクビ。
 ここがまずおもしろかった。お店の品を盗んだりしたらどんなに叱られるかと思えば、店の奥さんはまったく何も言わない。だまって親を呼んで、つれて帰らせる。女中のなり手など掃いて捨てるほどいるんだから、手癖の悪い娘の不心得を諭してまで使うことはないのだ、とある。なるほど、と感心した。
 つぎに芸者の卵になったが、一年でダウン。
 昭和十一年十六歳の時、仲のいい友だちといっしょに家出して、博多でおでん屋の女中になり、ついでキャバレーの女給になる。
 この民子という友だち、これがずっと主人公と行をともにするのだが、なかなかよく書けている。大柄で、よく言えば鷹揚、わるく言えば少々鈍感でノーテンキ、あきっぽくてこわいもの知らずの娘である。
 昭和十三年のはじめに海を渡って奉天のダンスホールに移ったが、ここで大病、やっとなおってまたおでん屋、ただしこんどはもちろん奉天のおでん屋から再出発し、ついでキャバレー。このキャバレーが河北省の石家荘に将校相手の支店を出すというので志願して行き、昭和十四年春、そこからさらに山西省太原のキャバレーへ。―だいたいこのあたりで、自分史募集の制限枚数いっぱいになったらしい。これから将校あがりの戦地ビジネスマンと結婚し、三人の子を生み、夫が再召集されてソ満国境へおもむいたあと敗戦をむかえるくだりは、わずか二ぺージでかたづけてある。まことに惜しい。
 この人は、人物を描き出すのがうまい。
 たとえば博多のおでん屋で店をきりもりする梅子という三十女。有能で働き者で、新入り女中に対してはきつい。
あるいは、主人公らを奉天へつれて行ってくれた田中という客。風采のあがらない小男で、金ばなれがよく、気さくで親切だがまたいたって淡泊でもある。
 実際の人生は小説とはちがう。この田中という男など、作者の人生に一大転機をもたらした人物だが、奉天へついたらそれきり姿をあらわさない。しいて小説めかして作ってないところがいい。実人生における人との出会いはかくのごとく、多くのばあいそういつまでも因縁がからまるものではなく、一時期交渉があると、まもなく車窓の風景のように背後へ過ぎ去ってゆくものなのである。
せひ、二ぺージでかたづけた部分を一冊に書いてもらいたい。結婚してからの、開封、徐州などでの生活のほうが、いっそうおもしろくなりそうだ。
 『この流れの中に』というタイトルはあまりにも無内容である。何のメッセージもない。このつぎはもうすこし気のきいたタイトルを考えてもらいたい。
 紋切型の表現を便わないこと。この本の特に前半、「不況の嵐が荒れ狂う」「滝のような汗」「食い入るように見つめる」「蒸し風呂さながらの暑さ」等々にはほんとにガッカリする。たとえば博多の市内電車の車掌の姿態など、短くてもピカリと光る描写ができるのに、どうしてこんな手垢のついた形容にたよろうとするのか。やめましょうね。
 続篇、ほんとに期待してます。
(熊本日日新聞 1996.年2月18日)

『幕末 写真の時代』


「幕末 写真の時代」(小沢健志編 ちくま学芸文庫)

 わたしは、自分の幼時の写真が二枚ある。
 一枚は三つくらいの時のもので、大きなハーケンクロイツのついたナチまがいの洋服を着て、鉄砲を手に、キョトンとした顔でうつっている。七五三の時か何かなのだろう。
 もう一枚は国民学校に入った時のもので、学童服を着て頭に大きな帽子をのせ、直立不動、おそろしく緊張した顔をしている。
 どちらも昭和十年代、もちろん写真館でとったものである。はじめての子なので、節目には親が写真をとりにつれて行ったのだ。
 われわれ、現在〔1996〕六十歳代以上の者が子供のころのふつうの家では、写真をとる、というのは、一家の一大事であった。その大騒ぎのようすは向田邦子さんの『父の詫び状』、「記念写真」によくえがかれている。昭和十五年の冬、鹿児島で一家七人の写真をとった時のことを書いたものである。
 それからさらに七十年以上前、幕末から明治はじめとなると、写真はいよいよ重大事であった。なにしろ写真をうつすと魂をすいとられて寿命がちぢむ、と信じている人がすくなくなかったころである。
 それに、十分くらいのあいだじっとしてないといけなかった。顔がうごかないように「首おさえ」というものでうしろからささえた。難行苦行である。それでも、肖像画をかいてもらうことにくらべれば「アッというま」と感じられたことだろう。
 金もかかった。初期には、いまの金にして一枚十万円くらいしたようである。それを、高価な額縁に入れてだいじに保存した。
しかし新しいものずきの日本人は当時でもけっこうよく写真をうつした。坂本龍馬が写真ずきであったことはよく知られていよう。各地のお殿様にも写真ずきは多かった。資金を出し、臣下に命じて研究もさせた。
 この本は、それら幕末(一部明治はじめ)の写真のなかから約二百枚を厳選しておさめ、説明をつけたものである。
 感心するのは、鮮明にうつっている、というだけでなく、どれも芸術作品としてすばらしいことだ。人物ならば、うつすほうもうつされるほうも一世一代、よいものをのこそうとしたし、風景ならば、構図やアングル、あるいは季節や時間を考えぬいたのだろう。
 最初期の撮影者は日本にきた欧米の写真家である。ついで、上野彦馬、下岡蓮杖の幕末二大写真家をはじめとして、すぐれた日本人写真家がつぎつぎにうまれてくる。いずれにせよ、いまのようにしろうとが簡単に写真をうつせる時代ではなく、写真家は日本に何人という高級技術者なのであった。
 写真とは何か。
 鏡の前に立つと、自分の像がうつる。立ち去れば、消える。
 もし、立ち去ったあとも鏡面に像をのこすことができたら…。それを実現したのが写真である。鏡だから左右は逆になる。きものは左前になるし、左の腰に刀をさしていれば、右にさしてうつる。複製はきかないから、あとにもさきにも一枚きり。これが初期の写真、ダゲレオタイプ(銀板写真)である。
 つい先日、七月四日の朝日新聞に、
 〈「日本人初撮影は漂流者!?」「『しんぱち』『こめぞう』ら4人 通説より3年前」「乱れた髪、よれよれ NYの古新聞から推定」〉
という、日本人最初の写真に関する大きな記事が出ていた。この「しんぱち」ら四人の写真はこの本にも出ている。逆に新聞には、本書の著者小沢健志さんの談話も出ている。双方てらしあわせると実におもしろい。
 わたしの本欄執筆は今回でおしまいにさせていただきます。最後の大サービス、本書を買い、朝日の記事も見たいが、図書館・販売店・知人宅その他で見る便宜のないかたは、あて名を書いた切手つき封筒を同封して直接小生にお申しこしくださればコピーをお送リ申しあげます。
 あて先は―〔省略〕
(熊本日日新聞 1996.年8月4日)

江戸の天才数学者

   鳴海風 『江戸の天才数学者 世界を驚かせた和算家たち 』 (新潮選書)

〈身分を超えて学術を楽しんだ人々〉

 江戸時代と現代とでは、社会における数学の位置がまったくちがう。
 現代の数学は、子どもが学校でいやいややらされるものであり、入試の苦手課目である。それが尾を引いて、おとなになって五十年たっても「数学」と聞いただけで拒絶反応を示す。はい、かく申す小生がそれであります。
 ところがこの本を読むと江戸時代はまるでちがうのですね。知的娯楽、ゲームであって、全国に数学ファンがいっぱいいる。今の碁・将棋にあたると言っていい。もちろんいやいややらされる者は一人もいない。
 この本には著名な数学者の名前がいっぱい出てくる。レベルも高かった。関孝和は「世界に先駆けて行列式やベルヌーイ数を発見」したとある。建部賢弘は「円周率の自乗の公式」をスイスのオイラーより先に発見した、と今の数式になおして示してくれているが、無論わたしにはチンプンカンプンです。
 わたしが名前を知っていたのは甲州犬目村の兵助である。百姓一揆の本によく出てくる。天保の大一揆の首謀者で、死刑になる寸前に逃げ、全国各地を逃亡した。数学を教えて逃亡の費用をかせいでいたとあるので、そんなことができるのかとかねて思っていたが、この本にはそういう「遊歴算家」が多く出てくる。つかまれば死刑、というのは兵助だけだけれども――。
 遊歴算家は「現代風に言えば、移動数学セミナーをおこなう有名大学の教授のようなもの」とある。大したものなのである。
 この本には主として山口和という人のことを書いている。今の新潟県の農村の生れで、江戸へ出て「数学道場」(有名な塾の名)に学び、ここで一二を争う実力を身につけて、遊歴算家になった。奥羽から九州まで全国をまわっている。
 今の宮城県あたりで千葉胤秀という数学者にあった。門弟三千人という実力家である。四日にわたって議論した。結果、山口和のほうが力が上とわかった。千葉胤秀は十も年下の山口和に、弟子にしてほしいと頭を下げた、とある。実力だけの世界なのである。胤秀も立派だ。山口和は、江戸へ行って数学道場で学びなさい、とすすめた。胤秀は言われた通り江戸へ出て学び、十数年後、数学道場版として『算法新書』という「後世に残る名著」を出版している。
 山口和や千葉胤秀は農村出身の人だが、一方有馬頼徸という数学者は、九州久留米藩の藩主、つまり大名である。子どもの時から数学が好きで、関〔せき〕流の学者(幕臣)の門人になった。
 このお殿様学者の生地について「久留米城で生まれた」とあるのは不審に感じた。大名は参勤交代するが妻子は幕府の人質だから江戸常住である。「入〔いり〕鉄砲に出女〔でおんな〕」で大名の奥方は江戸を出られない。国元の妾が生んだ子のようでもない。江戸で数学を学んだことはたしかである。藩主になってからも多くの数学書を著わした。数学の世界に身分はない。
 ただ、主流の関流は家元制度をとり、高度の数学は秘伝として公開を阻んだ。上にわたしが名をあげたのはみなそれに反対した人たちである。有馬のお殿様も、関流に学んだけれども学術の公開を主張し実践した人であった。
(『文藝春秋』’12.11)

江戸の読書会

   前田勉 『江戸の読書会 会読の思想史 』 (平凡社選書)

〈身分と勝敗が衝突する知的な「遊び」〉

 若いころから、ずいぶん読書会はやってきた。「この本をいっしょに読もう」と仲間があつまって読む。規約などうるさいことは何もない。途中から加入する者もいるし、来なくなるやつもいる。すべて自由である。読むのは外国語のものだから下調べして行って、順ぐりに読んで訳したり説明したり質問したりしながら進んでゆく、というふうである。
 しかし、日本人はいつからこういうことをやっているんだろう、なんて考えたことはなかった。
 この本は、その昔の読書会について書いたものである。昔は「会読〔かいどく〕」と言ったのですね。
 始まったのは京都の伊藤仁斎〔じんさい〕の学塾と江戸の荻生徂徠〔おぎうそらい〕の学塾、特に後者がきっかけで全国に広まったとあるから十八世紀である。読むのは儒教の経典である。やりかたはわれわれの読書会と大差ない。ただ、多くのばあい先生がいる。先生はみんなの解釈や討論を黙って聞いていて、最後に優劣を判定し、採点する。
 著者は、会読を主要学習形態とする日本の学問が、世俗の名利と結びつかない「遊び」であったことをくりかえし強調する。中国・朝鮮では、学問は高官位高収入に直接つながるものであったのだから、これは根本的な相違である。この、純粋に「遊び」であるという点は今の読書会と同じである。
 大いにちがうのは、昔の会読は激烈な「競争」の場であった、という点だ。うまく読めた者は席順があがり、読めなかった者は席順がさがる。寄宿寮では寝場所までちがってくる。会読は、遊びのなかでも、勝ち負けを争う遊びである「アゴーン(競争)」であったのだ、とある。
 ややこしいのは、江戸時代は身分制社会だったことだ。身分のあつかいは私塾と藩校とでよほど違う。私塾は、生徒の入学時の年齢・学習歴・身分の違いをゼロにして、ヨーイドンで競争を始めさせる所が多い。武士と庶民さえ一応対等ということになる。藩校はそうはゆかない。家老の子もいれば下士の子もいる。身分が物を言う。
 この本には福沢諭吉がよく引用されるが、福沢は、身分は低いが学校で会読となれば「何時〔いつ〕でも此方〔こっち〕が勝つ」と言っている。身分の上下と会読の勝ち負けとが衝突するのである。
 西洋の学術が入ってくると、会読は消滅した。その初めは幕末の文久三年(一八六三)に医学所頭取となった松本良順である。それまでは、学生がオランダ語の医書を読んで、これは前置詞だとか接続詞だとかやかましくやりあうのが医学所の勉強だった。遊び・競争である。医術とは全然関係ない。
 良順はそういう勉強を一切禁止し、頭取が一方的に、理化学、解剖学から始めて内科学・外科学まで系統的に講義し、学生はそれを聞いて記憶する西洋式のやりかたに改めた。確かにそうでなくては近代的医師は養成できないが、役人は教室が急に静かになったので良順に苦情を言ったそうだ。
 明治以後の学校は皆西洋流・松本良順式で、知識を系統的に教える。
 われわれの時代の読書会は、自発性・対等性など昔の会読と似た所もあるが、勝負の要素はない。会読の伝統とは断絶したものであったようだ。
(『文藝春秋』'13.2)

天下無敵のメディア人間

   佐藤卓己 『天下無敵のメディア人間 喧嘩ジャーナリスト・野依秀市 』 (新潮選書)

〈「言論界の暴れん坊」と異名をとった男の生涯〉

 傑作『「キング」の時代』(岩波書店)でメディア史のおもしろさを広汎な読者に知らせた佐藤卓己さんが、またまた、飛びきりのメディア人間野依秀市〔のよりひでいち〕の明治から昭和戦後にまでまたがるハチャメチャな活躍を、見事に描き出す本を書いてくださった。
 「広告媒体(メディア)」は第一次大戦中にアメリカで生れた言葉である。野依秀市のメディア活動はその前から始まっている。
 大正デモクラシーの時代は、日露戦後、明治40年ごろから始まる。民衆の時代であり、広告の時代である。一人の賢者の知遇を得るより千人の愚者に名を知られるほうがずっと値打ちがある。野依はこの時代のトップバッターである。
 野依は広告取りの達人である。広告取りはユスリと紙一重である。
 一方、野依がその長い広告人生で売り広めた商品は「野依秀市」であった。野依秀市の知名度があがれば金はいくらでも入る。入った金で野依秀市を売る。時代を先取りしていた。
 初めは、明治38年20歳、慶応の商業夜学校生の時に友人と作った『三田商業界』というごく小さな雑誌である。小さいが広告は有名大企業からうまく取ってくるから金はもうかる。
 雑誌の呼び物は各界著名人の放談であった。初め、慶応出身の著名人から名刺を1枚もらう。同じものを多数印刷して表に「この者は前途有望の青年です。引き立ててやって下さい」と書いて著名人に会い、談話を取って大きくおもしろく書き、紹介状をもらってまた別の著名人に会う。つまりイカサマだが、だれもが野依に好意を持ったというから、トクな人柄なのである。
 3年後に『実業之世界』と誌名を変えたころには、各界著名人――財界の大御所渋沢栄一、早稲田総長(首相)大隈重信、文壇の大家三宅雪嶺等々が後楯につき、発行部数も数万部に達していた。
 野依は数百冊の著書を出したが、皆他人に書かせたものである。書き手はたいてい堺利彦、山川均など一流の社会主義者だから、文章も達者だし、社会批判や資本主義批判も鋭く、よく売れる。「おれの本はみな人に書かせたものだ」と威張るその文章も堺などが書くのである。雑誌も、そのものズバリの『野依雑誌』など数多く出した。
 しょっちゅう恐喝罪で監獄に入る。その際は東京の一流の会場に各界著名人多数を招いて盛大に入獄歓送会を催し、はなばなしく入獄する。出獄の際も同じ。そして大々的に獄中記を発表する。弁護士は常に名の売れた人権派弁護士が何人もついている。
 どこにでも誰にでも喧嘩を売る。政府、大臣、大企業、有名人、いっさい容赦しない。特に昭和初年の軍部攻撃はすごい。あの時代に野依ほど正面から軍を批判した者はいない。
 と言って、左翼というわけではない。「敵本位主義」だから、右を叩く時は左、左を叩く時は右である。軍部を攻撃する時は天皇をかついだ。
 戦争中は「米本土空襲」を看板に、東条英機首相の非科学性と言論圧迫に敢然と刃向かって見せた。
 メディアのおもしろさと怖さを生身で体現した一種天才人物の生涯とその時代が目に見える1冊である。
(『文藝春秋』’12.7)
プロフィール

たかしまとしお

Author:たかしまとしお
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