パン屋さん削られる (2)

 毎度申す通りわたしは兵庫県西南部の造船の町で育った。かりに日本全土を大きく「都市部」と「農村部」とにわけてどっちかに入れるとすれば、都市部のほうに入るだろう。学童疎開するほどの都市じゃない。けれども一丁前にアメリカの飛行機が来て爆弾を落した。結果的には米軍機が爆弾を落したのは造船所だけで、周辺の見すぼらしい民家地域には落してくれなかったけどね。
 だけどその時にはそんなことはわからないから、警報が鳴るたんびに防空壕へ逃げこんでいた。
 警報は二段階ある。アメリカの飛行機がこっちへむかっている、という段階で鳴るのが警戒警報でこれはサイレンが長く鳴る。いよいよここの上空だという段階で鳴るのが空襲警報でこれはサイレンが断続的に鳴る。切迫感がありました。
 警報はいつ鳴るかわからない。アメリカさんの都合ですからね。夜中に鳴ると起されて防空壕へ逃げこまなきゃならない。そのために寝る時も昼間の服装のままで、防空頭巾を首からかけて寝ていた。
 昼間学校にいる時に鳴り出すこともある。その時は警戒警報が鳴り出した途端、教室で授業中だろうと何だろうと、飛び出して一人々々ばらばらに、家にむかって走る。ふだんからそうするように先生に教えられている。それはもっともです。学校にかたまっていてそこへ爆弾が落ちたら何百人が一ぺんに死ぬ。八方へばらばらに走っていれば被害が分散される。
 走っている途中で空襲警報に変ったら、すぐ手近の土塀の根っこの所とか橋の下とかで伏せる。これもしっかり教えられている。防空頭巾をかぶり、両手親指で両耳たぶを前に倒しておさえ、しっかりつむった両目を四本指でふさいで、うつぶせに地面にびったり伏せる。十分なり二十分なりたって米軍機が上空を通りすぎたら警戒警報に変る。立ちあがってひきつづき走る。警戒警報の解除はサイレンではなく、メガホンを口にあてた人が「警戒警報解除!」と大声で叫びながら隣保内を走る。解除になってもその日はもう学校へ行かなくていい。そう決っている。
 警戒警報は、米軍機が関西中四国方面へむかっている、というくらいの段階で出るんだからわりあいよくある。たいがいは神戸へ行ったり姫路へ行ったり岡山へ行ったりしてわが地域の上へは来ないのだが、最初の警報が鳴り出した段階で逃げて帰ってその日はもう学校へ行かないんだから、まあ当時の子どもはろくだま学校での勉強なんかしてない。だからと言ってわれわれの年代の者が前後と比べて特別知識が劣るという話も聞かない。だれか言っているかな?
 こんな歌をおぼえている。何年生の時に習ったのか忘れたが、戦争中であったにはちがいない。
 一番から三番まであって、一番は「太郎よ」と始まる。二番は「花子よ」と始まる。三番はこうである。

  太郎よ花子よ 日本【につぽん】の子
  丈夫で大きく強くなれ
  二人がおとなになるころは
  日本【につぽん】も大きくなっている
  子どもよ おとなをこえてゆけ

 最初に引いた毎日新聞の、「パン屋さん」を放逐した連中は、みな戦後生れだろうからこんな歌は知らないだろうが、こういう、日本が大きくなろうとし意気盛んだったころを、よかった、と思い、いま一度、と思っているのだろうか。多分そうなんだろうね。

パン屋さん削られる (1)

 小学校一年生の教科書からパン屋さんが削られた、という記事が、毎日新聞'17・4・5の一面トップに大きく出ていた。見出しは大きく四つ、
   〈道徳教科書「和菓子屋」に変更〉
  〈パン屋さん、外され憤慨〉
  〈国愛する態度にそぐわず 検定意見〉
  〈教育右傾化、懸念も〉
 教科書の修正前と修正後が図版で出ている。小学一年生から横書きなんですね。ひらかな文だが「パン」はカタカナ。最初の行だけ左に引きます。
  修正前。〈よいにおいがしてくるパンやさん。〉
  修正後。〈あまいにおいのするおかしやさん。〉
 なぜ「パンやさん」はいけないのか。記事に引用されている文科省の検定意見はこうだ。
  「学習指導要領に示す内容(伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度を学ぶ)に照らし扱いが不適切」
  「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つことの意義を考えさせる内容になっていない」
 パンが、あるいはパン屋が、日本の伝統と文化にあわない、というのか。ごろつきの言いがかりだ。
 毎日新聞がびっくりして、こりゃたいへんだ、と一面トップの大きな記事にしたのももっともである。「パンやさん」にまで国家がイチャモンをつけてくるとは思いもよらなかった。
 修正後の一年生教科書を見ると「これは、にほんのおかしで、わがしというんだよ」と「にほんのおかし」が、つまり「にほん」という語が出てくる。一年生から「日本」を教えようと言うのか。パン屋さんでは「日本」が出てこないから「不適切」なのか。
 ゾッとしたね。敵はどんな所から攻めてくるかわからない。どこからでも来る。この場合は毎日新聞が気づいて大きな記事にしてくれたが、われわれの知らないさまざまな方面でジワジワと来ているのだろう。

 わたしは昭和十二年(一九三七年)一月の生れである。同十六年十二月に米英との戦争が始った時は満四歳と十一か月ということになるが、何もおぼえてない。四か月後十七年の四月に幼稚園に入った。その四か月の間に、母なり近所の子なりからアメリカと戦争していることは聞いただろう。幼稚園では「ぼくは軍人大好きだ」「鉄砲かついだ兵隊さん」「兵隊さんのおかげです」などの歌を次々習った。
 翌十八年の四月に国民学校にあがった。先生に「男の子は体をきたえて強い兵隊さんになりましょう。女の子は強い兵隊さんを生む強いお母さんになりましょう」と教えられたのはよくおぼえている。

 われわれが子どものころは、学年が少しちがうと経験がずいぶんちがった。大ざっぱながら、だいたい六学年くらいをひとかたまりとして見るとわかりやすいかもしれない。
 昭和七年(一九三二年)生れぐらいから十三年生れくらいがひとかたまりである。戦争の先行きがきびしくなってきた同十九年の後半ごろ、国民学校初等科の一年生から六年生くらいである。これよりあとの生れの者は戦争中にはまだ母親の附属物で、手を引かれたり抱かれたりしている。
 これより前の昭和ヒトケタ生れの六学年ほどは、男の子も女の子も工場などに動員されて兵器の部品作りの末端の、自分たちのやっていることがどういうモノになるのかもわからないヤスリがけなどをやらされている。この年代は男の子も兵隊に取られるほどの年齢には達していないが、それなりに国家の役に立っている。空襲の際に自分の身を処するくらいのことは十分できる。その上は、男なら兵隊に取られ、女は銃後を守る年代である。
 これを年の順に上から並べると十九年後半ごろだいたいこうである。
 ①男は兵隊、女は銃後の守り。大正生れ。
 ②十代後半。昭和ヒトケタ生れ。男女とも銃後の生産活動。
 ③母親の附属物でもなく生産活動にも役立たない国家の厄介者。国民学校初等科生徒。わたしはこの年代である。
 ④幼児と赤んぼ。母親の附属物。
 右③の厄介者のうち特に厄介だったのが都市部居住児である。米軍の空襲の際そこらでマゴマゴされては大人が迷惑する。農村部の少年少女なら小さいなりに畠仕亊の役に立つ。われわれが子どものころは特に年に二回の繁忙期には「農繁休暇」と言って学校全体が数日休みになった。が、都市部の子はそんな役にも立たない。――あとで言うようにわたしが育った所は造船の町で、どっちかと言えば都市部に入る。同級生に農家の子はいなかった。しかしふしぎなことに「農繁休暇」があったのである。役所のやることはわからない。農家の繁忙期というのは田植えと稲刈りだったのだろうか。どっちにしてもわれわれにとってはうれしい「学校休み」であった。
 もとにもどります。戦争中右の③の都市部の子に限って国家がまとめて面倒を見ることにして、「学童疎開」が行われたのである。都市から追い出して一件落着、というわけにも行かぬ。交通機関の面倒、受入れ先の面倒、そこでの食いものの面倒なども見ねばならぬ。人数が多いから大騒ぎになったのである。
(つづく)

地方新聞 (2)

 わたしの母は戦後わたしに、戦争中の生活の苦しかったことを時々語ったが、子どもたちの口に入れるもの、着せるものの苦労は当然としても、名をあげて怨みを言ったのは新聞屋だけであった。小さな町だから新聞屋は一軒だけであり、これが全権を握っているのだから公的機関に近い。
 わが家は昔から朝日新聞を取っているのだから権利があるのだが、それでもうかうかしていると取りあげられかねない。時々は畠の物などを持って、ひきつづきよろしくお願いします、と頭をさげに行かなければならない。あの石原の新聞屋の親父は、ふんぞり返って、あんたの所が新聞を取っていられるのはおれのおかげなんだと恩着せがましく言う。ありがとうございます、とひたすらおじぎをくり返すほかない。
 そんなにあっちこっちから新聞を取る権利を取りあげたら、困るのはかえって新聞屋のほうじゃないか、と思うが、おばさんたちは皆、この人のごきげんをそこねたら大変、と何か持って頭をさげに行っていたのだろう。もちろん、当時は世の中のことを知るニュースソースがほぼ新聞に限られていたからである。
 なお、戦後よほどたってから書かれたものを見ると、戦争中ラジオはかなり普及していておおむね全世帯の半分近くの家にあったと書いてあったが、ほんとうだろうか。わたしが子どものころ近隣の家にはたいてい子どもがいて遊びに行ったが、ラジオのある家というのはなかった。裏の中村さんの家には把手をぐるぐる回す蓄音器があって、どこで歌を唱っているのか不思議にたえなかったのをおぼえている。声の出る器具と言えばそんなものであった。ラジオは、三宅さんという老夫婦だけの家にあったことが、昭和二十年八月十五日の昼に近隣の主婦が皆三宅さん宅に集められたのでわかった。

 戦後、新聞はふえた。これは一つには、軍が大量にためこんでいた紙が放出されたせいらしい。言論の自由の影響も大きいだろう。
 ところが一難去ってまた一難。テレビジョンというものができ、昭和三十年代ごろからだんだん普及すると、もう新聞は要らない、とやめる人があらわれたのだそうだ。
 わたしは昭和三十年(一九五五年)に大学に入って東京へ行った。あれはいつごろであったか、大学に入ってまもないころだったような気がするが、テレビジョンというものができて、新橋の駅前でやっている、というので、見に行った記憶がある。駅前にちょっと広い所があって、そこに、高い台を組んで上にテレビが置いてあり、何か映って動いている。その前に何百人というくらいの人がいて、テレビを見ている。わたしもその群に入って行って見た。
 画面に映像が写っていて動く、というのは映画と同じことで珍しくもないのだが、画像が電波で飛んでくる、というのがふしぎであんなに人が集まったのだろう。
 あのころのテレビは相当高価なものだったに相違ない。わたしはその後二十年ほど東京にいたが、テレビを持ったことはない。相撲は喫茶店へ見に行った。相撲や野球を喫茶店へ見に行くのは、当時の若い者のよくやったことである。喫茶店もテレビを客寄せに置いてあったわけだ。
 右のごとく、テレビのひろがりによって新聞が押される、という趨勢は昭和三十年代の後半ごろから(一九六〇年代ごろから)始まったらしく、以来半世紀になるわけだが、まだ全国で、中央紙以外に、百二十もの地方紙が生き残ってがんばっている、と知って、たのもしくも思い、またうれしくも思ったことであった。

 わたしは毎日コンビニへ行って新聞を買う。置いてある地方紙は「神戸新聞」だけである。兵庫県には他にどんな地方紙があるのだろう、なんて考えたこともなかった。たのもしくうれしく思った、とは言いながら、実はわたしも、がんばっている地方紙に対して冷淡な者の一人なんだなあ、と、このたびの毎日新聞記事を読んで、思ったことであった。

地方新聞 (1)

 先日の新聞に興味深い記事があった。毎日新聞'17・3・30。地方新聞のことを書いた、かなり大きな記事である。
 茨城県南部の「常陽新聞」が休刊する、ということから始まる。この件が終ったあと、「20年で30社減」という見出しの記事がある。「96年に全国で150社前後あった地方・地域紙(経済紙・業界紙除く)が、20年間で約30社減った」とある。
 これを見ておどろいた。いや三十社減ったのにおどろいたのではない。まだ百二十もの地方新聞が出ている、ということにおどろいたのである。全国の県の数は四十いくつくらいだろうから、だいたい一つの県に三つくらいもの地方新聞が今も毎日出ていることになる。
 「過去20年で姿を消したおもな地方・地域紙」のリストがある。そのなかに「岡山日日新聞」がある。記事中にも「11年「岡山日日新聞」が姿を消した」とある。
 わたしは昭和四十年代から五十年代ごろ、つまり一九六〇年代から七〇年代のころに岡山にいた。半世紀もの昔である。
 言われてみると、「岡山日日新聞」という新聞があったような気がする。しかし岡山県は断然「山陽新聞」の天下であって、病院などいろんな所へ行っても、おいてあるのは山陽新聞であった。
 わたしは若いころから中年にかけて日本のあちこちにいたが、どこにいる時にも新聞は中央紙(朝日、毎日、讀賣など)をとっていた。その土地のことをよく知らなかったからである。しかし医者などへ行くと、たとえば岡山なら待合所においてあるのは山陽新聞だから、山陽新聞を見ることはよくあった。
 だから、その当時からめったに目にすることのなかった岡山日日新聞が、'11年までがんばっていたことを知って、びっくりし、えらいものだ、と感心したのである。
 なおここ二十年になくなった新聞のリストを見ると、東日本のが多く、北海道の新聞が三つも含まれている。

 若いころ日本のあちこちにいたが、県紙がないようだなあ、と思ったのは滋賀県である。滋賀県は中央に大きく琵琶湖があって、わたしは湖西にいたが、湖西は「京都新聞」の範囲であった。湖東は「中部日本新聞」(「中日新聞」だったか?)の領域だったようである。
 鳥取にいたこともある。ここは鳥取県だけの新聞はなくて島根県とあわせての新聞だったように記憶する。名称は忘れた。鳥取県は県人口が日本一少いのだと聞いたような気がする。
 滋賀と鳥取を別とすれば西日本は県単位の新聞が多く、東北日本は一県を複数の地域に分割した地域単位の新聞が多いようである。

 昔(戦前)は、地方新聞が数多くあった。戦争(対米英戦争)が始まると、政府や軍が、こんなに新聞は要らない、地方新聞は一つの県に一つあればたくさんだ、と強引に合併させて、原則一県一紙にしてしまったそうだ。
 またそれも無理なかったらしい。昭和二十年ごろの新聞は、半ペラ一枚であった。紙がないゆえである。一県一紙にせざるを得なかったわけだ。
 従来から或る新聞を取っていた家は、ひきつづきそれを取る権利がある。わが家は前から朝日を取っていたから朝日を取る権利があり、実際取っていた。
 新たに取るのはダメである。だからたとえば若い男女が結婚して家をかまえたとしても、新聞は取れないわけである。ぜひ取りたければどこかのを回してもらうほかない。回せばもちろんその家は新聞が来なくなる。
 そこで取りたい家は、新聞屋に食いものを持って行ったり衣類を持って行ったりして懇願することになる。その贈り物が十分であれば、新聞屋はどこかの家のを取りあげて回してやる。新聞屋は権力者なのである。
(つづく)

鞍馬天狗 (2)

 加太こうじ『紙芝居昭和史』('71立風書房、現在岩波現代文庫)によると、わたしども子どもが見たような紙芝居、つまりおっさんが絵を見せながらひとくさり説明して、次の一枚を見せてまた説明して……という紙芝居ができたのは存外新しく、昭和五年なんだそうである。つい十年あまり前にできた新事物だったのだ。そして子どもをテレビに取られて紙芝居が衰退するのは昭和三十二年からだそうだから、紙芝居が盛んだったのは僅か三十年足らずなのである。加太さんはこの期間に紙芝居の絵をかいていた人なので、よくごぞんじなのである。
 紙芝居屋のおっさんの数は、昭和二十三年末に東京で三千人、二十五年に全国で五万人、とある。戦前・戦中にも全国で万をこえる紙芝居屋がいたに相違ないと思う。紙芝居の絵をかく人の收入は学校の校長先生より多かった、とある。
 この『紙芝居昭和史』には紙芝居の主題(主人公)も数々出てくるが、意外や鞍馬天狗はほとんど出てこない。僅かに一ヶ所、
〈似顔紙芝居というのは話の日本社で鳥居馬城が昭和六年頃からやっていたが、嵐寛寿郎の似顔の『鞍馬天狗』だけだった。〉
とたったこれだけである。
 紙芝居の主人公は数々出てくる。共通点は「正義の味方。強い」である。このかんたんな、しかし強烈な特徴をそなえた人物が活躍すれば、子供たちが集ったのである。鞍馬天狗ももちろん正義の味方で強い。
 右の短い引用部分によって、鞍馬天狗は映画が先であり、映画の天狗役アラカン(嵐寛寿郎)を模して紙芝居の鞍馬天狗ができたことがわかる。
 小川氏著によれば、大佛次郎の小説鞍馬天狗が最初に発表されたのは一九二四年(大正十三年)雑誌『ポケット』にのせた「快傑鞍馬天狗 第一話 鬼面の老女」で、その年のうちに映画化された。以後小説も映画も数十年つづく。映画で天狗役を演じた人も多く、この本には役者の名を列挙してある。しかしアラカンが多かったのだろう。
 わたしは幼時から本好きであったから、小説の鞍馬天狗も読んだに相違ないが、一つもおぼえていない。記録もない。
 映画も、記憶は一つもないが、さがしてみたら、記録が一つだけ見つかった。
 見たのは昭和二十六年九月一日、中学三年生である。午前中に二学期の始業式だけで、午後映画を見に行ったのだろう。
 所は住んでいた相生(あいおい)(兵庫県西南部)の映画館である。多分友だち何人かといっしょに見に行ったのだろう。鞍馬天狗はアラカン、杉作役が美空ひばりである。かりにこの映画の製作が昭和二十五年度とすると、ひばりは中学一年生である。ひばりは小学生の時から売れっ子歌手で、映画も小学生の時から出ている。この映画も、ひばりの杉作、というのが売りだったのだろう。
 左に、わたしの記録をそっくりそのまま全文引く。

 〈〔映画名〕角兵衛獅子
 〔監督〕大曽根辰夫
 〔主演〕嵐寛寿郎 美空ひばり
 〔場所〕相生館
 〔日〕九月一日
 〔あらすじ〕時は幕末、所は京都である。その頃、幕府を倒して、天皇に再び政権を戻そうとする者がぞくぞくと殺される。中でも特にネラわれているのが、通称鞍馬天狗である。数多くの志士の中でも、彼だけは捕え次第、ぎんみなしに殺していい事になっている。
  さてある時、彼は松月あんという寺で角兵衛獅子の杉作(ひばり)を助けた事から、新撰組に居所を知られ、殺されかけるが、杉作のおかげで助かり、角兵衛獅子の親方で目あかしの長七から子供たちを全部引き取って薩摩屋敷にあずける。鞍馬天狗は西郷から、大阪城へ志士の人名簿を取りに行く密使をおそって人名簿をとって来る事を頼まれる。そして新撰組のおとりに引っかかろうとするが、杉作が聞いていたので助かり、大阪城へうまくはいり込むが、ついに捕る。そして、水責めにされて今やという所を杉作にまた助けられる。やがて病気のなおった彼は近藤勇と一騎うちをして勝ち、江戸へ行く。
 〔テーマ〕幕末における志士、特に天狗の命を投げ出しての斗い。
 〔感想〕ひばりを杉作にしたのは面白いかも知れぬが、顔、声、身振りなどどう見ても女である。女が男になっているのだと知りつつ、映画に出て来る杉作は女だという観念は打ち消しがたい。
 これのロケは姫路の城でやっているので、ああ、あそこがあそこだ、あれはあすこだと、なかなか面白かった。ロケしているのを見に行ったらよかった。
プロフィール

たかしまとしお

Author:たかしまとしお
高島俊男「お言葉ですが…」ブログへようこそ!
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