姓は丹下、名は左膳 (2)

 今の国語辞典はこの「氏」の用法についてどう書いてあるのか、ちょっと手もとにあるものを調べてみた。普遍化した誤用を正用と認めてよいとの観点に明確に立つのは『大辞林』(三省堂)のみ。「人の姓名に付けて尊敬の意を表す。主として男子に用いる」として「山田太郎氏」と挙例してある。
 暖昧なのは『岩波国語辞典』『学研国語大辞典』『新明解国語辞典』で、岩波は「日本で、人の氏名の下に添える敬称」、学研は「ふつう、男子の姓名の下につけて敬意を表す」、新明解は「他人の姓名に添える敬語」とするものの、例としてあげてあるのは、安井氏、川上氏、藤原氏、源氏、平氏、足利氏、某氏、無名氏、等々ばかりで、説明と例とが合っていない。もっとあやしいのは『広辞苑』で「人の名に添えて敬意を表す語」とある。この「名」というのは姓なのか名なのか姓名なのか、甚だ暖昧かつ模糊である。例は「鈴木氏」のみ。すると「名」とは姓のことなのか? うまく逃げたつもりなのだろうが、こんなのはゴマカシだ。
 あとは、『日本国語大辞典』が「人の姓に付けて、尊敬の意を表わす」、『新潮国語辞典』が「他人の名字の下に添えて敬意を表わす語」のごとく本来の正用のみを認める。
 女子の場合について書いてあるのは広辞苑と岩波だけ。広辞苑は「嫁した女の実家の姓氏に添えて、出身を示す語」、岩波は「婦人の実家の姓氏に添えて、出身を示す」とする。一方を切り縮めて一方を作ったんだからよく似ているが、怪我の功名で岩波がまさる。と言うのは、女が生家を出るのはほとんどが婚嫁であることもとよりだがそれ以外もあるので、たとえば侍女や下碑、あるいは娼家の女なども「氏」をもって呼ばれるからである。だから岩波がまさるのだが、その前に「婚嫁乃至その他の事由で他家に在る」と添えればもっと念がとどく。
 いったい辞書というものは、今日只今のことを調べるだけでなく、本など読んでいて従前の語辞や事柄がよくわからぬ際にも引く──いやむしろそのほうが多いくらいのもので、この婦人につける「氏」などは是非必要だと思うのだが、他の辞書、浩瀚な日本国語までがなぜのせないのか、どうも解せぬ。日本国語は「人の姓に付けて尊敬の意を表わす」と言うのみで、ならば婦人の場合もそれになってしまうが、そうではないのである。
 なおたいていの辞書が「氏」を単独で使う代名詞的用法をのせている。「氏は北海道の出身」「氏の言によれば」等の「氏」である。これは昔はなかった(あり得ない)言いかただが、「三好氏は、三好氏は」と何度もくりかえすのはわずらわしいから二度目からは「氏」だけでまにあわせようというのはすこぶる奇抜な発明だ(その奇抜さは「氏」を「さん」に置きかえてみればわかる)。これについて前記大岡氏が、誰か知恵者がフランスの「ムッシュー」あたりをまねたのではないかと、たいへんおもしろい推測をしている。なるほどなるほど。
 同様なのに明治・大正期の序文や追憶の類にしばしば出てくる「君」がある。初めに一度「佐々木良助君は余の郷党の同輩で…」と言っておくと、あとは全部「君は幼時より神童の誉れ高く…」「君は大学では化学を専攻せられ…」と「君」だけですますやりかたである。この二つめ以後の「君」はクンなんだろうかキミだろうかとよく考えたものだが、クンはおかしいからやはりキミだろう。それはともかくこの「君」はあきらかに三人称である。ところがどの国語辞典にも「君」は二人称としか書いてない。「氏」を三人称代名詞と認めるなら当然この「君」も三人称代名詞として記載すべきもので、現今の辞書の不備とわたしは考えるがいかがであろうか。
 実は「氏」のことをマクラにもっと重要な「用いたくない言葉」について書くつもりが、例によってマクラだけで終ってしまった。                        (『しにか』 1994年2月号)

姓は丹下、名は左膳 (1)

 用いたくない言葉がたくさんある。「生きざま」「チビッコ」「汚職」「過酷」等々々。
 用いたくなければ用いないまでだ。たいがいはそうである。しかしなかには、用いたくないのにやむなく時に用いるものもある。「吉川幸次郎氏」のごとく氏名に添える「氏」もその一つである。
 無論「吉川氏」と姓のみならなんら問題はない。問題は「幸次郎」のほうで、「氏」は姓氏すなわち苗字なんだから、これを姓名(もしくは名のみ)につけるのは、おかしいにきまっている。
 しかし、人を相応の敬意をもって呼ぶ辞が今の日本語にはないのである。かつては「君(くん)」がそうであったが、現在なおそれが通用しているのは国会くらいのもので、一般には友だちづきあいの呼称になっている。だからまさかわたしが「吉川幸次郎君」と言うわけにはゆかない。
 人の氏名を呼び捨てていいのは、物故して年月が経過し、歴史上の人物となっている人にかぎられる。だから「尾崎秀実」「斎藤隆夫」などは、まあいい。「浅沼稲次郎」「土光敏夫」等となると、かなり抵抗を感じる。何かつけたい。まして現存者となると、「後藤田正晴」「池田大作」などと書きはなすのは失礼だし、その人に対して含むところあるかと受けとられかねない。さりとて「後藤田正晴さん」「池田大作さん」はなれなれしすぎる。そこで心ならずも「後藤田正晴氏」などと書いてしまうのである、
 こんなことで悩むのは自分くらいのものなのだろうかと思っていたら、最近たまたま『日本語相談』五(朝日新聞社)を読んで、三好達治が──これも呼び捨てはよくないが、さりとて「三好達治さん」「三好達治先生」も変だ──その三好氏が四十年も前にわたしと同じ困惑をのべていることを知り、知己の感を抱いた。これは、ある人のちょっとトンチンカンな質問を受けて、回答者の大岡信さんが話をずらして三好達治に言及し、その「日用語雑感」という文章を引いてあるのである。一部を引く(文中「中略」は大岡氏による略)。
〈たとへば岸田国士氏佐藤美子氏といふやうな、今日最も普通に用ひられてゐる基準形の敬称は、正しくは岸田氏国士君佐藤氏美子さんとでもいはなければ通用しかねる間に合はせの誤用で、氏の字を簡単に敬称として万能の如く心得てゐるのはたいへんそそつかしく見つともない。(中略)私はかねがねこのことを気にやんでゐるが、世間はいつかう平気で無頓着なやうであるから、私としてはとりつく島がない。(…)要するに簡単明瞭いつ誰の場合にも不都合のない、基準形の、正しい敬称といふものが現在ない。氏は氏姓であるから個人名の下部にくつつけてはをかしいのを、誤用とも仮借ともつかずあいまいなままにあてずつぽうをやつてゐるのが現状である。〉
 それで三好氏は、さる機関があれば男は「君」女は「さん」と制定してもらいたい、と言うのだが、この段はにわかに賛同できぬ。上述のごとく「君」の値打ちはすでに下落しているから今さらわたしが「三好達治君」とは言えない。それにそもそも、こういうことは「制定」になじまない。お隣の中国でも基準形の敬称のないのに難儀を感じること久しく、人民共和国ができた時、男女上下老少を問わず一律に「同志」と決め、定着したかに見えたが、やはりしっくりしなかったか最近は見ることすくなくなった。
 上に「ややトンチンカンな質問」と言ったのは「最近の新聞を見ていますと、その地位に男の人が多い場合、女性でも敬称に「氏」をつけているようです。土井氏とか山東氏とか、私にはどうもなじめません。土井氏を英語に訳すとき、Mr. Doiとはならないのでしょうか」というもので、どうもこの質問者は、「氏」は男子の敬称と思いこんでいるようだからだ。
 それはまちがいで、むしろ昔は、ある個人を「某氏」と言っていればまず女だと思っていいくらいである。鷗外『澀江抽齋』の冒頭に抽齋の母を「岩田氏縫」、妻を「岡西氏徳」と言うごとくである。この例にあきらかなように「氏」は婦人の出自を示す言いかたで、女に名がなく(あったとしても生家の家庭内での内輪の呼び名にすぎず)外ではもっぱら生家の氏をもって称される中国の習慣にならったものだが、元来日本人の生活になじまないし、特に近代の社会には合わないので明治以後急速にすたれた。したがってたとえば、漱石の夫人を中根氏、芥川龍之介の夫人を塚本氏と呼ぶことはまずないと言ってよく、鏡子夫人、文子夫人と個人名を呼ぶのがふつうである(だから鷗外は半分日本人の習慣にしたがって個人名を附したので、元来「岩田氏縫」といったふうな呼びかたは中国にはない)。一つには日本では女子が嫁すると婚家の氏を称するならわしで、野上彌生子は自身が野上と称しているのに、これを「野上氏」とは言えず「作家野上彌生子は小手川氏」というふうに言わねばならぬのだから、実情に合わないのである。
 もっとも中国でも、ほぼ一九二〇年ごろを境としてこの言いかたはすたれたようだ。魯迅の夫人は常に「朱氏」と呼ばれる。しかし同じ魯迅夫人でも許廣平は必ず許廣平であって「許氏」と呼ばれることはまずない。もしそう呼べばそれは「許という家から出た女」というだけのことになって、一個の人格を持った個人としての存在感は著しく稀薄になる。
 最近ある人の書いた本を読んでいたら、中国では女が結婚しても姓を変えないのに日本では変えるのは家の観念が強いからだと、まるで中国は家の観念が弱くて重畳と言わぬばかりに書いてあった。あきれたことを言うもので、どこへ行こうと生家の姓氏を離れられぬほうがよほど強く家の力が働いている。今の日本の夫婦別姓問題を論ずるのに「中国では古くより認められている」などと援軍を求めるのが甚しい見当ちがいなのである(無論わたしは夫婦別姓を認めること自体には賛成である)。
 話が横道にそれたがそういうわけで明治以後女子を「氏」をもって呼ぶことはほとんどなくなったので、質問者が「氏」は男子の敬称と思いこんでいるのは無理からぬ点もある。しかし、「氏」は男女を問わず人をその属する姓氏をもって呼ぶ辞だから、それはやはりまちがいである。そしてまた、「吉川幸次郎氏」「後藤田正晴氏」等が誤用であることもまた論をまたぬのである。


雪もあとなき小野のあさぢふ (2)

 さて篁神社と道風神社を見て小野の村を南へ出外れると、道端に「日本外交始祖大徳冠小野妹子墓、右へ三町」と書いた石標がある。大正八年に建てたものである。
 なんでも小野妹子は中国へ行って生け花を習ってきて、晩年は池坊専務と名乗ってお花の先生になった、という話があるんだそうだ。それで明治大正のころには、池坊家が妹子こそはわが派の流祖であるというので大いに顕彰につとめたという。この「日本外交始祖」という石標も、あるいは池坊が建てたのかもしれない。いやそれだったら「日本華道始祖」にするかな?
 この指示にしたがって右へ数百メートル行くと、そこはもう新興住宅地で、そのまんなかに樹木の繁る丘がポツンと一つ、心細く残っている。これが唐臼山古墳、すなわち妹子の墓である。さすが暴戻の資本も古墳には手がつけられず、かろうじて助かったわけだ。
 もっとも五体満足に残ってはいない。東側と南側はバッサリ切りおとされて崖になっている。東側の崖にはこれも「日本外交始祖小野妹子の墓」と巨大な看板がかかげてある。南側の崖は灌木の植えこみで字が書いてある。あんまり大きな字なのでそばによると何だかわからない。三百メートルほど離れたわたしの部屋の窓から見ると「うるおいのまち」と書いてあるのである。
 この丘の頂上に登ると、大きな石棺が地上に露出している。棺は松の根に破壊されて、側板やら蓋やらが突立ったり互いによりかかったりして、思い思いの方向をむいている。
 以前はこの前面に、ごく簡素な祠ようのものがあったことが昭和十二年当時の写真でわかるが、今は小さいながらちゃんとした神社がある。昭和五十五年に建てたもので、小野妹子神社という。京阪電鉄が罪ほろぼしに金を出させられたのだろう、とは宅地造成に詳しい友人の推測である。
 少し離れた所に教育委員会が建てた計測図と説明があり、そのおしまいに「被葬者が小野妹子であるという伝承は江戸時代の書物に初めて見える」とある。つまりこの石棺の主が小野妹子だという確たる証拠があるわけではないのである。
 しかし駅をおりて以来、壁画やら石標やら大看板やらで引っぱっておいて急にうっちゃりをくわせるのも酷だから、おしまいの所へ遠慮がちにちょいと書いておいた、という景色なのである。
 実を言うと小野妹子の墓と称するものは大阪南河内郡太子町にもある。
 なんだかだんだん心細くなってきたが、しかし小野妹子の家がこの小野にあったことはたしかなのだから、お墓があってもいいわけだ。もっともこの小野界隈には古墳が多く、そのどれが誰のものともわからぬので、一番立派そうなのを一番の大物に割りあてたということなのであるらしい。つまり、ここが妹子の墓だと思えば、そこが妹子の墓なのである。
 昭和十二年にこのあたりの史蹟を調査して「小野神社と唐臼山古墳」というすぐれた論文を書いた京都帝国大学講師柴田実というかたが、結論としてこう言っていらっしゃる。
「かやうに見来るならば唐臼山古墳を以て小野妹子墓なりとする所説は遂に史学の問題ではなくして信仰の問題であるといはねばならない。」

 小野妹子が聖徳太子の命を受けて隋の都長安へ行ったのは推古天皇の十五年(六〇七)である。九州から朝鮮に渡り、朝鮮西岸からまた山東半島に渡って黄河沿いに西へむかったらしい。七月に出発して翌年四月にはもう帰ってきているから大変なスピード旅行である。この時たずさえて行った国書に「日出処天子致書日没処天子無恙」とあったので煬帝がおこったというのは有名な話だ。
 妹子がむこうでつけてもらった中国名は蘇因高という。『日本書紀』においても国書を記載する際は蘇因高と書いてある。この因高はイモコの音訳だというのだが、ほんとかなあ。たしかに今の日本語でよめば近いけれど……。
 帰った年の九月に、こんどは留学生を大勢つれてまた出かけた。この時の国書には「東天皇敬白西皇帝」とある。少しおだやかにしたようだ。
 まあそのあたりのことは歴史の本にいろいろ書いてあるから、わたしの出る幕ではない。わたしは散歩途上のささやかな所見を御報告申しあげたのみである。          (『しにか』 1991年7月号)

雪もあとなき小野のあさぢふ (1)

 わたしが移ってきたのは湖西の小野という所である。JR湖西線に乗って琵琶湖を右に見ながら北上すると、湖が最も細くくびれて対岸のようすが手にとるように見えるあたりが堅田、そのつぎが小野である。
 ここで下車して改札口を出ると、すぐ左の壁に大きな絵がかかっている。難波津を出た小野妹子の遣隋船が、大海原を突っきって中国へとむかう図である。人はこれを見て「なるほどこの小野というのは小野妹子の小野なのか。由緒のある所なんだなあ」とこの小さな駅を見直すであろう。なにしろ小野妹子といえば聖徳太子につかえた人だ。そんな昔からここは小野だったのである。
 そしてもし多少なりとも中国にかかわりを持つ人ならば、「ここがあの、日中両国間に初めて正式の、かつ対等の国交を開いた人のふるさとなのか」といっそうの感慨をもよおすであろう。
 もっとも小野駅は小野地区の南端に位置しているので、妹子がいた村へは、少し北へ歩かねばならない。
 現在の小野は、截然とわかれる二つの地区から成る。
 一つは旧来の小野――妹子の時代から二百年ほど後の弘仁五年(八一四)にできた『新撰姓氏録』に「敏達天皇御世大徳小野臣妹子家于近江国滋賀郡小野村」とあるその小野である(「大徳」は聖徳太子が定めた十二階冠位の最高位)。藤原定家が「夢かとも里の名のみやのこるらん雪もあとなき小野のあさぢふ」とうたった小野の里はすなわちここであるという。
 現在人家およそ百数十戸、どの家も広い前庭に木や花をいっぱいに植え、きこえるのは鶏がコッコッと鳴いている声だけという、豊かで鷹揚な感じの村落である。
 もう一つは、これはまたぐっと新しく、つい十年あまり前に京阪電鉄が広大な丘陵地帯を切り開いて作った新興住宅地である。こちらのほうは、同じ小野でも、小野湖青とか、小野水明とか、琵琶湖を売りものにした安手な町名がついており、十数町をあわせて「びわ湖ローズタウン」と称している。
 さてその本来の小野村の裏山には、木立にかこまれて小野篁神社と小野道風神社とがある。両者の間は数百メートル離れているが、様式はまったく同じである。いずれも暦応四年(一三四一)、つまり足利尊氏のころに建てられたものであることが棟札によってわかるという。ごく小ぶりな、好もしい感じの神社である。重要文化財に指定されている。
 篁神社は道端に標識が出ているのですぐわかるが、道風神社のほうはわかりにくい。たまたま出会った郵便配達の人にたずねたら、「さあねえ。神様の所へは郵便が来んもんやから。すんまへんなあ」と笑っていた。
 小野篁は妹子の五世の孫、道風はその篁の孫である。なお小野小町は道風のいとこにあたるが、これは東北の方で育ったそうだ。
(つづく)

美しい文章を学ぶには (3)

 漢字で書いたほうがいいか、かなで書いたほうがいいか、見た目のよい文章を書くのは難しいことですが、私は、「字音語は漢字で書く、和語はひらがなで書く」というのを原則としています。「字音語というのは、漢字を音で読むことば、和語は本来の日本語で、「やまとことば」とよばれるもの。とはいえ、和語を全部ひらがなにしてしまうと、これもまた読みにくいものです。『漱石の夏やすみ』という私の本では、はじめ和語を全部ひらがなで書いてみようと思ったんだけれども、そうもいきませんでした。たとえば、「はる・なつ・あき・ふゆ」ではなくて「春・夏・秋・冬」。それから「ひがし・にし・みなみ・きた」ではなく「東・西・南・北」。こういったことばは漢字にしました。それから数をあらわすことばですね。「ニジュウナナサイノトキ」というのに、「ニジュウ」は字音語だから漢字、「ナナ」は和語だからひらがな、「サイ」は字音語、とやって「二十なな歳のとき」では、相当変でしよう。
 ワープロが普及しだしてから、むやみに漢字を使った文章が目立つようになりました。漢字を書けなくても、キーボードを押せばいいからですね。言うまでもなく、漢字が多いから格好のいい文章になるわけではありません。ひらがなで書くほうが、すっきりしてきれいな場合はたくさんあります。特に漢字を使わないほうがいいと思うことばの代表が、「掛ける」とか、動詞の後につく「こむ・こめる」、「つく・つける」です。「心掛ける」よりは「心がける」、「申し込む」よりは「申しこむ」と書いたほうが美しい。「気付く」より「気づく」。おおむね、「音」がない字はひらがなで書いたほうがいいと思います。ただし、これにも例外があって、「帽子掛」や「受付」のようなひとかたまりになっていることばのときには、漢字で書くほうがいいですね。ひとかたまりで目にうつって意味をとれるわけだから、ひらがなは入れないほうが好ましいと思います。「帽子掛け」や「受け付け」では、何かまとまらない感じがしませんか。
 その後、若干緩和されますが、昭和三十三年に国語審議会が送りがなのつけかたを政府に答申したときには、とにかく送りがなをつけようという方針でした。たとえば、「取」という字なら、
「トる」「トらない」となるんだから「ト」としか読めない。「締」という字は「シまる」「シめる」だから「シ」としか読めない。よって「トリシマリ」なら「取り締まり」と書く。でも、名刺なんかをつくるときに「取り締まり役社長」なんて、みっともないでしょう。審議会は読みまちがい、送りがなのまちがいが起こらないように、と考えたのですが、その考えかた自体がまちがっていると思うんです。「変る」と書いて「カル」と読む人はいないんですから、「変わる」と書いてもいいし、「変る」と書いてもいいんじゃないでしょうか。もちろん「かわる」と書いてもいい。漢字で書くか、ひらがなで書くかも、そのときそのときの環境で、あるいは気分でどちらでもできるのが日本語のいいところなんです。ルールを画一的に決めつけないほうがいい。私は最近右手が悪くなってワープロを使いはじめたんですが、あれは、「こう書くのが正しい」と指導するでしょう。腹が立ってしょうがない。
 日本人が日本語を、ある程度敬意をもってあつかうようになったのは、ここ二三十年のことと言えます。そして、パソコンやワープロが普及した現在、JIS(日本工業規格)によって、工業製品扱いされた文字は、さらに形を変えられています。そんないまだからこそ、自分の使っている日本語を見直してみるのにいい時期かもしれません。いい文章を書き写すとき、一つの作品を、はじめから終わりまで書き写すのが望ましいけれども、いいなあと思った部分だけ書きとってもかまわないんです。漢字と送りがな、ことばの使いかた、自分がどんなふうにいいと思っているか、よくわかると思います。         (『いきいき』 2002年7月号)

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たかしまとしお

Author:たかしまとしお
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