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内田魯庵傳

 内田魯庵傳(野村喬著、リブロポート)

  内田魯庵、といっても、今はもう知らない人が多いかもしれない。せいぜい一部の人が「丸善の魯庵」としてその名を知る程度であろうか。
 魯庵は、明治から昭和はじめにかけての高級知識人であり、オールラウンドの文筆人である。古今東西なんでも読んでなんでも知っているというほどの博識、くわえてその文章は軽妙にしてエスプリに富む。本好きにとってはつきぬ魅力のある人だ。
 これは、その魯庵の詳細な評伝である。著者は長年魯庵を研究しておられるかた。洪水の如くでてくる多くは粗製濫造の本のなかで、まれにこういう周到な準備の上に成った渾身の作に出あうと、ほんとうにうれしい。
 魯庵は、明治四年閏四月、江戸下谷のうまれである。その前年におなじ下谷で露伴が、また牛込で漱石がうまれている。同年うまれは美妙、透谷、蘆花など。慶應四年は九月に明治と改元するから、魯庵は明治の年数と年齢とがおなじである。
 十五歳のころから築地に下宿して立教学校に学び、また教会の聖書講義にかよってフルベツキにかわいがられた。いわば日本のなかの西洋に留学したみたいなものだ。この時期にイギリスの書物、特に文学書を多読する習慣を身につけた。同時に江戸文学を耽読した。これは魯庵だけのことではないが、西洋文学によって文学の何たるかを学び、その目で日本の文学をふりかえってみると、最も質の高いものは西鶴と近松であった。魯庵の教養の核心をなした二本柱はイギリス文学と江戸文学である。
 明治二十一年、処女評論「山田美妙の小説」を巌本善治の『女学雑誌』に発表、わずか二十一歳で一躍、石橋忍月とならぶ文芸評論のスターになった。といっても、この時代はみんな若いのである。忍月だってこの年二十四歳だし、そもそも魯庵の評論の対象になった美妙が魯庵と同年であることは上にいったとおりだ。なお忍月の評論の基盤はドイツ文学である。
 やがて巌本と考えがあわず『女学雑誌』をはなれ、徳富蘇峰の民友社にはいって『国民新聞』や『国民之友』を発表の場とした。
 この間明治二十二年に二葉亭四迷と知りあい、親友になっている。二葉亭は魯庵より四つ年上である。魯庵は友人の多い人だが、最も敬意をいだき、重んじた友人はこの人であった。
 明治二十五年から翌年にかけて『罪と罰』を翻訳刊行した。本邦初訳である。魯庵はロシア語はできないから英訳からの重訳だが、二葉亭の助力があったから部分的には原文を参照している。
 この本は、一面大成功、一面大失敗であった。「この書の反響はすさまじいものがあった」「巻之一の現れるや批評紹介をなすもの凡そ七十種」は大成功だが、かんじんの本は四百部ほどしか売れず、それでもがんばって巻之二は出したが巻之三はとうとう出せなかった、というほうは大失敗だ。当時の文芸界のせまさを端的に示す話である。
 しかしこれをきっかけに、アーヴィング、ヴォルテール、トルストイ、シルレル、アンデルセン、ポー、とつぎつぎに翻訳を発表した。すなわち二十代の魯庵は、文芸評論家兼翻訳家である。
 明治三十一年『くれの廿八日』を発表して小説家に転身。以後数年の魯庵は小説家である。
 同三十四年に書籍部顧問として丸善に人社。なにしろ魯庵はヨーロッパの書物についてよく知っている人である。無論文学書だけではない哲学、宗教、科学、音楽、美術、なんでも知っているし読んでいる。欧州諸国のおびただしい新刊書のなかから、重要なもの価値あるものを選んで仕入れをせねばならぬ洋書輸入専門店としては、こういう生き字引のような人がぜひとも必要だったのだ。 
 丸善にはいった魯庵はPR誌『学鐙』の編集をひきうけた。現在は、岩波の『図書』、新潮社の『波』など出版社のPR誌がたくさん出ているが、明治三十年創刊の『学鐙』が断然歴史がふるい。そしてああいうスタイルは魯庵が作り出したものなのだ。六年ほどまえから紅野敏郎さんが『学鐙』に、「『学鐙』を読む」と題する『学鐙』史を連載していて、そのときどきの『学鐙』所載の文章を完全に原文のままで読むことができる。ちょっと御推薦しておきます。
 明治四十二年に親友二葉亭が死ぬと、魯庵は文壇からしりぞいて随筆家、時評家になり、昭和四年六十二歳の死まで書きつづけた。この時期の魯庵について長子の巌さんは、「彼は夜店商人の如く、その雑学を絶えず自嘲を交へながら叩き売りした」と書いている。
 「日本最大の読書人」というのが、著者野村氏の魯庵総括である。
 (1994.8.1 毎日新聞「今週の本棚」)

嗚呼、大ヶ瀬幹人先生 (4)

 一年生の時の夏休み日記が、昭和二十四年七月二十二日(金)から八月三日(水)まで、十三日分だけ残っている。毎日大島と遊んでいる。次に藤堂と遊んでいる。だいたい、外で活潑なことをする時は大島と遊び、家のなかでおとなしいことをする時は藤堂と遊ぶという区別がある。
 この二人は性格が正反対だった。大島は乱暴者で、しかも抜け目がない。いっしょに悪いことをしても必ず自分だけ助かる手を考えている。叱られる時は一番うしろにいて、あっという間に姿をくらます。
 藤堂はおっとりした秀才である。それともう一人川口。この三人がわたしの一番の仲良しだった。わたしの母はいつも、「藤堂さんを見習いなさい。大島さんの真似をしたらあかん。川口さんはええ子やけどオッチョコチョイなんが玉に疵や。」と言っていた。大島は二年生になる時に明石のほうへ越して行った。今加古川のあたりで医者をしているそうだが、四十年も会っていない。
 少し夏休み日記を引く。
  七月二十七日水曜日
  ぼくと小林君と大島君とでかいきんばしへ行って見るとまだだれも来て居なかったので、三人で大西先生の家へ行くとごはんを食べていた。
  今日はエコウの者でいわし浜へ行くのである。
  それからかいきんばしへ行くともうみんな集って居た。
  きょうは藤堂君は行かないと飯田君が云って藤堂君に頼んで置いた「あめ」をもって来てくれた。
  てんま一そうとボート二そうで行ったがぼくはてんまだった。
  七時半に出発して八時半についたがその時はまだ少しさむかったのでボートに乗ったりしていて晝から泳いだ
  ぼくは豆を持って行かなかったのが殘念だった。
  松尾君がなまこを十匹ほどつかまえてなまで切って食べた。
  四時頃に向うを出発しててんまの中でみんなねた。ボートは二そうとも先に帰ってしまった。
  相生港について見るとかいきん橋の水が向うにくらべてきたないのにおどろいた。
  帰りがけあら木君と寺本君が口げんかをしたが、聞いていると面白かった。
  あら木君は云うことがなくなるごとに「そこらがさんぱつ屋や」と云った。
  タ方大島君の家へ明日行くか行かないか聞きに行くと、しんどいから行こまいと云った。
  ついでにしょうぎをして都づみにされた。
 「エコウ」はこだまの意味だが、どういうグループであったのか、おぼえがない。 
 「小林君」は英一か?
 松尾の辰ちゃんは相生駅前で舟曳理髪店をやっている。
 卓球がうまかった寺本は大阪で、これも理髪店をやっているよし。
 「あら木君」は荒木。今も那波にいる。
  七月二十八日木曜日
  朝、寝坊をして九時半頃御飯を食べて居ると赤尾君が本をはらってもらいに来た。
  赤尾君が帰ってからすぐ藤堂君が来てしょうぎして居ると大島君が来たので、しょうぎで金取りをして、やめる時一番負けて居た者があとの二人にしっぺをされる事にした。
  だんだん大島君が負けて来た。
  すると大島君はぼくらのゆだんを見すましてパッと逃げ出したので、二人で追っかけたが、高げたを手に持ったままとうとうにげてしまった。
  がすぐ玄関で「たかしまあ」と云うしょぼんとした大島君の声が聞こえるので出て見ると「げたのはがないんや」と云ったので、さがしたが見あたらなかった。
 那波小の子がそっくりそのまま那波中に進んで、原則として出入りなしだがよその学校へ行った者が数人あった。赤尾はその一人で、家が那波から藪谷に移っていたので相中へ行った。ほかに河野□が若狭中へ行き(金子□子も?)、村越□子と山本□子が姫路の日の本へ行った。
 赤尾は疎開である。
 われわれの同級生は、大きく分けて、根っからの相生の子、造船所関係で相生へ来た子(これが最も多い)、疎開、引揚げ、と四種類だったように思う。
 疎開もいろいろで、藤堂や大島はうんと早い目の疎開(都会が危くなるのを見越しての転勤)、赤尾や久安などはいよいよ危くなってからの疎開、もしくは焼け出されだった。だから(三年生まで大阪にいたわけだから)赤尾や久安はいかにも都会の子という雰囲気があった。服も靴も言葉も違っていた(われわれはそもそも靴なんかはいてなかった)。あとも、赤尾や久安のように都会がおちつくと帰って行ったのもおり、そのまま相生に居ついたのもいた(先日潮見□子にあったら「わたしと河内さんは疎開同士で仲が好かったと言っていた。ほかにも疎開はいたと思う)。
 引揚げは、村田□子、陸井□子などたくさんいたように思う。村田なんかは引揚げで一学年おくれて、いかにも大人びて見えた。

            ※

 二年生になってもあまり先生は変わらなかったが、国語が大ヶ瀬先生になった。上の学年を教える先生ほどえらい先生なんだとわたしは思っていた。それでわたしは、新しくあらわれたこの、逆長三角形の顔の上半分をきらきら光る額が占めていて、度の強そうな眼鏡をかけ、大きな口、分厚い唇の、これまでの先生がたとはまたよほど異る風貌の先生を、輿味津々眺めていたものだ。
 この時先生は満二十一歳で、われわれと八つ違いだった。──もっともわたしがそのことを知ったのはよほどあとのことである。当時のわたしには、先生はもっとずっと老成して見えた。
 先生は自己紹介から始められた。黒板に「大ヶ瀬」と書いて、「これは珍しい苗字なんだ。大古瀬というのはたまにあるが、大ヶ瀬はまずほかにはない」と言い、ついで、「ぼくは名前が二つあるんだ」と「幹人」「俊策」の二つの名を黒板に書いて、どっちかがおじいさんのつけた名前でどっちかがお父さんのつけた名前で、両方使っているんだと言われた。へえ、名前が二つあるなんてすごいなあ、とわたしは感心した。
 大ヶ瀬先生の国語の授業は、あとで考えると、つまり「文学」というものをわたしたちに教えてくれる授業だったのだと思う。それまでわたしは、国語というのは漢字の書き取りをしたり読みがなをつけたりするものだと思っていたから、大ヶ瀬先生の国語の授業はこれまで出会ったことのない新鮮なもので、いつも国語の時間を一番の楽しみにして待った。
 昔の同級生たちと大ヶ瀬先生の話をすると、誰もが一番印象に残っているのは、右手をズボンのポケットに入れて、斜めに窓のほうを向いて、ちょっとあごを反らせて、顔を紅潮させて、あの音量のあるいい声で、「秋の日の、ヴィオロンの、ためいきの、……」とか、「あはれ、秋風よ、こころあらば伝へてよ、……」とか、「われは思ふ、末世の邪宗、きりしたんでうすの魔法……」とか、朗々と詩を詠じてくれた先生の姿である。
 それらももちろんだが、またわたしには、「千里鶯啼いて緑紅に映ず…」や「朝に辞す白帝彩雲の間…」などの衝撃も強烈だった。今までまったく知らなかった世界がパーッと展開した感じだった。ああいうのは教科書にはなかったはずだが、どういう機会に教えてくれたのだったか。
 短歌もたくさん教えてくれた。わたしが、いいなあ、と思って今でもおぼえているのは、白秋の「草若葉色鉛筆の赤き粉の散るがいとしく寝てけづるなり」である。
 わたしは、そうした詩や、漢詩や、短歌などを好きになるとともに、またそういうものをいくらでも知っていて教えてくれる大ヶ瀬先生を崇拝するようになった。
 わたしよりもっと大ヶ瀬先生を崇拝したのが立花□だった。 
 先生は八棟の一部屋を借りて住んでいたが、ある時立花といっしょに行くと先生は起きたばかりで、棟の端にある水道場へ顔を洗いに行くところだった。われわれもついて行った。先生はざっと顔を洗っただけである。立花が「先生歯ア磨かないんですか」と聞いた。先生は笑って「歯なんか磨くもんか」と例によってひとくさり歯を磨くのは俗人の因習だというような理窟を述べた。立花は非常に心服して以後歯を磨かなくなった。そして、「わしの歯もだんだん大ヶ瀬先生みたいに黄色うなってきたやろ」と、よく歯をむき出してわたしに見せた。しかしそんなに黄色くもなかった。大ヶ瀬先生はうんと煙草を吸うからあんなに黄色いので、立花がそれに追いつくのは無理であった。

            ※
                  (つづく)

嗚呼、大ヶ瀬幹人先生 (3)

 わたしが大ヶ瀬先生に会ったのは、昭和二十五年(一九五〇年)四月、つまりなくなられた時からかぞえて四十一年前、那波中二年生になった時だった。
 一年生の時にも、上の学年を持っている大ヶ瀬という先生の名前を聞いたことはあったかもしれないし、姿を見かけたこともあっただろうが、面と向かって話を聞いたのは、つまりほんとうに会ったのは、二年生になって、先生がわれわれの学年の国語を担任することになった時だったと思う。
 大ヶ瀬先生のことを書く前に、少し一年生の時のことを書いておきたい。そのほうが、わたしがどんな状態で大ヶ瀬先生に出会ったのか、よく見えるように思われるから──。
 考えてみると、中学生になったころのわたしは、いまの子供にくらべるとほんとうに幼稚なものだった。六年生の時、これからまだ三年新中(あのころは中学とは言わず新中と言っていた)へ行くんだと先生に言われて、もう小数点も習ったし分数の計算も習ったのにこれ以上何をやることがあるんだろうと、不思議でならなかった。大塚□にそう言ったら「アイアムアボーイをやるんや」と言った。「なんやそれ」と聞いたら「英語や」と言った(大塚のお父さんは教会の先生なので彼はわれわれより見識があった)。それで英語をやりに新中へ行くんだとわかった(なお大塚□はその後転居したのか、那波中に入った時にはもういなかったようだ)。
 家に帰って父に「新中行って英語やるんやて」と言うと父は「おう、それやったらこれがいるぞ」と黒い小さな本を捜し出して来てわたしにくれた。LLD男爵神田乃武・學習院教授金澤久共編『袖珍コンサイス英和辭典(大正十一年、三省堂)というものであった。開いて見ると、薄い紙に小さな横文宇と漢字とカタカナがびっしり印刷してある。これは新中というのはえらい高級なことをやるらしいぞとわたしは緊張した。
 中学校に入ったら時間が変るごとに違う先生があらわれるのでびっくりした。
 実際には英語以外にもいろいろ科目があった。大きく分けて、職業科目と普通科目だった。
 職業科目は、職業、農業、工業、商業、家庭。
 職業──松本先生(ノウマツと言っていた)。こっちに職を求めている人があって、こっちに雇いたい人があって、それが出会わないのを摩擦失業と言う、というのだけおぼえている。
 農業──これも松本先生。校舎の間の畠でサツマイモを作った。
 工業──林先生。イトノコの使いかたを教わった。上手な者もいたが、わたしはすぐクニャリとなってしまうので往生した。
 商業──たしかこういう科目もあったような気がする。
 家庭──福井先生(女)。味噌汁を左に、御飯を右に置くのが正しい、と教わった。以後四十余年かたくこれを守っているが、いつも人と衝突する。皆御飯が左、味噌汁が右だと言う。しかしわたしは「中学校の家庭の先生が言ったんだからまちがいない」とあくまで頑張る。
 普通科目は、国語、数学、英語、理科、社会、憲法、音楽、図工、習字、体操。
 国語──中年の、黒板に書く字がとても上手な先生で、われわれはボケショと言っていた。最近(つまり四十数年たってから)川口に「本名はなんというんやったかな」と聞いたら、「あれは家庭の福井先生と夫婦やからおんなじ福井や。いっしょに池之内から自転車で来よったやんけ。」と言う。ホンマカイナと思って大西先生に聞いてみたら、前田先生ということだった。
 数学──林先生?
 英語──大西先生。
 理科──海田先生。七棟か八棟かに住んでいて、奥さんは職員室の隣に店を出して画用紙なんかを売っていた。
 社会──?
 憲法──角田先生?教科書のあちこちに清水崑の漫画の挿絵がのっていた。
 音楽──橋本先生(女)。あるいは橋本先生は二年になってから?
 図画──表谷先生。
 習字──菊谷先生。ネコと言っていた。卒業するころにはこの先生が校長先生になっていたような気がする。
 体操──金谷先生?

            ※

 以上がわたしの記憶である。磯部に話して確認を求めたら、大いに異論が出た。職業関係がそんなにあったはずがない、憲法なんて授業もなかった、と言う。磯部は異常に強い記憶力を持った男だから、その発言は尊重しなければならぬ。
 「通信簿があれば授業科目がわかるんだがなあ」とわたしが言うと、彼は家へ帰って探索して、ついに一年生の時の通信簿を見つけて来た。お母さんが保存してくれていたそうだ。質の悪い紙の小片にガリ版印刷したものである。俺だってあるかもしれんと探したら、二年生、三年生のは出て来たが(これはもう二つ折のちゃんとしたものになっている)、一年生のは見つからなかった。
 それを見ると、たしかに「職業」という科目が一つあるだけで、工業、農業などというのはない。家庭も憲法も習字もない。なかったはずの授業をおぼえているというのはどういうわけだろう。どうも不思議でならぬ。

            ※

 英語の時間が一番好きで、抜群に楽しかった。授業だけでなく、大西先生と遊ぶのが楽しくてしょうがなかった。
 先生は、ボートの漕ぎかたを教えてくれた。家へ行くとアメリカのグラフ雑誌『LIFE』を見せてくれた。本棚に『芥川龍之介作品集』というのがあったので、机龍之介の兄弟分の剣客物だと思って、「先生これ見して!」と借りて帰って読んでみたら、全然違っていたけどおもしろかった。
 一度、夜わたしの家で藤堂ら数人と大西先生とトランプをしていたら、いきなり庭先へ藤堂の親父さんがずかずか入って来て、ものすごくおこって説教した。親父さんは、大西先生も生徒の一人だと思ったのだ。それくらい先生は若かったし、われわれとわけへだてがなかった。それにしても十二と二十いくつだから体の大きさが違うのに、藤堂の親父さんも腹立ちで目がくらんでいたのだろう。大西先生はわれわれといっしょに頭を垂れて親父さんの説教を聞いていた。
 藤堂の親父さんはなんであんなにおこったのか──多分あのころは、子供は暗くなる前に家に帰らなければいけないことになっていたのだろう。
 英語の授業の際に使う辞書は、ちょうどそのころ研究社から『ぼくの英語辞典』とかいう小型のものが出てみんなそれを買ったが、わたしは例の父にもらったのがあるから必要ないと思って買わなかった。大西先生は最初にアルファベットを一通り教えると、アルファベットの順序をおぼえ辞書を引くのになれさせるために、黒板にやさしい単語を書いて全員一斉に辞書を引かせ、わかったら手を挙げさせた。ところが、いつも一番に手を挙げるのは潮見□子で、わたしは常に二番である。どんなにがんばっても潮見に先を越される。不思議でならなかった。
 だいぶあとになってそのわけがわかった。みんなが使っている『ぼくの英語辞典』は初学者のためのもので、ごく基本的な単語だけを比較的大きな活字で見やすく印刷してある。だから第一に、彼等は五百か八百の中から一つを探すのであり、わたしは一万か二万の中から一つを探すのだから、ずいぶん条件が悪い。第二に、わたしは見つかった単語の意味をもう一度考えなければならない。たとえばbad なら、みんなの辞書には「悪い」とあるからそのままでいいが、わたしのは「悪シキ、不善ノ」と出て来るので、これをすばやく「悪い」と現代語に直さなきゃいけない。これなんかは容易だが、たとえばteam は「聯畜、聯獸」とある。なんじゃこれは、とあせってずっと先を見てゆくと「一団」とあるので、ああチームかとわかるのだから手間がかかる。あとでみんなの辞書を見せてもらって「コンチクショウ!」と思ったものだ。
 大西先生はみんなに英語の名前をつけてくれた。姓は全員ブラウンである。これは教科書『LetsLearn English』の主人公が、トム・ブラウン、メアリー・ブラウンのきょうだいだからだ。わたしは「おまえは口がわるいから」とバーニー・ブラウンであった、バーナード・ショウから取ったのである。──先頃潮見のお好み焼き屋へ行ってその話をしたら彼女も自分の名前をおぼえていた。たしかエリザベスとかいうことだった。

            ※

(つづく)

嗚呼、大ヶ瀬幹人先生 (2)

 大ヶ瀬幹人先生は、一九九一年三月十九日深夜十二時半ごろ、急になくなられた。十一時ごろまで、お宅で近くの友人と元気に談笑しておられたというのであるから、ほんとうに突然のことであった。享年六十四。
 少し前に、わたしの本が二冊できた。本ができれば友人知己に送る、それが世間のならわしであるが、わたしはあまり好まない。だしぬけに「さあ読め」とばかりポンと本を送りつけるというのは、無礼でもあり、横着でもあるという感じがする。自分が送られてもいい心持ちがしない。遠隔の人はしかたがないから手紙をつけて送るが、できれば直接参上して、さしあげたい。わたしにとって大ヶ瀬先生は是非とも直接呈上したい人であった。
 それでわたしは、三月十九日、滋賀県から相生にもどった。二十日に電話してみて、先生の御都合がよければ持ってゆくつもりであった。
 ところがその二十日の朝、松浦延哉から電話がかかった。大ヶ瀬先生が咋夜なくなった、と言う。エーッ、とわたしはおぼえず電話口で大声を出した。くわしいことはまだ何もわからない、と松浦は言う。わたしは、すぐ龍野駅近くの先生宅に駆けつけた。車で十分ほどの距離である。
 先生は、玄関を入って左奥の六畳の書斎で仰臥し、顔には白い布がかけられてあった。枕元に僧形の人が二人、平服の人が一人、坐っていた。うち僧形のお一人は咋夜おそくまで談笑していた当の人とのことである。
 わたしは、白布を取ってお顔を拝した。つい八時間か九時間前までお元気でいらしたこととて、顔には赤みもありつやもあり、眠っておられるのと変るところはない。わたしは、自分のつまらぬ好みのためついに先生に見ていただくことのできなかった本二冊を枕元に置かせていただいた。
 この書斎に入ったのは初めてであった。周囲の本棚には白い布がかけられて本がかくされてあった。奥様によれば、先生は自分の本を人に見られるのを嫌い、この部屋にはめったに人を入れなかったのだそうである。わたしがうかがった時も、話すのはいつも玄関を入って右手突きあたりの、庭に面した三畳の間か、ダイニングキチンのソファであった。
 その三畳の間には小さな文机が置いてあり、その上にはいつも極太の万年筆があり、資料や書きかけの原稿がひろげてあった。お昼ごろにうかがった時には、先生はここでコーヒーとパンとサラダの朝食をとっておられたこともある。──先生はたいてい十一時ごろに起きるので、通常の昼食の時間が朝食なのである。多分先生はここで勉強して、必要に応じて書斎へ本をとりにゆかれたのであろう。わたしがうかがって、この三畳なりダイニングルームなりで話していて、本の話になると、先生は奥のほうへ入って行って本を取ってくるので、あっちが書斎だなと見当はついていたが、入ったことはなかったのである。
 今初めて入らせていただくと、本棚にはすっかり布がかけられている。人に本棚を見られるのをはずかしがったから、死んだあとでもはずかしいだろうと思ってかくしたんです、と奥様のおことばである。わたしは奥様のお心づかいに感銘した。
 本というものは人の心に直結したものだから、常になにがしかのはずかしさを伴う。電車の中で本を読む人が、しばしば書店の包み紙で表紙を覆って、周囲の見知らぬ人たちに自分の読んでいる本を知られまいとするのを見てもそれはわかる。自分の読む本を知られるのは、魂をのぞきこまれることなのである。自分が集め、読んだ本の全容が人の無遠慮な目にさらされるのはなおさらのことである。先生の愛した本が四壁を埋める部屋に先生を寝かせ、しかし同時にそれらの本を人目から覆った奥様の用意にわたしが感銘したのはそのゆえである。
 一時間半ほど先生の枕元に坐っていたら、下腹がシクシク痛くなり、だんだんひどくなった。午後にまた出直してくることにして、いったん帰った。ところが腹痛から腰痛までおこってきたので、とうとうその日はそれきり行けなかった。
 翌日は、藤堂が帰ってきたので、川口と三人でうかがった。磯部もいっしょに行くはずだったが、連絡がつかなかった。
 藤堂も川口も那波中時代には大ヶ瀬先生を尊敬ないし崇拝していた一人で、川口は一度いっしょに行ったが、藤堂はそのうちにと思いながら、とうとう機会がないままに終ってしまったのが残念でならない。「病気になったら藤堂に診てもらうんだ」と奥様に言っていたという。心中頼りにしていたのだ。つれて行ったらどんなに喜んだろう。
 わずか一日のあいだに先生の部屋はすっかり葬儀の部屋になっていた。それは、わたしにとっては、いかにもよそよそしかった。先生がおられた時のままのきのうのほうがずっとよかった。
 葬儀の三日後、また川口といっしょにうかがった。まだ弟妹のかたたちが大勢おられ、東京の音大で音楽理論を教えておられるという弟さんに初めてお目にかかって話をした。そのあとわたしはまた滋賀へ行き、磯部をつれて行ったのは、結局五月の連休になった。
 その後遺稿集のことなどで、何度かうかがった。いつ行っても、以前のとおり、玄関を入ると先生の下駄がある。一瞬、わたしは「あ、先生いる」と思ってしまう。先生が、江戸後期播州地方の俳諧資料一束を右手に玄関にあらわれ、にこやかに「おお、来たか、あがれよ」と言ってくれそうな気がする。あの下駄があるかぎり、わたしにとって、先生は、いるのである。
 「先生すっこんでちゃだめだ。もうすっかり春だよ、出よう。さあ横に乗りな、琵琶湖の春を見せてやろう。」
 ああ、もう少しでその季節になろうとしていたのに……。

            ※

 大ヶ瀬先生について語ることは、少なくともわたしにとっては、自分について語ることだ。ちょうど、母について語ることがそうであるように。また、本について語ることがそうであるように。

            ※
                           (つづく)

嗚呼、大ヶ瀬幹人先生 (1)

嗚呼、大ヶ瀬幹人先生


 はじめに

 「大ヶ瀬先生の追悼文集を作らないか」と川口に持ちかけたのは、多分、先生がなくなって一か月あまりのち、去年(一九九一年)の五月の連休のころだったと思う。
 川口が賛成してくれたので、わたしが趣意書とサンプルを作り、川口がそれをワープロで打ち、わたしがそれを、先生の思い出を書いてくれそうな人たちに送った。相生在住の人たちは、川口が直接回った。
 その時に気づいたのは、われわれは同学年の人たちとはみな仲良くしていたが、上下の学年の人たちとはあまりつきあいがなかった、ということである。まして、大ヶ瀬先生について書いてくれそうな人、と言っても、見当がつかない。結局、われわれの学年、つまり昭和二十四年に入学して同二十七年に卒業した学年が中心になった。それ以外は、川口がたまたま同じ西出町出身で二年上の柴原さん(もと一丸さん)と出会い、柴原さんが趣旨に賛成して集めてくださったものである。
 集まった原稿は、ワープロのものはそのまま、手書きのものは川口がワープロで打った。
 以後、わたしが一か月に一度相生の家に帰り、川口が来て、双方の進捗状況を報告しあうとともに今後の進めかたを相談する、ということが十か月ほどつづいた。と言っても、実際には、川口が打ったワープロ稿をわたしが点検して、「原稿の通りになってないやないか! ワープロまかせにするな! 何べん言うたらわかるんじゃ! アホかおまえは!」と怒鳴り、川口がヘラヘラ笑い、それから二人で二階堂を飲み(二階堂は川口が好きな焼酎)、そのうち川口は帰るのがめんどうくさくなってそこらに転がって寝てしまい、あとでヨメハンに叱られる、というコースにきまっていた。ある時、相生に帰って川口に電話したら、そばでヨメハンが何か言っているのが聞こえる。「何言よんや」と聞いたら、「行くんなら行ってもええけどもう永久に帰ってこんでもええ言よら」とのことであった。
 大事の御亭主を長い間占領して、ごめんなさい、奥様。
 ワープロという文明の利器があるから割合簡単にできるだろう、と思ったのがあさはかで、けっこうたいへんであった。わたしが滋賀にいるあいだも電話や手紙で連絡しあうこと数知れず。それでもまあ、一部だけでも一周忌に間に合わせることができてよかった。
 書いてくださったかたがた、特に、書いた上に費用や切手を醵出してくださったかたがたに、お礼申し上げます。

            ※

 大ヶ瀬先生は、那波中から双葉中、相生中、矢野川中と回って、最後にまた那波中にもどって退職したのだが、その二度目の那波中の時は、必ずしも意に満たなかったらしい。わたしはそのことを、柴原さん、および森谷健三から聞いた(森谷の息子さんが退職直前の大ヶ瀬先生に教わったよし)。
 いったいどういうことか。大ヶ瀬先生が変るはずがない。日本が変ったのだ──とわたしは思う。
 「先生」というものが、少年たちの、尊敬、崇拝と、親愛との入りまじった熱い感情の対象であった時代が去ってしまったのだ。
 「少年とは、尊敬する動物である」と言ったのはニイチェである。かつての少年たちにとっては、尊敬する先生のまわりにむらがってワイワイ言っているのが至福の時であった。その点では、吉田松陰のまわりに集まった長州の若侍たちも、夏目漱石のまわりに集まった東京の秀才たちも、大ヶ瀬先生のまわりに集まった那波中のガキたちも、ちがいはしない。
 そしてそれは、昭和三十年代あたりを境にして、急速に日本の社会から消え失せてしまったらしい。男女共学のゆえか、受験戦争のゆえか、高度成長のゆえか、──多分種々の要因が積みかさなってのことだろう。
 ともかく、昭和二十年代の日本には、その「尊敬する動物」たちが至る所にいたのであり、大ヶ瀬先生のまわりにももちろんいたのであった。二度目の那波中での先生が、かつてのわれわれと先生のようでなかったのは、三十年のあいだに日本が変質してしまったからであるにちがいない。
 この追悼文集が、大ヶ瀬先生を記念するばかりでなく、今は失われてしまったその時代を記念するものにもなっていれば、先生もきっと喜んでくださるであろう。
                             一九九二年三月   高島俊男
プロフィール

たかしまとしお

Author:たかしまとしお
高島俊男「お言葉ですが…」ブログへようこそ!
ここでは「お言葉ですが…」の最新原稿と単行本未発表の書評などを掲載します。

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