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中国はもともと「盗賊王朝」だった (4)

 ――中国外交部の梢案館が、六〇年代半ばくらいまでの史料を少しずつ開示し始めていますね。
高島 「大躍進」の悲劇について中国・新華社の楊継縄という人が書いた『墓碑』という分厚い本が数年前に香港から出たんです。これは、よく調べて書いてある。中華人民共和国になってから出たあらゆる本のなかで最も優れたものです。
この著者も、共産党プロレタリア独裁から毛沢東独裁になって、毛沢東は実質的には最大の権力をもつ中国最後の皇帝だった、毛沢東自身も自分を皇帝とみなしていたと書いている。
 ――著者本人が半分くらいにまとめなおした、その短縮版の日本語訳が、このあいだ『毛沢東 大躍進秘録』(文藝春秋)という題名で出版されています。
高島 「大躍進」政策のせいで、何が起こったか、ものすごく具体的に書いてあるでしょう。著者は餓死者だけで三千五百万から四千万人と推定しています。そのほとんどが農民なんだけれど、飢えをしのぐために人を食うという話が出てくる。死体を掘り起こしたり、子供を殺したりして。食い物がなくなって人間を食うというのは悲惨ですね。魯迅の『狂人日記』にも人食いの話は出てくるけれど、二十世紀の半ばになって、まだ人を食っていたっていうのは中国くらいでしょうか。ほかにもあるのかなあ。
 ――このあいだ、北朝鮮で同僚を殺して食べて、その残りを羊の肉と称して市場で売ったというニュースがありました。それから、死んだ胎児や乳児の肉を粉末にした中国製の「人肉カプセル」が滋養強壮剤として韓国に密輸されたという事件も、つい最近起こっています。人食いの話がやたらに出てくる『水滸伝』の時代と変らない。
高島 「人民公社」の共産主義では、いっさい不平があってはいけないというので、各家庭のカマドをたたきこわして村ごとに食堂をつくって、みんなが同じものを食べるようにした。『墓碑』(『毛沢東 大躍進秘録』)には、その人民食堂の成立から、それがうまくいかなくなるまでがくわしく出ています。人が働かないようにしておいてすべての人間に腹いっぱい食わせようというんだから無理がある。
『墓碑』によると、各家庭で食事をつくって洗濯をして子供を育てるのは労働力の大いなる無駄だと共産党は言っていた。最終的には家庭がなくなれば私有財産もなくなる、それが理想だというんだけれど、やはりどんな世の中になっても、飯は各家庭でつくって家族で食べるというのはこの地球上どこでも変ることはないでしょうね。ただ、昔から理想社会を夢見る人はああいう「人民食堂方式」というのを考えるわけだ。誰もが同じものを誰もがおなかいっぱい食べるというのは理想社会のいちばんの基本ですからね。
 ――社長からヒラ社員まで同じランチを食べるという日本式経営の社員食堂が、一時海外でも話題になったことがあります。
高島 ああ、そういう会社があるのか。それは家族主義なんだろうけど、一種の共産主義社会だな(笑)。でも、毛沢東のそういう理想社会に比べれば、鄧小平の中国というのはずっと人間的ですよね。

〈中華人民共和国において、党と国家の路線(生存方法の根本)を市場経済の方向へと大転換する英断をくだした皇帝は鄧小平である。この転換は、初代毛沢東の素志・遺命に反する。だから言ってみれば、鄧小平は明帝国の第三代成祖永楽帝にあたる。創業皇帝の遺志にそむくことによって成功し、国家を生きながらえさせた。いまにつづきかつ繁栄する「鄧小平の中国」は、毛沢東の中国とは別の王朝である。永楽帝以後の明帝国が太祖洪武帝(朱元璋)の明帝国とは別の王朝であるように――しかし、初代皇帝毛沢東の最大の願いが自分がうちたてた国家の安泰と存続とにあるならば(そうであるにちがいない)、三代皇帝鄧小平こそ創業皇帝の最大の忠臣である〉

 ――民主化を求めた天安門事件を弾庄して共産党体制を維持したとはいえ、「改革開放」を打ち出したのは鄧小平ですから、中国でも毛沢東より鄧小平の評価のほうが高くて当然という気がするのですが。毛沢東にかわって天安門に鄧小平の肖像画が掲げられてもおかしくない(笑)。
高島 たしかに現実からいえば鄧小平の功績のほうが大きい。鄧小平がいなかったらいまのように繁栄した中国にはなっていないわけだから。それでも毛沢東がいつまでも消えないのは孔子と同じように、もう神格化されているからだろうなあ。いま中国は世界中に孔子学院という学校をつくっているけれど、これも中国語学校で、別に孔子や儒教を教えるわけじゃない。ただ、いまさら「共産党学院」でもないから、一度は否定したはずの孔子という名前をつけている。中国で世界的にネームバリューがあるのはなんといっても孔子と毛沢東だということなんでしょう。
 もっとも、鄧小平というたった一人の人間がいたかいなかったかで、国全体がガラッと変るというのが中国らしいね。日本だったら、たとえば田中角栄がいたかいなかったかでいまの日本の様子がまるっきり違うなんていうことはありえない。
 ――鄧小平の改革解放というのは、「人民公社」とは正反対に、金銭的な欲望を解放したということでしょう。
高島 そう、要するに、もうけられるものはいくらでももうけたらいいということ。だから独創的ということでは、毛沢東より鄧小平のほうがずっと独創的ですね。共産党と資本主義を結びつけるなんて発想は、世界中誰もできなかったからね。ソ連にはそういう人間がいなかったからつぶれてしまった。共産党独裁がビクともしないで、世界でトップを争うくらい市場経済が発展するなんて考えられなかった。まあ、ヨーロッパ的論理では出てこない発想です。毛沢東の革命もそうだったけれど、ヨーロッパ的論理は中国では必要ないんですね。そういうことから言えば鄧小平だって、留学しているからフランス語はしゃべれたにしても、フランス的教養があったようには思えないし、それで問題ない。
 中国人というのは昔から商売と金もうけが好きで、商売というのは個々でバラバラにやらなければ元気が出ない。そういう中国人の特性を存分に発揮させてやろうと考えたのが鄧小平の偉いところですね。毛沢東はそういうものをぜんぶ抑えてしまったから、国全体に元気がなくなった。
 ――鄧小平の中国は毛沢東の中国とは別の王朝で、毛沢東が明の太祖洪武帝なら、鄧小平は第三代の永楽帝であるというのは卓見ですね。この秋の第十八回党大会で誰が総書記に選ばれ、どんな王朝ができるのか……。
高島 経済的にますます元気になって、これからも繁栄は続くかもしれない。だけれど、そもそも中国という国の根元的な精気・活力をになっていた知識人の「元気」をすべて奪ってしまったことのほうが、実は経済政策の失敗よりも、毛沢東の罪は大きい。だから、これからは若い知識人に元気を与えるような社会にならないと、いくら経済的に繁栄しても、今後百年、中国が世界の人々に尊敬される国になることはありえないと思いますね。
 (『歴史通』2012年7月号、ワック、聞き手・歴史通編集部)

中国はもともと「盗賊王朝」だった (3)

 ――共産党が天下を取れたのは毛沢東の戦略のうまさによるもので、別にマルクス主義者のいう歴史的必然というようなものではない。実は中国人にとっては別にマルクス主義でなくとも、白蓮教や太平道のような宗教でもよかったのではないでしょうか。
高島 やはり中国自体にマルクス主義を受け入れる下地があったと考えるべきでしょう。中国では古来、「五経」(易・書・詩・礼・春秋)に代表される儒家の経典があった。「経典」とはどんな時代でも人間の指針となる永遠の真理をしるした書のことです。ところが、二十世紀になって儒教が権威を失ってしまい、それにかわって中国人の心をとらえたのがマルクス主義だった。「打倒孔家店」で儒教そのものを否定しても、真理をしるした書物というよりどころをもとめる中国人の習性は急にはなくならなかったんです。

〈中華人民共和国の建国後、マルクス主義の書物は「革命経典」と呼ばれることになった。これも経典なのである。
 マルクス主義が他の西洋の学問とちがうのは、一つには全面的であること、すなわち、あらゆる学問、あらゆる方面にまたがっているか、もしくは応用が利くことである。もう一つは、絶対に正しいことである。この点で、他の学問は儒教のかわりにはなれなかった。……
 しからばかつての儒家の経典とこんにちの革命経典のあつかいは何から何まで同じなのかというと、そうではない。
 儒家の経典は解釈の自由を許した。だからこそ二千何百年も前の本がその後の時代の応用に耐えたのであって、学者は時にはずいぶん無理な、あるいは無茶な受けとりようをして、しかし自分ではそれが「聖人の本意」と信じて、結果的にはある程度柔軟な思想を展開したわけである。
 革命経典は一般人が任意に解釈することを許さない。解釈権を有するのは党のみである。その解釈は党の必要に応じて変り得る。しかし一般の学者が革命経典を自由に解釈する形で自己の考えを展開する餘地はない。
 中国の学者の論文を読んでいると、革命経典が論断の証拠として用いられていることがしばしばある。「それが証拠にマルクスがこう言っている」という形である。これは昔の人の「聖人もかく言へり」と同じであって、習性というものは強固なものだと感じ入る。
 共産党は中国人のこの習性を利用したのである。しかしまた、利用されてしまうような素地が中国人にあるのも事実なのである。中国人の行動や思考はいわばがんじがらめなのであるが、それら一切の束縛から、それどころか憲法をはじめとするすべての法律や規則からも完全に自由なのがたった一人の帝王である。
 そういう体制をわたしは「帝国」と呼ぶのである。〉

〈元版『中国の大盗賊』が出て以後こんにちまで十六年ほどのあいだの、中国の変化は甚大であった。政治的には共産党の独裁(dictatorship中国では「専政」と訳す。そのほうがまさる)を維持したまま、経済は資本制(あるいは自由市場制)に移行した。そしてそれが成功して、大繁栄している。……
 筋から言えば、社会主義制度が破産すれば、プロレタリア独裁(事実は共産党独裁)の国家はつぶれるはずである。現にソ連は崩壊した。東欧諸国も同様である。
 中国のみが例外で、執政党としての共産党と社会主義経済とが、血管でつながっていなかった。一方が死んだら必然的にもう一方も死ぬという関係になかった。社会主義の経済制度が死んでまるで正反対のものに変っても、その上の国家は平気で生きている。それどころか、共産党がリードして、経済を資本制に変えたのである。……
 してみると、中国の共産党は、「共産党」と名のってはいるが、その本質は、共産党ではなかったのである。では何であったかといえば、権力を奪取して自分たちの王朝をうちたてようとする集団だったのだ。そして伝統方式によってみごとにそれに成功し、国家を創建したのである。……〉

 ――先日、重慶の党委員会書記だった薄煕来が、夫人の「英国人実業家の毒殺疑惑」や一族による収賄・不正蓄財容疑で失脚しましたが、あれも実は権力闘争で、薄煕来は「特権階級を許してはいけない、文化大革命の時代に帰って革命歌をうたおう」というような毛沢東讃美のキャンペーンを盛大にやったことが党中央に警戒されたらしい。
高島 薄煕来関係の記事を読むと、共産党の地方のボスというのはすごい権力と富を持っているものだと驚きますね。昔の王朝でも、三年間地方官をやると生涯ぜいたくをして暮らせたというから、そういうところも変っていないんだな。収賄といっても重慶だけが特別だったとは思えないから、たしかに権力闘争でねらわれたのかもしれない。
 ――歴代王朝とまったく変りませんね。
高島 共産党国家が昔の王朝国家とちがうのは、皇帝、現代で言えば党の総書記が世襲でないことだけれど、過去の王朝だって事実上は集団指導なんだから、そのこと自体は大きなちがいではない。皇帝が全権を握っているというのは建前であって、宰相や大学士などと呼ばれる何人かの高官が中央指導部として複雑な官僚機構を指揮していた。中国では、皇帝・中央指導部と、中央・地方の官僚から成る統治機構を「国家(クオチア)」と称したんです。一般人民は科挙に受からない限り、「国家」とは無縁だった。現在の共産党で宰相・大学士の中央指導部にあたるのは党中央委員会政治局の常務委員会です。
 だから、それよりも過去の王朝との大きなちがいは、党と国家が二重になっていて、「党が国家を指導する」という形になっていることですよ。そのせいで官僚機構がよけい複雑になっている。たとえば、日本では外務省と呼んでいる外交部を、その上に立つ党中央委員会の対外連絡部が指揮している。地方各都市の市政府の上にも党の委員会があって、たとえば重慶なら、中国共産党重慶市委員会が重慶市政府を指揮する。
 ――薄煕来は重慶市委員会の書記でしたね。書記というのは党組織のトップで、その重慶市委書記の下にまた重慶市長がいる。
高島 もともと社会主義国というのはどこでも党が国家を指導するという形になっていたけれど、中国でいう「国家」は一般人民まで含めたソ連のような西洋風の国家(ステイト)ではない。
 その国家の上に、昔の国家(クオチア)そのものである党が指導機関として乗っかって、「党と国家」という形になっているから、ほんとうに複雑なんです。
 ――文化大革命のとき、薄煕来は紅衛兵として先頭に立って大暴れしています。そのなごりでいまだに毛沢東を崇拝しているのかもしれませんが、そもそも毛沢東はあれだけの大失政をして、大量虐殺のようなことをしている。中華人民共和国成立後に関しては、負の遺産のほうが多いのではないでしょうか。
高島 たしかに毛沢東はブチコワシをよくやった。白分が知識人のくせして、あるいはそれだからこそかもしれないが、毛沢東は知識人が嫌いでした。だから、一九五七年の「反右派闘争」、六六年からの「プロレタリア文化大革命」のように、知識人を片はしからつるしあげて、粛清したり殺したりしてしまった。ものを考えるのは自分だけで十分だ、あとは自分の言うとおりにしていればいいという考えだったんでしょう。しかし、過去二千年、中国という国を支えてきたのは知識人だったし、知識人こそが中国の宝であり、力の根元だった。それをやたらに殺してしまったのは民族の背骨を打ちくだいたようなものです。
 一九五八年頃から六〇年頃の「大躍進・人民公社」というのはセットになっているんだけれど、とにかくムチャクチャに働かせて大増産して国の経済力を上げ、一方で田畑をすべて公有にして、収穫をすべて平等に分け与えるというものでした。農民は土地を取り上げられて、言ってみれば共産党の農奴になったわけだから、それは働く気がなくなる。あまり急がせすぎて、つくった鉄もダムもほとんど使いものにならなかった。もちろん徹底的な大失敗で、毛沢東も国家主席をやめなければならなくなった。それで文化大革命で劉少奇(当時の国家主席)を追い落し、復権しようと考えたのだろうけれど、それだけにしてはちょっと騒ぎが大きすぎた。意図がよくわからないところがある。
  (つづく)

中国はもともと「盗賊王朝」だった (2)

 ――毛沢東は歴史上の盗賊たちのやり方に学んだということも書かれていましたね。
高島 革命の出発点として聖地になっている井岡山は、もともと袁文才、王佐という山賊の一味の縄張りだった。そこに湖南の「秋収暴動」(一九二七年)で国民党軍に負けた毛沢東が逃げ込んで、「いっしょに革命闘争をしよう」と言って強引に居すわり、井岡山を乗っ取って袁文才と王佐を殺してしまった。このやり口は、林冲たちが王倫の梁山泊を乗っ取った『水滸伝』とよく似ています。革命後の中国では「井岡山の道」こそ中国革命の正しい道であったと言いますが、たしかに毛沢東は盗賊から帝王への道を井岡山から歩みはじめた。
 毛沢東の「井岡山の道」は盗賊の道そのままです。毛沢東自身、「陳勝・呉広から太平天国まで、大小数百回の農民革命戦争」がやってきたことを自分もやるんだと言っている。それを中国では「マルクス主義の原理を中国の条件に創造的に適用した」というのだけれど、毛沢東は過去の盗賊たちのやり方を教訓にしただけで、マルクス主義とは何の関係もない。いま話に出た王希哲も、「毛沢東という中国書生があれら教条主義者どもよりかしこかったのは、ペテルブルグ蜂起(注 ロシア革命の意)の道よりも梁山泊聚義の道のほうをよくおぼえていたところにある」と言っています。
 ただ、毛沢東は西洋的教養とは無縁ではあったけれど、典型的な中国文化人で、伝統的な教養はありました。彼のように「詞(ツー)」をつくれる中国人というのは二十世紀になるとそう何人もいなかった。「詞」というのも広い意味では「詩(ポエム)」の一種ですが、「詞」も「詩」も日本語だと発音が同じ「し」になってしまうから、日本では「詞」に関しては中国語で「ツー」という。「詞(ツー)」は「詩」よりもさらに規則が厳格で、一行が何字・何行、というようにスタイルが詞題ごとに決まっていて、それぞれのところにどういう音が入るかということまで厳格に決まっている。だから、「詞」をつくるのはすごくむずかしい。向こうの音を知らないと、日本人には「詩」のまねごとはできても、「詞」はとうていつくれない。
 詞題というのはその詞の音調を指し示すもので、何百とある決まった詞題ごとに一つ一つ行数・字数が違うし、ぜんぶ音調が違う。ぼくが本のなかに引いている毛沢東の「沁園春」というのも、内容を意味するタイトルではなくて、詞題の一つです。

〈毛沢東は「詩」ももちろん作っているが、「詞」のほうが多い。そしてその「詞」はたいへんいい。単に上手だというだけではなく、雄渾で英雄の気概があふれている。しかも単に豪放だというのではなくて、ことばの運用のセンスがいいのである。
 一つ、拙訳でご紹介しましょう。数ある作品のなかでも最も著名なもので、題は『沁園春・雪』。一九三六年、延安の作である。

 北国の風光、
 千里、氷はとざし、
 万里、雪は舞う。
 長城の内外を望めばただ茫々。
 大河の上下は、
 突如その流れを止めた。
 山に銀の蛇舞い野に蠟の象駆け、
 もし天の高さにまで登れば、
 陽光に盛装と地味ななりと、
 さぞやなまめくことであろう。
 山河はかくのごとく魅力あふれ、
 無数の英雄がこぞってひざまづいた。
 惜しいかな秦始皇・漢武帝は詩文を解せず、
 唐太宗・宋太祖も風雅に劣る。
 一代のわがままもの、
 ジンギスカンは、
 弓を引いて大鷲を射落すことしか知らぬ。
 みな過去の人となった! 文雅の人物は、
 やはり今日を看よ。

……中国の自然は美しい。昔からあまたの英雄豪傑がこの中国をまるごと自分のものとしようとした。それに成功した人たち、秦の始皇帝、漢の武帝、唐の太宗、宋の太祖、あるいは元のジンギスカン、みな勇力にはすぐれていたが肝腎の文化的教養がなかった。文化的教養を身にそなえながら天下を我がものとした人物はいないのか。――それはほら、きみの目の前にいる男を見てほしい。
 ……
 文化的条件をそなえた人物たることの証拠がまさしくこの詩なのである。「詞」という詩は、一つ一つの詞題(この場合なら『沁園春』)によってことばの配置の規則・制約が異なるというやっかいな形式なのであるが、この作品はそれをクリアーして、殺伐、傲慢になりかねない内容を、優雅で華麗な古典的表現によって統御している。こんな芸当のできる開国皇帝は、古来一人もいなかったのである。(『中国の大盗賊・完全版」より。以下同)〉
 ――過去の皇帝たちと違って、自分は力だけでなく文化的教養も身につけていると言っているわけですね。姚雪垠という作家は大長編小説『李自成』で、二十世紀半ばの中国の形勢と明末の形勢を重ね合わせて、毛沢東を李自成になぞらえているそうですね。正統政権である明朝は国民党の中華民国、李自成軍が毛沢東の共産党、山海関の外にいた満洲人の清は日本の関東軍にあたる。たしかに状況はそっくり。山海関の外から夷狄が中原をねらっているという図式は中国では古代から繰り返されていることですが。
高島 共産党軍は国民党軍にとても勝てそうになかった。ところが、そこに「満洲帝国」を建てたさらに強い日本軍が攻めてきた。弱い者が強い者と一対一で戦えば、これは勝ち目がないが、そこにもう一つ強いやつが入ってきて三角関係になれば、いちばん弱いやつにも勝つチャンスは出てくる。毛沢東はマルクス主義には弱くても、中国の権謀術数の歴史にはくわしいから、無学な李自成のようなドジはふまない。共産党が天下を取れたのは、言ってみれば日本のおかげです。実際、毛沢東も、一九七〇年代になって中国を訪問した日本の政治家に、「われわれが勝てたのは皇軍が応援に来てくれたおかげだ」と言っていますね。もちろん、毛沢東一流のジョークだけれど、これは当たっている。
  (つづく)

中国はもともと「盗賊王朝」だった (1)

 ――ご高著『中国の大盗賊・完全版』の元版、一九八九年に出た『中国の大盗賊』では、最後の毛沢東の章がすべてカットされていましたね。そこまでの歴代の盗賊の話だけでもすごくおもしろいので十分楽しめましたが、文字どおりの盗賊史になってしまい、毛沢東に至るまで盗賊なんだという著者の含意がとんでしまいました(笑)。〈聞き手・歴史通編集部〉
高島 もともとは最後の盗賊王朝としての中華人民共和国と、その創業皇帝である毛沢東について書くはずだったんですけれどね。それまでの歴史上の盗賊皇帝の記述は、その前置きのつもりだったけれど、当時はまだ、中国のことを「盗賊王朝」と言うのはさしさわりがあったらしくて、版元からの要望で、毛沢東の部分はつけたしのようになってしまった。
社会主義国というのはそれ自体が善だという風潮がありましたからね。
戦後三十年間くらいまでは、朝鮮半島でも北はうまくいっていて南の韓国はまちがっているというのが普通の見かただった。それが二十一世紀に入ったあたりから、中国についてはっきり書いてもいいような雰囲気になって、ようやく毛沢東の章が陽の目をみることになりました。
 ――中国には大昔から二十世紀にいたるまでつねに「盗賊」がいた。盗賊というと、日本ではただのどろぼう集団のように聞こえますが、スケールが違いますね。高島さんの定義では、「官以外の、武装した、実力で要求を通そうとする集団」で、数万から数十万人という大集団まである。農村の貧窮によって腹をへらした人間が集まって村を襲い、食糧や金品を奪うというのがおおかたの始まりですが、最初から世直しとかユートピアの実現を目的にして徒党を組む場合もある。ただ、その目的が正義か不正義かは関係なく、秩序を乱すものとして、そういう武装集団を「官」の立場から「盗賊」と呼ぶ。『中国の大盗賊・完全版』でその代表として主に描かれているのは、漢の高祖劉邦、明の太祖朱元璋、明王朝を倒した李自成、清末期の「太平天国」の洪秀全、それにきわめつき最後の盗賊皇帝として毛沢東。
高島 歴史上有名な大盗賊には、たいてい宗教的なよりどころがあります。代表的なのが元王朝を倒した「紅巾賊」。これは弥勒教・白蓮教がごっちゃになったものです。それから、後漢末の「黄巾賊」の太平道(道教の一派)、十九世紀の「太平天国」のキリスト教。
 共産党のマルクス主義も、宗教ではないけれど、集団の宗教的よりどころだった。これも弥勒教や白蓮教と同じように大乱のあとの理想世界の出現を約束するもので、教義の批判や検討は許されなかった。実際、共産党は、マルクス主義を「信仰」せよと常に呼びかけていましたからね。
 ――中国盗賊国家論というのは卓抜な着眼ですね。
高島 はっきり言うと危ないからあまり言わないだけで、そういう見かたをする中国人は多いんです。王希哲という人は『毛沢東と文化大革命』(一九八○年)という論文のなかでわりあいはっきりと書いていますが、国内では発表できないから、香港の雑誌に掲載した。
 もっとも、王希哲もマルクス主義者だから、盗賊を「農民」と言い換え、盗賊が天下を取ることを「農民革命」と言っている。それが中国での決まった言いかたです。
 彼のいうところは本にも書きましたが、要するにこういうことです。過去の農民たち、朱元璋や李自成、洪秀全らの目標は天下を取って帝王になることだったが、毛沢東もまさしくその通りだった。だが、帝王となった毛沢東は何の功績も残さなかった。彼が中国人民に残したのは経済の崩壊と公安テロのみであった。彼が起こしたのはマルクス主義の革命ではなく、朱元璋や李自成と同じ「農民革命」にすぎない。
 ――毛沢東はそもそもマルクス主義を信じていたんでしょうか。
高島 信じる、信じないということも頭になかったでしょう。彼自身はせいぜい中国人の書いた「マルクス主義早わかり」みたいな小冊子を読んだことがあるくらいだろうけれど、まわりにブレインがいる。毛沢東が書いたということになっているマルクス主義の学術論文めいたものは、だいたい西洋的教養を学んだ「洋秀才」の陳伯達あたりが書いたものです。日本の総理大臣の施政方針演説と同じで、毛沢東がそれを読みあげたから毛沢東の著作ということになっている。
 毛沢東に言わせれば、マルクス主義とは『造反有理』の一語につきる。「造反有理」とは、要するに生徒が先生をぶん殴ったり、工員が工場長を袋叩きにしたり、つまりは「上の者をやっつけるのはいいことだ」という意味ですが、そう簡単にまとめられてはマルクスも立つ瀬がない。それだけのことなら何もマルクスを持ち出さなくても、昔から中国の盗賊がやってきたことです。
 ――六〇年代後半の文化大革命当時、日本でもあちこちの大学に「造反有理」の大きな文字が躍っていました。それを学園闘争のスローガンにして、学生たちが角材や鉄パイプや火炎ビンで大暴れして、教授たちの研究室をめちゃめちゃに破壊した。
高島 東大では「造反有理」と書いた大きな看板が正門に立てかけられていましたね。機動隊が導入されるまではそのまま置かれていたんじゃないかな。
  (つづく)  (『歴史通』2012年7月号、ワック)  

Chinese Characters and the Japanese Language (3)

Chinese Characters and the Japanese Language 3

Takashima Toshio

“History” and “progress” are concepts that Japanese learned from the West. In the Western way of seeing things, human societies are all moving down the same path toward a single objective, and differences in location mean that some are in the lead while others lag behind. Of all the things Japan learned from the West, this idea is among the most basic: Humankind is progressing along a single path and that is the path of history. I think this notion was quite new to Japanese.
 Having once been taught this way of viewing things, Japanese of the mid-nineteenth century compared themselves to Westerners and saw how far apart―how far “behind”―they stood. There was nothing to do but move ahead, to catch up and advance to superiority and glory. And Japanese thought that the way to accomplish this would be simple: just do things the way Westerners do. They began to study everything assiduously, from political and economic institutions to industry, transportation, education, and the arts.
 The most important thing to be learned, because it related to everything else, was language. Language, being not only one among the subjects learned from the West, but also the means without which all those things could not be acquired, was also the target of discussion for reform. Even before the Meiji Restoration of 1868, the high-ranking shogunal official Maejima Hisoka (1835-1919) proposed that use of Chinese characters (kanji) be abolished, and particularly in the first two decades following the change of government, various theories advocating radical reform of the language were debated.
 The advocates of language reform could be divided into two main schools. One consisted of those who asserted that Japan should make English the national language of Japan. The best thing to do, they were convinced, was to abandon completely the “inferior” Japanese language and adopt English as the vernacular, both written and spoken. From our contemporary perspective, such a step might seem rather rash, yet there were in fact numerous cases in which weaker peoples switched completely to the language of a dominant people―even today there are quite a few countries where communication in educated circles goes on in a foreign language (for example, English or French) ―so it was not really such an outlandish idea. Nevertheless, it would probably have been impossible to achieve in Japan.
 The other argument on modernization of the language centered on changing to a writing system based on phonetic characters, either alphabetic or syllabic. The biggest difference between Western languages and Japanese is that the former are all written using phonetic alphabets, whereas Japanese depends heavily on Chinese ideograms (in combination with phonetic syllabaries). Advocates argued that since the “advanced languages” use phonetic characters, Japan should also adopt a phonetic writing system, thereby moving its language into the modern age.
 The government made conversion of the writing system to phonetic characters a policy objective. Opinion was divided, however, over what form this should take. There were two camps: those who argued for doing away with kanji (some 40,000 to 50,000 characters could be used) and relying solely on the kana or phonetic syllabaries (hiragana and katakana, 48 of each type), and those who were convinced that the ideograms and the kana should be completely done away with and replaced with roman orthography .
 Implementation of this policy, however, made no progress whatsoever. As explained in the second part of this article (see Japanese Book News, No. 24), thousands of new kanji compounds had been coined in order to translate the many new foreign words introduced in the process of modernization, and many of them were homophones. Without those new words, the westernization that was taking place in the lives and activities of the people would not have progressed. The usage of those new words, moreover, depended on the characters. The word joki, for instance can mean both “steam” and “excitement,” and the meaning can only be determined by the kanji or the context. Given the large number of homophones, confusion would have been rampant. The usages of kanji had dramatically increased by comparison with pre-1868 times; government, industry, scholarship, and education would have come to a standstill without them (to be precise, without the Western words and concepts that had been translated using ideograms). Abolishing the use of kanji might have succeeded, albeit at great sacrifice, if it had been attempted before the end of the Edo period, before the influx of all the new vocabulary, but by the 1870s-1880s, it was too late. This was not entirely evident, however, to many people at the time.

The Language Reform Movement
In the early twentieth century, the government set up an official commission, the Kokugo Chosa Iinkai or National Language Research Council. This council is a government organ whose ultimate objective is to make Japanese into something like a Western language, in short, to confine its orthography to phonetic characters. Save for a short interruption, the council has continued to exist for nearly one hundred years until the present day, and its purpose has not essentially changed. In 1934, its Japanese name was changed to the Kokugo Shingikai (National Language Council, NLC).
 For about forty years from the time of its founding, the NLC drew up repeated proposals and presented them to the government, but none of them became the basis of government ordinances to implement the exclusive use of phonetic characters throughout the country (or even in part of it). Each time such proposals were made, strong protests would arise from various sectors. The council’s recommendations were always divided into two parts. One consisted of reforms of kana usage and rules for writing words based on the way they were actually spoken. The other consisted of proposals to determine the overall number of characters permitted for official use, with a view to curtailing the number of kanji as the first step in ultimately abolishing them altogether.
 The advocates of switching to a kana orthography and those arguing for the romanization of Japanese script and the organizations that backed them continued to be active, and until the end of World War II, the language reform movement was led by the NLC, kana-advocacy groups, and proponents of romanization. From around 1920 onward, representatives of the leading national newspapers made up the largest proportion of NLC members. Newspapers had to be printed with great speed, and since fewer characters would mean greater speed in typesetting and printing, the newspapers were eager to see the number of characters decreased to the lowest possible number. The romanization movement was led by scholars in the natural sciences. Scientists wanted a Japanese orthography in which it would be possible to incorporate Western language terms used in their writings just as they were (in horizontally written, romanized characters). The kana-advocacy movement was made up of people outside of government who disliked kanji for one reason or other.
 What all three groups active in the movement for language reform initially had in common was their conviction that language was simply a tool for expressing one’s will. If language is merely a tool, it made sense to improve it and make it more convenient to use. As research continued, however, people gradually came to realize that language may be used as a tool of expression, but is also inextricably linked to matters of spirit and tradition. Those who had studied linguistics in university were rarely part of the language reform movement; indeed, they were often its outspoken opponents.
 The end of World War II with defeat for Japan presented the members of the NLC with a golden opportunity. Japan has lost the war, some opinion leaders argued, not just because of the deficiencies of its armed forces and economic resources, but because its culture was inferior to that of the West. That cultural inferiority ultimately ought to be blamed, they held, on the shortcomings of the language and the orthography. In November 1945, the influential Yomiuri daily newspaper published an editorial entitled “Kanji Should be Abolished,” which argued that if kanji were done away with and roman script adopted, Japan would become an efficient country like the United States and would progress steadily toward cultural advancement and civilian government.
 In 1946, the U.S. Education Mission to Japan presented a directive to the Japanese government to the effect that it should abolish kanji and adopt roman script. In the same year, the NLC, too, presented another of its proposals on language reform; and this time their proposal, consisting of two parts―adoption of phonetically consistent rules of the syllabary and restrictions on the use of kanji to 1,850 characters―was immediately made into a government ordinance.
 One of the members of the NLC who played a leading role at this time was a man named Matsusaka Tadanori. Born in poor circumstances, Matsusaka had not been able to attend elementary school regularly and had had great difficulty in mastering kanji. Resentment of the barrier presented by kanji led him to champion the kana cause for many years. Ultimately the number of characters for daily use (toyo kanji) was fixed at 1,850, and he was the one who adamantly opposed any attempt to increase it by even one character.
 All government institutions and schools were required to conform with the stipulations of this ordinance and the newspapers as well immediately set out to implement it. The grand issue that had been debated and studied since the mid-nineteenth century was suddenly settled by imposing it upon the government apparatus, the schools, and the press.
 Gradually, scholars and other intellectuals who had left Tokyo during the war began to return, but it was several years after this ordinance went into effect that they began to raise their voices in protest, calling on the Ministry of Education to rescind the language reforms. The MOE had no intention of turning back, but it became clear that complete conversion to a phonetic orthography would not happen as quickly as supporters of national language reform had initially envisioned.
 The NLC continues to exist today, but it is now a very moderate body. No longer driven by the mandate to attain the ideal phonetic form of the language, it does not display much energy regarding fundamental review of postwar language reforms. In the last fifty years, the number of characters permitted for regular use has slightly increased, a step taken as a result of demands from the newspapers―which had been the strongest champions of limiting the number of kanji-saying it was difficult to write articles within the 1,850 kanji limit.

Blessing and Burden of Kanji
Western linguists say that language is basically a set of sounds. Writing is simply the shadow or image of those sounds. A writing system, they say, is not inherent or essential to language, and of course they are correct. Human beings have possessed language for tens of thousands of years, and the invention of writing systems in that long history is relatively recent. Not all languages spoken on earth, moreover, have writing systems. Languages without orthography are not necessarily impaired in any way. Indeed, writing is not indispensable to language.
 But Japanese is the exception to this rule. Probably more than half of its vocabulary cannot be properly distinguished without recourse to a written form of the word. Japanese is in fact a very peculiar language, perhaps the only one of its kind in the world, in that it has so many words that can be empty or meaningless in spoken form alone. One wonders if a language like this can be called healthy. We must conclude, as I hinted in my first article, that Japanese is an odd, one might even say deformed, language. It is a language that matured with all of its deformities intact and functioning.
 It was not always like that. It ended up that way after the Chinese language and writing system were introduced to Japan nearly 1,500 years ago, and the indigenous language ceased to develop. Particularly from the time of the Meiji Restoration in 1868 onward, many home-made kanji compounds were created in the process of translating Western books and concepts, and these words became a dominant part of Japanese life and thinking.
 Today, the words for very concrete things around us (mountains, stars, birds, etc.), and frequently used verbs and adjectives are wago, the lexicon that goes back to indigenous Japanese. For these words, sound specifies meaning. The written word is only its shadow. More sophisticated concepts and terms for things that were brought into Japan after 1868, however, are almost exclusively expressed using the Chinese-character-based kango. These words are of course pronounced, but they are often indistinguishable without reference to the kanji used to write them. When people speak (particularly when the content is of an intellectual nature), they are constantly referring in their minds to the characters with which the words they speak are written.
 The post-Meiji phonetic script movement had resolved to bring the language back to normalcy by imposition of government controls. The leaders of the movement believed that through such drastic measures, they could cause Japanese to be reborn as a “normal” language, like those of the West, in which sound lay at the core and orthography (in phonetic syllabary or roman letters) was (properly) its image.
 Gradually people began to understand that it would be impossible to perform such an operation all at one stroke. The first phase toward this end was the postwar language reform. It is questionable whether Japanese drew any closer to the Western languages as a result; when the number of kanji permitted use was decreased, it definitely became a language with less precision and power.
 Today the movement is in limbo. While the government hesitated, fearing that going any further might actually be rather risky, and wary of the strong opposing voices being raised, leadership of the phonetic script movement passed out of the Ministry of Education and the NLC.
 As we have seen, Chinese characters have been a very troublesome burden for the Japanese language, and yet they are a burden that has become firmly grafted onto the body of the language. Kanji didn’t really suit the constitution of the Japanese language to begin with, and they do not fit any better despite several reforms made over the past centuries. Still, to deprive Japanese of kanji would be to send it back into its infancy; if handled badly, it could be fatal. The burdens imposed by kanji did cause various problems, and yet without them the Japanese language cannot survive. They are both blessing and bane. From now on, too, Japanese can only survive, I believe, by coping with kanji’s mixed blessings. (This article is based on an original essay by the author abridged by the Japan Foundation with the author’s permission. Takashima Toshio is former professor of Chinese literature at Okayama University.)
Japanese Book News, Number 25, Spring 1999, The Japan Foundation 国際交流基金 ) © T.Takashima &The Japan Foundation
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たかしまとしお

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